百合子の為に

麻之助

序章、第1話

 宗教とは何だろうか。

 教えか戒めか、救いなのか生活の知恵か。日本という特異な国に生まれ、僕は今まで勉学や慣習でしか宗教を顧みた事がなかった。

 我が家に特定の信仰する神など無く、正月になれば神社へ初詣に行くしクリスマスも祝う。葬式は仏式で行い、近頃はハロウィンも大変な盛り上がりだ。これは大多数の人がそうだろう、無宗教徒なのである。信じる神がいなくて生きるが辛くならないのかとクリスチャンの家系の友人に問われた事があるが、逆に戒律に縛られる方が生き辛いと思っていた。

 そもそも日本には八百万の神がおり、皆好き勝手に都合の良い時だけ当て嵌まる神を信仰しているのだ。何か良いことをすれば神様が見ていてくれると邪心するし、非常に困ったときだけ神様仏様と必死に祈願する。自由なのだ、我々日本の若者は。宗教とは、救いが欲しい人にだけ必要なものと考えている。自分には必要ではない。様々な宗派の楽しく都合の良い所だけを寄せ集め、だらだらと生きている。

 それが間違った事とは露ほども思わないし、咎める人も周囲にはいない。それがこの国の文化だろう。そう、思っていた。

 しかし、今日初めて、特定の神を信仰しようと心に誓ったのである。大切な大切な崎山百合子を神と定め、自ら宗教を新興した。気色の悪いストーカーのようだが、至って真面目に考えた末の決断である。彼女は、正に神と呼ぶに相応しい人物だ。ストーカーには恋愛感情や偏愛的な思考が少なからずある。しかし、そんな不埒な感情を彼女に抱く事は出来ない。敬愛する神様にそのような愛欲を捧げるなど、そんな輩、少なくとも僕は見た事がない。

 僕にとって百合子は、そういう存在なのだ。


 彼女と初めて出会ったのは、このなんの変哲も無い県立高校の入学式である。同じ中学校からそのまま同級生達が殆ど流れてくるような、特別頭が良くもなく悪くも無い田舎の学校だ。そこに、彼女は突然現れた。

 父親の転勤で、中学を卒業した機会に引越してきたらしい。町の外れに比較的大きな家が建ったので友人達と多少話題にはなった。そこが、彼女の家だという。転勤族ではなく父親がこの町に支社を構える大会社から監督を任されたそうだ、なのでほぼ永住するだろうとは、噂好きの母が仕入れてきた話である。

 お嬢様らしい、丁寧な話し方をする子であった。初めはクラスメイト達も彼女の雰囲気に圧倒され、遠巻きに眺めているしかなかった。それ程異質な存在だったのだ。黒目がちな瞳は驚く程大きく、長い睫毛に縁取られて小動物のような愛らしさを醸し出している。長い髪は黒く艶めき、歩く度にさらさらと揺らめいて甘い匂いがした。白い指を唇にあてる癖も、彼女ならとても様になる。誰が見ても美少女だと口を揃えるような子であろう。当然、校内を歩けば振り返らぬ者はいない。まだ春は始まったばかりであるが、早々に彼女は学園のマドンナとして降臨したのだ。


 そしてイジメが始まった。

 妬みである。一部の女子が、彼女に嫌がらせを始めたのだ。確か、百合子に一目惚れしたという理由で男に振られたクラスのファッションリーダーの橋田が主犯であった。数人の取り巻きがいる、昔から気の強い女だ。

 初めは教科書を捨てる、靴を隠すといった陰険な虐めから始まったので、暫く経ってから隣の席である僕がやっと気が付いた程度のものだった。橋田の取り巻きである矢本が彼女の教科書を盗るのを偶然見たのである。気弱で虎の威を借るような性格をしていたので、無理矢理やらされたのだろう。

 困っているなら力を貸すと、若干の下心が有りながらに百合子へ告げた。その頃は自身も歳頃の男子であり、ここで恩を着せれば後々仲良くなれると思ったのだ。なので犯人を注意するより先に百合子へ接触した。彼女はいつも自ら人に話し掛ける事はなく、周囲が必死に話題を探して彼女と話をしようという状態であったから。

 そんなクラスメイト達の態度も橋田は気に入らなかったのだろう。僕が手助けを断られた後、一気に虐めは加速した。

 他のクラスメイトに気付かれる事も厭わず、カバンが水浸しになったり体操服が切り裂かれたりしたのだ。当然騒ぎになる。男子達は女子の仕業と決め付け、虐めの主犯を知らない女子達はそんな男子の言い草に反発し、クラスは二分化した。阿鼻叫喚である。百合子は、ただ黙って静かに座っていた。先述通り自分だけが橋田達の仕業と知っていたのだが、それは口止めされていたのだ。他でもない、百合子本人にだ。

 体操服の切れ端を笑顔で見せ、怯える様子もなく、ただにっこりと笑い内緒ねと人差し指を立てられた。とても被害者とは思えない、まるで悪戯っ子のような可愛らしい微笑みで告げられて、僕はその通りに黙るしかなくなってしまったのだ。今思えばただの強がりの表情だったのかもしれない。しかし約束通り、僕は沈黙を貫いた。


 そして橋田は突如学校に来なくなり、その日をもってイジメはぱったりと終結を迎える。百合子は何故か、残念そうな顔をしていた。


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