第4話

 興味が湧こうが湧かざろうが、彼女は目立つので自然と視界に入る。

 セーラー服のスカート丈が長めなので、そういった点でも百合子は他の女子と違っていた。この学校では地味系の少数派女子生徒以外は皆太腿を露わに短いスカートを履いている。


 彼女は稀に、取り巻きを誰も連れずに中庭を散歩する時があった。あの長いスカートのプリーツが風に靡いてはらはらと翻るのを見るのが好きで、気が付けばつい中庭に視線が向いていた。校舎が庭を取り囲むように建ち内側は廊下となっているので、比較的何処にいても中庭を望めたのだ。大きな藤棚に圧迫されている、其れ程広くない庭である。手入れはあまりされていない。年に一度しか草刈りをしないので、石畳の道は隙間から雑草が生え放題で虫なんかも沢山いる。少なくとも愛でるような庭ではない。

 彼女が現れる時間は早朝と決まっていた。朝練がある部に所属している訳でもなく、本当に気紛れに訪れては何をするでも無くぼぅっとしていた。僕は挨拶委員というよくわからない委員会に配属されており、順番制で早くに登校しては校門に立ちひたすら挨拶をするという苦行を強いられていた。なので順番の周期と百合子の気紛れがかち合えば、教室に荷物を置く際、窓越しに朝独特の薄水色の空気を浴びる彼女の姿を拝む事が出来るのだ。


 今日も今日とて挨拶だと荷物を置きに教室へ向かう。そしていつもの癖で廊下からひょいと中庭を覗けば、百合子が細い身体を折り畳むように座り込んでいた。何かをじっと見詰めているようだ。時折藤の樹を見上げ、また視線を地面に落とす。気にはなったが集合時間が迫っていた。なので後ろ髪を引かれながらも校門に駆け付けると、不思議そうな顔で担当の教師に何をしているのかと問い掛けられる。間違えたのだ、自分の番は来週だ。

 がっくりと早起きを後悔して校舎に戻る道すがら、ふと百合子の事を思い出す。もしかしたら、何かを見ているのではなく体調が悪いのかもしれない。藤ではなく廊下を見て、通り掛かった人に助けを求めようとしていた可能性がある。まだ朝は早い。こんな時間に登校している生徒は自分のように委員会活動か部活動で、あまり廊下に人影はない。

 どうせ暇になったのだ、少し様子を見に行こう。そう考え、昇降口ではなく中庭へと向かう。百合子は未だ蹲っていた。恐る恐る近寄れば、ちぃちぃと何かが鳴くような声が聞こえてくる。


「……あら、今日は委員会じゃないのかしら?」


 気配を感じたように振り返り、座り込んだまま百合子は話し掛けてきた。自分の活動を知っていたのかと少々浮かれながらうっかり間違えた事を伝えると、小さく笑い声を漏らしながら慌てん坊さんなのねと顔を綻ばせる。


「この子ね、巣から落ちちゃったみたいなの。雀の子よ、この前やっと孵ったばかりなのに」


 彼女の指し示す先を見れば、灰色の産毛が生えた小さい生き物が地面に蠢いていた。巣はこっち、と続けて指す藤棚の隅にそれらしい茶色の塊がある。成る程、これを見ていたのか。


「さっきまで親鳥が周りをうろうろしていたのだけれど、諦めちゃったみたい。何処かに飛んでいったわ。それからずっと戻らないの。一応最初は離れて見ていたの、でもやっぱり警戒しちゃったのかしら」


 人間の匂いがつくと育児放棄するので触るなと教えてくれたのは祖母だっただろうか。そんな思考を読まれたかのように、彼女は困ったような笑みを浮かべて触ってないわよと弁解する。


「巣から落ちてもそのまま地面で世話する親鳥もいるみたいだから、わたしを威嚇して守ろうとするなら黙って帰ろうと思ってたの。でも行っちゃった。他の卵は孵らなかったし、別の場所でまた巣を作り直すつもりなのね」


 雀の雛は黄色い嘴から弱々しい鳴き声を漏らしていた。彼女は、それに人間がちょっと触ったくらいでは鳥に判別できる程の匂いはつかないらしいわよ、と言いながらその雛を大事そうに拾い上げる。教室で飼おうかと提案すると、とんでもないと首を振られてしまった。


「駄目、鳥獣保護法に違反しちゃう。それに育ててしまったら愛着が湧くでしょう? わたし、野生に返すなんてできない」


 だからこうするの。そう言ってやはり大事そうに両手で雛を包み込み、捻った。

 ぷちりと繊維質な何かが切れるような、小さい音が響く。雛は、もう鳴いていない。


「お墓を作ってあげなきゃ、あの木の根元がいいかしら」


 唖然とする僕に、彼女は藤を指差して問い掛ける。まるで花の種を植える場所でも聞いたかのように。言葉を発せないでいる僕に首を傾げながら、雛だったものを白いハンカチで丁寧に包んで木へ向かう。

 僕が間違っているのだろうか。いや、そんな事はない。普通ならあんな簡単に命を捻じ切るなんて躊躇わずに出来る筈がない。


「ごめんなさい、穴を掘るのを手伝って貰えないかしら。意外と硬いのよこの土」


 手が汚れるのも御構い無しに彼女は墓穴を掘っていく。手伝わないわけにもいかず、一緒に掘った。確かに硬い。ある程度掘り進めて、彼女はハンカチを整え直してからそっと穴の中に横たわらせる。


