第九夜 【管巻蛇】
管巻蛇・前編 ~山吹の章~
○~〇~〇
関東地方のとある県、その最北端に『七ツ闇』という町がある。
その中心部の丘の上、そこにはかつて神社があった。
だがその神社、時代とともに忘れ去られてしまった。
そしてすっかり廃れて、今は町で唯一の診療所へと変わっていた。
神社を改良したその診療所、その名を『七ツ闇クリニック』という。
だがその診療所には近所の子供以外は誰も寄り付かない。
そのクリニックには昔からある噂が絶えなかったからだ。
その噂いわく『あの診療所には物の怪がでる』というのである……
○~〇~〇
🌸
「先生、患者さん来ませんね……今日も」
今日のクロコはビジネスウーマンスタイル。グレーのスーツにフリルの入ったブラウスを合わせ、ストッキングにハイヒールと、まるで税務署からでも来たような格好だ。
ちなみに税調査が入ったことは一度もない。彼らが求めるものはここにはないし、彼らもたぶんそれを分かっているからだろう。
「まぁ毎度言ってますけど、患者さんが来ないというのは医者にとって、喜ばしいことなんです」
クロコがピクリと震えた。そして一気に爆発した。
「先生! ついに赤字突入ですよ? もうお尻に火がついてますよ? この間の二千円札が四万円分、それを入れても月末までにあと十二万円は必要なんですよ?」
🌸
いつもの私ならここでうつむいてしまうところだろう。
だが今日の私はいつもとは違う。
なぜなら私には秘策があったからだ。
「まぁ落ち着いてください、クロコ君」
私はツッとメガネを上げ、フッと余裕のある笑みを浮かべる。
「落ち着いてなんかいられませんよ!」
クロコはぷっくりと膨れている。まぁそれだけ親身になって心配してくれているということ。
あまり
🌸
「実は大金が入るアテがあるんです」
その言葉にクロコのクリクリとした目が大きく開かれた。まさに驚愕している。うんうん。しかしすぐに疑うような目つきに変わった。
「なんですか、それ? 本当に大金が入るんですか?」
まぁ振り返ってみれば、これまでそう言って裏目に出たことが多かった。小判猫のスクラッチの時もそう。正月のお賽銭の臨時収入も。だが今回は確実なのだ。
「今日はこの七つ闇クリニック、年に一度の稼ぎ時! なんと町内会開催の『健康診断』という大イベントがあるんです!」
私はそう告げて白衣をバッと脱ぐ。中から現れたのはクリーニングからおろしたばかりのYシャツにスラックスだ。もちろんネクタイも締めている。そして仕上げにジャケットをバッと羽織る。
「お医者さんの仕事なんですね!」
クロコは早くも感動で目を潤ませている。
うんうん。安心したのだろう。やはり子供は単純でいい。
「もちろんです。簡単な健康診断ですが、身体測定をいくつかと、一人一人に問診、健康相談というか面接みたいなものですね、そういうのをやる予定です」
「すごいですね、先生! ついにお医者さんらしい仕事ができるんですね。なんかあたし、嬉しくて涙出てきちゃった……」
いや、泣くほどのコトじゃないとは思うのだが、クロコがあまりに感動するものだから、私もなんだかもらい泣きしそうになってしまう。
🌸
「それで、何人くらいの患者さんが来るんですか?」
「まぁ病気ではありませんので、厳密には患者さんではないのですが……今年の参加者は全部で四十人ほどを予定しています」
「四十人もですか! すごいじゃないですか!」
「そうでもありませんよ……」
とはいえ、何といっても一年一度の稼ぎ時。
一人当たり五千円としても……フフ……ざっと二十万ですか……フフフ……もし病気が見つかってウチの患者になるかもしれないし、そうなったら……フフフ……おっとっと、笑うなんてちょっと不謹慎だな。
「ふふ。先生、なんか表情が邪悪になってますよ?」
そういうクロコも頬をゆるませ、嬉し涙をぬぐっている。
そう、クロコにはこれまで、さんざんお金のことで心配をかけてきた。
きっと安心したせいで気も緩んでいるのだろう。
🌸
「ということで、これから私は町内会館に出かけます」
「分かりました! 先生頑張ってくださいね!」
「もちろんです! 今日は年に一度の晴れ舞台ですからね」
一応自分でも姿見を確認してみる。切れそうにノリの効いたワイシャツ、ちょっと派手だが渋めの茶系のスーツ、革靴もカバンもピカピカに磨いてある。もちろんメガネもピカピカにした。もうどこから見ても、やり手の医者だ。
