第2話
実はある日、橋田と百合子が共に体育館倉庫に入るのを見たのだ。部活動も終わり、生徒も大体が帰宅した夕暮れ時である。
倉庫は校庭の片隅にひっそりとあり、盗まれるような高価な器具もなかったので鍵なんてついていないのだ。普通なら不良の溜まり場にでもなりそうなものだが、当時は皆新しく出来たコンビニの駐車場で馬鹿騒ぎするのが通例となっていた。だから、その場所は余程の用事がない限り放課後は誰も寄り付かなかった。
自分はその時陸上部の新入部員であり、最後まで片付けをして帰宅しようとしていた所であった。しかし携帯電話を何処かで落としたらしく、確認する為に友人の部員と別れ一人倉庫に戻ったのだ。うっかり先輩にでも拾われたら、部活動中に携帯を所持していた事をどやされる。ロッカーにしまう規則だったのだが、その日は友人と遊びに行く日程を決める連絡を取り合っていたのでこっそり隠し持っていた。恐らく倉庫の陰で確認した時に落としたのだろう。そう思い、部室ではなく倉庫へ行ったのだ。
すると、見覚えのある長い黒髪の後ろ姿が目に入った。先を歩いていた橋田らしき人物を促し、百合子が倉庫の扉を静かに閉めている。慌てて隠れながら、二人が完全に姿を消すまで待ち息を殺して駆け寄った。イジメの事実を知っていたので、百合子が危害を加えられると思ったのだ。今飛び出しては橋田にしらばっくれられる可能性がある。様子を伺い、悲鳴でも聞こえてから飛び込もうと待機した。しかし予想に反して倉庫内は依然静かなままである。言い争うような声も物音もしない。中で何が起こっているのだろうか。気になり暫く周囲をうろうろと歩き、ふと光取り用の窓を見つける。ここから中が覗けるかもしれない。
高い位置にあるので、近くにあったボール入れのケースを積み重ねて注意深くのぼる。苦労して覗き込んだ内部は灯りも何もついていないので薄暗かった。西日が当たる壁にも窓があるので、そこから差し込む赤い夕焼けの光を頼りに目を凝らすしかない。
そうして二人の影を探していると、まず自分の携帯電話が高飛び用のマットの側に落ちているのが見つかった。画面が反射してわかりやすかったからだ。そして、次にそのマットの上に折り重なる二人の姿が目に入った。百合子が、橋田を押し倒している。
目を疑った。これが逆に橋田が馬乗りになっているのであればわかる、業を煮やして直接暴力を振るっているのだろうと見える。そしたら、直ぐにでも中に押し入り二人を引き離していただろう。しかし上にいるのは百合子だ。硬直している橋田を細腕で押さえ込み、あの長い髪が橋田の顔を隠すように垂れ下がっている。
なんだ、一体何をしているのだ。するすると黒髪が流れて、二人の頭の影が完全に重なった。身動ぎして抵抗する橋田の脚が空を蹴る。そしてゆっくりと顔を上げた百合子は、赤く照らされたあの可愛らしい微笑みでちらりと此方を見る。
目が、合った。完全に自分の存在に気付いていた。
まるで見せ付けるように、唇に指をあてる仕草をする。それを目にした瞬間、足場にしていたケースから飛び降り全力で逃げた。何故だか、酷く恐ろしかった。
次の日から、橋田は学校から姿を消した。そして百合子はわざわざ小さな手紙を机の中に忍ばせて校舎裏まで自分を呼び出したのだ。これが昨日の出来事を知る前なら飛び上がって喜んだだろう。今は、後ろめたい。
恐々昼休みに指定の場所へ向かえば、百合子はあの携帯電話を携えて待っていた。持ち主すらバレていたらしい。
「これ、キミのでしょう? 無いと困ると思って、拾っておいたの」
鈴を転がすような声で笑いながら差し出している。礼を言い、動揺を隠して受け取ろうと手を伸ばした。しかし、彼女はふいとそれを取り上げて悪戯っぽく瞳を細める。
「昨日の事、内緒にしてくれなきゃ返さない。言いふらすような人とは思っていないけれど、万が一噂にでもなったら橋田さんが可哀想よ。彼女、恥ずかしがり屋さんなんだから」
うふふと再び笑い、どうかしらと首を傾げた。仔猫のような、無邪気な笑顔だ。
勿論、吹聴するつもりなど微塵も無い。百合子がイジメを受けていたのは事実だ。それがどんな手段であれ、仕返しをする権利が彼女にはある。しどろもどろになりながらもそう伝えると、彼女はきょとんと大きな瞳を丸くした。何を言っているのかわからない、と言いたそうな表情。こちらも困惑して暫しの沈黙が流れる。
「……わたし、イジメなんて受けていないわ。橋田さん、わたしの気を引きたくてあんな事してたのよ。昨日、倉庫でそう聞いたもの。だから気付かなかったお詫びをしようと思って、それで」
何を言っているのかわからないのはこちらの方だ。あれは確かに、イジメであった。橋田の事は小学生の時から知っている。歳上のイケメンが好きな、少々意地の悪い普通の女子高生だ。いくら百合子が老若男女を虜にするような可憐な容姿をしていても、嫉妬こそすれ好きな女子を虐める小学生男子のような行動を起こす筈がない。
けれど彼女の声色は至って真面目であった。きらきらと陽射しを受けて光る目を真っ直ぐ向けて話しを続ける。
「わたし女の子を好きになった経験が無いから、気付くのが遅くなっちゃったのよ。橋田さんには本当に悪い事をしたわ。今日学校に来ていないのだって、きっと恥ずかしいからに決まってる。今度改めて謝りに行かないと」
ぶっ飛んでいる。彼女は、ただひたすらに無邪気であった。
それ以来だ、自分がこの百合子という人物に多大なる興味を寄せる事になってしまったのは。これまでの邪な感情では無い。新たな、純粋な好奇心だ。
彼女は他人の行動理由に全くの悪意を感じていない。一体どういう人生を歩めば、こんなにも他人に嫌われるという可能性を知らずに生きていけるのだろうか。まるで誰からも愛されていると信じて疑わない赤ん坊のようだと、その時は思った。何故だか守らなくてはいけないような焦燥を抱く。そう、百合子はまるで、赤ん坊のように、壊れやすそうに見えたのだった。
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