「木綿だから雛と一緒に土に還るわね。そしたら藤の樹に栄養がいって、綺麗な花が咲くわよ」


 手馴れている。憐れみの感情だけで、小さな生を終わらせた。雛を自然の摂理の中に捻じ込んでやったのだ。それが当たり前のように。


「可哀想だけれど、親に捨てられた子供は死ぬしかないのよね。母がいつもそう言っていたわ」


 母親がそんな事を我が子に教えているのか。だから彼女は教えに従って、殺した。それは教育ではない、まるでおまえも親に捨てられたら死ぬしかないと脅迫されているようだ。

 もしかして母と仲が悪いのかと遠回しに聞けば、土を被せ終わり手についた土を払いながら彼女はまた困ったように笑う。おかしな人ねぇと呆れられた。僕がおかしいのか。


「わたし程お母さんに愛されてる子供はいないわよ、あなた剣山で刺された事ある? わたしは何回もあるわ。うちの母、生け花の先生なの」


 言っている意味がわからない。愛されていると、剣山で刺されるのか?

 伝統文化を学ぶ授業でちらりと見たあの針の束を思い出す。生け花で使うとすれば、それしかないだろう。もし本当に刺しているとすれば、虐待だ。冗談だろうと引きつった頬を必死に緩ませる。百合子は、少々気に障ったようだ。


「何故そんなに疑うのよ、嘘なんてついていないわ。そうだ、証拠見せてあげる。ちょっとこっち来て」


 なんの掛ける言葉も見つからず、手を引かれるまま藤の樹陰に二人で隠れた。なだらかに広がる波のような変な幹の形をしているので、下に潜り込めばうまい具合に死角となっている。学校創立時からある年寄りの樹だ。頭をぶつけないよう地べたに手を付いてしゃがむと、雑草がちくちくと煩わしく刺さった。


「ほらここ、見えるかしら。ちょっと恥ずかしいけれど、穴掘るの手伝ってくれたから特別よ」


 言葉とは裏腹に恥ずかしがる素振りも見せず、するするとスカートをたくし上げて白い太腿が姿を現し始める。慌てて止めようと伸ばした手は、それが視界に飛び込んだ瞬間ぴたりと動けなくなってしまった。

 赤黒い、丸い痣だ。

 地面に膝をついた彼女は、右太腿の裏を見やすいように腰を捻って晒している。ぽっかりと日の丸のように浮かぶそれは、酷く痛々しい色をして肌に焼き付いていた。


「ね、本当に刺してるでしょう? 母がとても疲れているときに気分転換でやってくれるのよ。おまえが可愛いから、可愛いから、って呟きながらね、何度も何度も同じ場所に針の先をぐりぐりって押し付けるの」


 うっとりとスカートを握り締めたまま頬を紅潮させて、最初は丸い水玉模様だったのよと百合子はとても誇らし気に言う。身動ぎする度に、黒髪の流れる音がさらさらと耳に残った。

 異様な光景だ。教師にでも見咎められたら、停学物かもしれない。下着が見えるか見えないか際どく揺れるスカートの裾に、そういえば彼女の歩く後ろ姿が好きだったとぼんやり思い出す。

 はぁ、と短い溜息を漏らして、百合子は再び僕の右手を引いた。


「母がね、掴みやすいように髪も伸ばしているの。わたしの髪の毛を引っ張って、抱き締めるようにして剣山を刺すの。ぎゅうって、偶に息が出来なくなるくらい。視界の端がじんわり黒くなって、くらくらするわ。そうするとその後、父も凄く優しくなるの。母が寝た後にわたしの部屋へ来て、内緒でたくさん愛してるって囁いてくれる」


 麻薬のようにじわじわとよくわからないものが百合子の声を通して脳に染み込んでくる。促されるままその痣に触れると、少し硬くざらりとした感触が指先を伝ってきた。緊張で、ぴりぴりと身体の末端が痺れる。痣との境目が、縁の地肌が、驚くほど柔らかくて気持ちいい。


「……どう? わたし、愛されてるでしょう」


 その呟きにバシリと現実に引き戻され、あまりの距離の近さに飛び退いて距離を取った。尻をついて後退るような、間抜けな格好だ。突然尻餅をついた僕に驚いたような顔する彼女は、暫しの間を置いてから小さく笑った。

 ばさりと、スカートが翻りながら元のように彼女の脚を隠す。もう行かなきゃね、なんて言いながら、百合子は軽く手を振ってゆったりと木陰を後にする。

 さわさわと雑草が風に揺れる音がやけに大きく聞こえた。今のは、今体験したのはなんだったのだろう。夢でも見ていたのか。

 不恰好に樹の下から這い出ると、根元に真新しい掘り返した跡が残っていた。おざなりに墓石代わりの小石が置かれ、手を見れば爪に土が詰まっている。そうだ、雀の子が死んだのだった。

 そんな事も些細に感じる程の濃密な彼女の空気に触れ、予鈴のチャイムが鳴るまで情けなく放心した。彼女のスカートが長い理由を、恐らくこの学校で僕だけが知っているのだ。まるで、選ばれた気分であった。

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