「……ところでクロコ君。あなたにはしばらく留守番を頼みたいんです。もし患者さんが来るようなら、町民会館に来るように伝えてください」
「まぁ来ない、とは思いますけどね」
「もちろん万一の時の話です。町民会館の電話番号は、そこのカレンダーに書いてありますから」
「分かりました! ん?」
と、クロコが急に立ち上がり、てててと歩いて私のすぐ前に立つ。
「先生、そのまま少しかがんでください」
「え?」
といいつつも、言われた通りにかがむと、クロコは私のネクタイをササっと整えてくれた。
「ネクタイが曲がってましたよ」
「おや、自分ではなかなか気づかないんですよね。ありがとうございます。ということで、とにかく出かけてきますね」
「ハイ! 先生、いってらっしゃい!」
🌸
さて町内会館は七つ闇町の中心部にあり、その外観は一般の民家と変わらない。ただ表札の代わりに、大きな木の板が立てかけてあり、
【七つ闇町 町内会館】
と墨で、でかでかと書いてある。
「さて、今年も頑張りましょう」
私は張り切って会館の扉をガラガラとあける。
玄関にはすでに靴がずらりと並んでいた。革靴にパンプスに運動靴、運動靴は子供サイズのものが、けっこう混じっている。とにかくたくさん来ている。実にいい出だしだ。
「こんにちは! 医者の山吹です」
靴を脱いで板張りの廊下を歩き、大広間のふすまを開ける。
そこにはすでに町の人たちがずいぶんと集まっていた。
「おお、センセ、久しぶりじゃなぁ」と老人たち。
「おう。先生、元気そうじゃねぇか!」と主に漁師の人たち。
「センセ、ご無沙汰してまーす!」とおばちゃん連中。
「センセー、待ってたよ!」
満面の笑顔で待っていたのは、いつもクリニックに遊びに来ているマサヒコ軍団だ。さらに何人か知らない子供の顔もある。
🌸
さて、まずは皆さんにご挨拶だ。とにかく好感度が上がるように爽やかな声を作って、簡単にスピーチをする。
「お久しぶりです。今年もみなさん元気そうで何よりです。ですがこうして毎年、いいですか、毎年、健康診断をすることが大事なんですよ」
私の言葉をみんながちゃんと聞いている。
うん。今日の私は実に医者らしい!
「さて、例年通りですが、二階が簡単な休憩所です。そこで着替えなんかも出来るようになってます。まずは男性の方から身長と体重の測定をしていきます、それが済んだら……」
と、まぁ健康診断の流れを説明していく。とはいえ内容は簡単だ。身長と体重を計り、さらにメタボ対策の胴回りを計る。基本的に測るのはそれだけ。それから私が簡単に問診、つまり町の人と健康についておしゃべりを行う流れだ。
そう、これは簡単な健康診断。本格的な健康診断が必要なら、隣町の総合病院でやればいい。そういうのが面倒な人、基本的に自己負担無料を希望する方々、がここに集まっている。
うん。病院に寄り付かないのも当然だ……みんなちゃっかりしてる。
🌸
さて私はさっそく診療を開始する。
まずは爺さん連中をまとめて計測、各自に印刷したシートとバインダーを渡してあり、身長や体重などは自分で書き込んでもらう。
「はーい、ユウマお爺ちゃん、身長は一五七センチ、体重は四二キロ、胴回り六〇センチ、ちゃんと書き込んでくださいね」
「アァー? センセ、もっとゆっくり喋ってくれんと」
「あー、そうでしたね」
私は鉛筆を取りあげて、さっさと自分で書き込む。
時は金なり、タイムイズマネー。爺さんたちをまともに相手にしていると日が暮れてしまう。
次は漁師のアンちゃんと船長連中だ。
「サクラさんは身長一八二センチ、七五キロ、ウェスト九七センチですね」
「おー、ちょっと太ったかねぇ?」
「ちょっとぐらい平気ですよ。それより今の数字、読めるように書いてくださいよ、後で打ち込むんですから」
などと、ブラックジョークも交えながら、ざっと二十人ほどをまとめて計測。
計測が終わった順に一列に並んでもらい、今度は聴診器で心音と肺の音を聞き、近頃の体調を聞きながら問診をしていく。
🌸
「はーい、キサラギさん、去年悪かった腰の調子はどうですか?」
「あー、ワシ、腰悪かったっけ?」
「忘れてるなら大丈夫ですね。でもボケには気を付けてくださいね」
「またまた、先生冗談キツイわなぁ」
「タカオ船長は……まあ見た目で問題ないですね」
