第3話
橋田が登校拒否となり、暫くが経った。
今やイジメがあったとは思えない程教室の雰囲気も良く、百合子は相変わらず大人気でいつも大勢のクラスメイトに囲まれていた。
そんな存在すらも忘れられた橋田を思い出し、一人憂鬱な気分になる。放課後、彼女の家に行けと母から言いつけられていたのだ。家が近所で母親同士の仲が良く、引きこもってしまった娘の相談を受けていたらしい。
橋田とは小学生時代はよく遊んだが、思春期を境になんとなく遊ぶのを止めお互いに距離を置くようになり、今では滅多に話さない程度の間柄である。なので様子を見に行ってあげなさいと言われても、あまり助けにはならないだろう。
けれどそんなこと、母親達には関係ないのだ。失意のまま時間は進み、重い足取りで懐かしい彼女の家へと向かうしかない。
久しぶりに会う橋田の母は、酷くやつれていた。彼女は全く部屋から出ようとしないらしい。何を聞いてもだんまりで、魂が抜けたようだと力無く笑っている。
担任に相談しても、イジメや問題など何も無かったの一点張りで話にならないそうだ。当然だ、彼女は虐めていた側なのだから。橋田が消えて嫌がらせも無くなったのだから、クラスメイト達も彼女が犯人だったのだという事で話は終結している。
しかし直接彼女の母親に事実を伝えるのは憚られ、結局言葉を濁すに留めた。今日だけ橋田に会い後は距離を置こう。そう心に誓い、案内された扉の前に立つ。
意外に何の抵抗も無く入り込めた室内は、空き巣でも入ったかのように荒れていた。薄暗い部屋の片隅に頭から毛布を被った物体が壁に寄りかかっている。あれが、橋田なのか。
何と声を掛ければいいかわからず、やぁと適当に挨拶をした。毛布の塊は僅かに身動ぎし、そっと隙間から見覚えのある切れ長の瞳が覗く。怯えるようにきょろきょろと目だけで周囲を見渡し、室内にいるのが僕だけだと確認した上でぽつりと細い声を漏らした。
「……なんで、来たの」
随分な挨拶だ。何故と言われても、母親に言われて来ましたとはとても口に出せない。馬鹿にされると思ったのだ。
お互い黙り込んだまま気不味い空気が流れる。それを破るように、橋田は弱々しくも苦虫を噛み潰したような低い声で再び呟いた。
「あいつ、化け物だよ」
あいつとは、百合子の事か。
「わたし、倉庫に呼び出されたんだよ。もう知ってるんでしょう? わたしがあいつに嫌がらせしてたの。だから、もうやめてくれって泣いて頼まれるのかと思ったの。けど違かった」
身を守るようにきつく毛布を身体に巻き直し、話しを続ける。小さな声だ、母に廊下で立ち聞きされるのを心配しているのだろうか。
「わたしあいつの体操着切り刻んだの。カバンも教室の水槽に漬けた。何されても平気です、みたいな態度が気に入んなくて、それで……やり過ぎたかもってちょっと怖くなってたから、崎山が泣いたら関わるのやめて無視するだけにしようって思ってた。でもあいつ、笑ってたんだよ」
嫌な呼吸が聞こえる。ひゅうひゅうと、嗚咽の直前のような空気を取り込めきれていない音だ。
思わず落ち着けと言いながら近寄ろうとすれば、半端に彼女へ差し出した手を強い力で弾き返される。真っ赤に充血した瞳は僕ではない何かを恐れていた。周りが見えていないのか。
「あ、あいつ、笑って、体操着の切れ端差し出してきて……ハート形だって、凄い嬉しそうに見せてきた。狂ってる。わたしに告白されたと思ってるんだ、ここまでしてもらわないと気付けなくてごめんなさいって、馬鹿じゃないの? あり得ないでしょ」
あの天使のような微笑みが脳裏に浮かぶ。橋田はその笑顔に畏怖を感じたのか。その恐怖を思い出したかのように、段々と口調が早くなっていく。僕が戸惑って何も言えずにいるのも御構い無しだ。本当は、誰かに話したくて仕方がなかったのだろうか。
「気付くのが遅れたお詫びに、わたしの事たくさん調べたって言ってた。誕生日とか、血液型……好きな色とか食べ物、動物、服装やネイルに化粧品メーカーアイドル歌手、全部。ど、どう接して貰うのが好きかは、わたしがよく読んでる少女漫画で確認したって……全部合ってるの。あいつが教科書にしたって言う漫画、全部そこの棚にあったの。漫画読むなんてわたし誰にも言ってない。けど知ってた、なんで……」
ついにはらはらと泣き出してしまった。部屋が荒れているのは、隠しカメラでもないかと探した跡なのだろうか。本棚に整頓されていたであろう漫画本達は乱雑に床へぶちまけられている。どれも、学園物のきらきらとした少女漫画だ。
「漫画では相手が男の人だけど、わたしを好きなら同性でも大丈夫よねって、あの気取った言い方で、お、押し倒してきて……もう、怖くて、わたし腰抜けちゃって、凄い謝ったのに」
いよいよ過呼吸になりそうだ。対処法なんて知るわけ無いので、ただ落ち着けと繰り返すしかない。毛布の下で、ばりばりと爪で頭を掻き毟る音がする。厭な物を見せられているような罪悪感が胸焼けのように上がってくる。やはり、来るべきではなかった。
「謝ったんだよ、何回も! 虐めてごめんなさい、許して下さい、って! でも、伝わんなかった。何で謝るのって、本当にわからないみたいな顔して、橋田さんの好意を無下にしていたわたしが謝らなきゃなんて言いやがった! もう、そういう事で良いから許してって言ったのに! あいつ、それ聞いてもっと嬉しそうな顔で」
これ以上は危険だ、完全に錯乱している。見切りをつけて彼女の母に助けを求めようとドアへ向かえば、縋り付くように引き止められる。ちらりと見えた腕は、小枝のように痩せ細っていた。
「誰にも言わないで! もう関わりたくない! お母さんにも、誰にも黙っててよ!」
毛布から姿を現した彼女の目の下には真っ黒な隈が濃く刻まれていた。化粧っ気のない顔を見るのが久しぶりで、こんな顔だったかと場違いながらも疑問符が浮かぶ。
誰にも言わない、約束する。そう伝えれば、やっと安心したようにずるずると床に蹲っていく。子供のように、静かに泣き出した。下手に昔から知っているので、こちらも精神がおかしくなった同級生を見て泣きたくなってしまう。
ようやく部屋から出ると、廊下では彼女の母親が心配そうにこちらを見詰めていた。やはり立ち聞きしていたのだ。精神病院に行くのをおすすめして、後はどうにも出来ないと言い逃げる様に飛び出した。
百合子は、一体どういうつもりだったのだろうか。復讐でないとするならば、やはりいかれているのか。息が切れて立ち止まり、熱気で曇った眼鏡をシャツの裾で拭いながら考える。復讐でも嫌がらせでもない純粋な好意からの行動ならば、橋田が言うように狂っている。
次の日教室で目にした百合子は、大勢の人に囲まれてやはりとても幸せそうに笑っていた。同性のクラスメイトを害したようにはとても見えない。百合子は、僕が望めば同じ事をしてくれるのだろうか。
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