「わはは。そう言わずちゃんと診察してくれって」
バシッと肩を叩かれたりする。でも日焼けした肌、豪快な笑い声、丸太のような腕。みるからに元気いっぱいだ。まぁ一応、心音を聞く。
うん。力強い。もう健康の固まりみたいなものだ。
「ハイ、やっぱり健康そのものですね」
こんな調子で約二時間。男性陣を見ているだけでもどっぷり疲れてくる。だがまぁとにかく前半戦は終わった。
「さて、男性の方の検診はコレで終了です。着替えのない方は、このまま帰っていただいて結構です」
私は聴診器を首にぶら下げ、休憩のため二階にあがる。
🌸
二階では年齢も様々な女性陣があちこちでグループを作り、おしゃべりに興じていた。さらに子供たちは子供たちでまとまり、ずいぶんとテンションも高くはしゃいでいる。
「あらあら、先生、お疲れ様ぁ。今、お茶淹れるから空いてるトコ座っててェ」
おばちゃん連中はあれや、これや、と気を使ってくれる。
「はい、ではお願いします」
わたしが空いている椅子の一つに座ると、さっそくマサヒコたちがやってくる。というか絡んでくる。
「ねぇセンセイ、今日はおやつ持ってきてないの?」
あたりまえでしょう。と言いたいところだが、彼らがそう言ってくるのは分かっていた。そう、キミたちの思考パターンは完全に把握しているのだよ。
ということで内ポケットからズラッとつながった駄菓子を取り出す。今日のおやつは個別包装された『うおっとっと』だ。海に住む魚やヒトデなんかの形を模したスナック菓子だ。
「すげぇ、先生、準備万端じゃん!」
マサヒコは私からそれを受け取ると、さっそくみんなで分けた。それからその一つはちゃんと私に持ってくる。同時にお茶が私の前に置かれる。
うん。まさに子供たちから愛されている町医者の雰囲気。これをこの場にいる町民の皆さんにアピールする、そのためのお菓子だったのだ!
「あらあら、先生、大人気ねぇ」
「いやいや、なんだか妙になつかれちゃって、ハハハ」
わたしは気分よく『うおっとっと』のスナック菓子を手に広げ、サメからにしよう、いや、イカからだな、なんて思案しつつ塩味を楽しむ。
🌸
「そういえば、先生、今度お祭りあるの知ってた?」
マサヒコが唐突にそう言ってきた。
いや、全然興味ないけど。
とはいえ、ここは町内会のおばさま達の目もある。
「おや、知りませんでした。実に興味深いですねぇ」
「俺たちここで笛とか太鼓の練習してんだぜ」
振り返ると、板の間にいろんな和楽器が置いてあるのが見える。和太鼓に、三味線、笛、鈴、他にもなにやら、かにやらと、種類が揃っている。
「センセ、あたしは鈴の係なの!」
アキナちゃんがてててっと歩いていき、鈴を手に取ると『シャリーン』と澄んだ音を鳴らしてみせた。
「僕は三味線ですよ」
そう言ったのはトシオ君。これはちょっと意外な取り合わせだ。
「あたしは和太鼓!」
チエミちゃんはバチをもってドドンと叩くふり。でもなかなか様になっている。
「俺はこれ、
マサヒコは板の間に行って横笛を手に取る。
「リュウテキって、ドラゴンの鳴き声って意味なんだぜ! センセ知ってた?」
「初めて聞きました。ドラゴンの鳴き声を聞いたこともないですがね」
「すっげえきれいな音なんだぜ。ちょっと聞かしてやんよ」
🌸
マサヒコは何気ない様子でその竜笛をとりあげた。
その瞬間、フッとマサヒコの空気が変わった。
スッと背筋を伸ばし、舌先で少し唇を湿らせ、リュウテキを横向きに構える。ちょうどフルートを吹くような姿。一瞬で彼を取り巻く空気そのものが、フワリと柔らかく変化する。
まさかマサヒコに、このような特技があったとは……私も少々驚いてしまう。なにか一瞬、神が宿ったような静謐な空気が流れた。
そういえば、おばちゃん連中も一瞬会話を止め、マサヒコに注目している。
そして静寂。
マサヒコは薄く目を開き、静かに息を吸い込んだ。そして唇を静かにあてがうと、息を吐くように……
『ふぅーーーーっ』
なんか気の抜けた音がした。ピクリと腹が震えた。
「アレ? もいっかい!」
マサヒコは慌てたようにつぶやき、もう一度……
『ふぅーーーーっ』
やはりマサヒコの息が漏れる、切ない音だけが聞こえた。
ムリかも……
「おっかしいなぁ、さっきはできたのに」
そして再び、
『ふーーーーー』
耐えろ。ここで笑っちゃいけない!
🌸
「たまにこの笛鳴らないんだよね! おっかしいなぁ」
マサヒコは頭を掻いてにこやかに笑う。
そして再び白目になって、笛に唇をつけた。
が、ここで私のスイッチが入ってしまった。
不謹慎は承知だが、笑いのスイッチがパチリと!
「ぶふっ!くっくっくっ!」
お茶とお菓子を吹き出してしまう。悪いとは思うのだが、仕方ない。だって、あれだけ期待もたせて『ふぅーーー』って! ダメだ。無理。こらえ切れない。
「くっくっくっ……あっはっはっ」
みるみるマサヒコの顔が赤く染まり、目が吊り上がってくる。わなわなと手も震えている。いや、悪いとは思うんだけどね。もう、おかしいものは、おかしい!
「ウぬぅぅ、センセイ、笑いすぎぃ!」
「いやいや、すみません。あまりに、その……はっはっはっ!」
「もう! そんなに笑うなっ!」
マサヒコが笛をブンと振り上げたその時だった。
笛の先端から、何か細長い影がスルリと飛び出した!
🌸
「ん?」
それは一〇センチくらいの細長い影だった。鉛筆と同じくらいの太さと大きさ。それはヒョイと笛から飛び出し、上空を漂い、私の胸元、ちょうど聴診器のパイプ部分の上にぽとりと落ちた。
それはミミズのようにも見えたが、正確には蛇のようだった。ただしウロコはなくウナギのような質感だ。色はきれいな水色。大きさからして怖くはないのだが……と、スッとその姿がパイプの中に消えてしまった。
「どうかしたんですか? 先生」
聞いてきたのはトシオ君。でもあれが見えていた様子はない。なにしろ一瞬の出来事だったし。
「いえいえ、なんでもありません」
アレはたぶんモノノ怪だ。古い道具に住み着くタイプの妖怪の
むろん、こんなところで、妖怪の話なんかしたら将来の顧客が逃げてしまう。
まして町内の方々もたくさん集まっている。
妖怪騒ぎだけはなんとしても避けねばならない。
🌸
「それよりマサヒコ君、ひょっとしたらツバが抜けたかもしれませんよ。もう一度吹いてみたらどうです?」
「え? そうかな?」
「はい。試してみてください」
私がそう言うとマサヒコは気を取り直し、もう一度笛を横にし、そっと息を吹きかけた。今度はきれいな音が出た。竜の声に似ているかは別だが、和楽器ならではの柔らかな音だった。
「わっ。先生、音出たよ!」
マサヒコはびっくりして笛を見ている。
「さて、休憩は終わりです。次は子供さんたちを先に診ます。男の子が先で、次が女の子。準備のできた子から順番に来てくださいね」
🌸
私は再び一階に降りる。そして子供たちのバインダーを取り出し、去年のデータシートの上に、今年の白紙のシートを挟む。
「先生、よろしくお願いします」
礼儀正しいトシオ君を先頭に、マサヒコ、その他の男の子が五人ばかり。さっさと身長をはかり体重を記入し、メタボ検診は必要ないので、問診を開始する。
「さて、まずはトシオ君ですね」
聴診器を耳にかけ、集音盤をシャツの下から胸に当てる。と、
『ヒック!』
なぜかしゃっくりの音が聞こえてきた。あんまり驚いたので、思わずイヤーピースを外してしまった。
なんだろう今の音? 心音がしゃっくり? いやいや多分幻聴だ。
もう一度耳にイヤーピースをはめ……
『ウィー、っと、ヒック!』
思わずまた耳から離す。変だ。なんか声が聞こえる。なんとなくだが、酔っ払っているように聞こえる。
「先生、どうかしましたか?」
トシオ君が聞いてくる。もちろん彼は酒など飲んでいない。気を取り直してもう一度耳にはめる。
『フィーっとぉ、やっぱり狭くて暗いトコは落ち着くなァ……』
やっぱりだ。どうやらさっきの妖怪、この聴診器の中に入り込んだらしい。これは困った……。
「ちょっと、待っててください」
🌸
私はそのまま部屋の隅まで歩いていく。
それから小さな声で丸い集音盤に話しかける。
「あの、妖怪の方、今、診察中なのでそこから出て行ってもらえませんか?」
そう言って耳をじっと澄ます。
『……ボクみたいな意気地のない妖怪には、こういうトコがお似合いなんだ……アレ? 誰か話しかけてるのかな? まさか、気のせいだな。ボクと話したがるやつなんかいないに決まってる』
「いや、話しかけてますよ。私は山吹といいます。医者をしています。あなたは私の聴診器に入り込んでしまったんですよ」
『お医者さんですか。どなたか知りませんが、いつもオシゴトご苦労様ですっ』
「いえ、それはいいですから、とにかくここから出てってくださいよ。仕事の邪魔なんです」
『……またボクは誰かの邪魔をしたんですね? ホント、ボクはどうしようもない奴なんですよ、笑ってやってください。ヒック』
これまた何ともネガティブな妖怪だった。
🌸
「あの、そこから出ていって欲しいんですよ。元の笛の中に戻ってください」
『ここもダメ、あそこもダメ。みんながボクを邪魔にするんです。お酒でも飲まなきゃ、やってられませんよ。でもね、ボクは小さくてもウワバミの仲間、いくら飲んでも酔えないんです』
「いやいや、しっかり酔ってますよ。それよりお願いします。とにかくそこから出てきてください。仕事にならないんですよ」
『シゴト……そういえばあなたはお医者さんでしたね。偉いなぁ、ちゃんとお仕事してて。それに比べて僕はなんて情けない……お酒でも飲まなきゃやってられませんよ。でもねボクは小さくても……』
「……ウワバミの仲間でしょ? それ、さっきも聞きました」
『そうでしたか? 何度も同じ話するなんて、まるで酔っ払いみたいですね。でもね、しょうがないんですよ。ホント、ボクはどうしようもないヤツなんです。お酒でも飲まなきゃ……』
ダメだ。会話にならない。ホントにただの酔っ払いだ。
と、トシオ君が呼ぶ声がする。
「先生、どうかしたんですか?」
「いえ、何でもありません」
そう答えてから、もう一度だけ集音盤に話しかける。
「とにかく静かにしててくださいよ」
そう言ってから、トシオ君の前に戻る。
🌸
「すみませんね、お待たせしました」
イヤーピースをかけてトシオ君の胸に集音盤を当てる。
ドクン・ドクン・ドクン
どうやら、妖怪は大人しくしている。心音もちゃんと聞こえる。特に変な音も聞こえない。
『七六点……』
イヤーピースからぼそりと声が聞こえた。
「七六点?」思わず聞き返す。
するとトシオ君が目をまん丸にして私を見つめていた。
「先生、どうして僕の算数のテストの点、知ってるんですか?」
「え? そうなんですか?」
「そうじゃないんですか? だって今、七六点て。それとも心臓の点数かなんかですか?」
「いえいえ、心臓は一〇〇点です。その、偶然でしょう?」
が、もちろん偶然ではなかった。
次の子供は六〇点、その次は五八点、四人目は六七点。いずれもテストの点数をピタリと的中させていた。
そして最後はマサヒコの番だった。
🌸
「センセイ、なんか今日はお医者さんみてぇじゃん」
などと生意気を言うマサヒコ。
フッ。強がってはいるが、キミ、算数は苦手そうだね。
集音盤をあてるとマサヒコの心音が聞こえてくる。
ドクン・ドクン・ドクン
心音は異状ない。そして、
『二〇点……』
プッ、と吹き出しそうになるのをこらえる。やはりこの坊主頭の中はあまり知識が入っていないようだ。
「……二〇点、かな?」
私がつぶやくとマサヒコはどきりとした。
ついでに心臓がドラムのように早く鼓動をならし始めた。
ドキ・ドキ・ドキ・ドキ
「セ、センセイ、何言ってんだよ?」
平常を装うマサヒコ。だが彼の心臓は正直だ。
「独り言です。算数のテストのことではありませんよ」
ドキドキドキドキドキドキドキドキ
ついでにマサヒコの顔は真っ赤だった。
🌸
という訳で子供の部に続き、女性の部も終わり、健康診断は無事に終了した。
「では皆さん、これで今年の健康診断は終了です」
と、町内会の皆さんに話しかけたものの、なんとも妙な顔をしている。なんというか疑わしそうな、なにか怪しいモノでもみているような、そんな冷ややかな空気が流れている。
私はちょっとハンカチで汗をぬぐう。
実はさらに何人かのおばさま方に口を滑らせてしまったのだ。
ヘソクリの場所を言ってしまったり(靴箱とは考えましたね)、内緒で買った指輪を褒めたり(大丈夫ですよ。たいてい男の人はそういうのわかりませんから)、スマートフォンゲームの課金のことを話したり(けっこうお金がかかる物なんですねぇ、ゲームって)、まぁつい口を滑らせてしまったのだ。
「まぁ、健康診断は継続が大事です。また来年もぜひ参加してくださいね」
と元気に言ってみたものの、みなさんから刺さる視線がやはり冷たい。
というわけで私は半ば逃げるようにして町内会館を後にしたのだった。
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