第2話「如月」
ぼんやりと曇天を見つめた。
心の寄り所にしていた場所は無くなった。
しばらくすると、ポツリポツリと雨が降ってきた。
その雨が体温を少しずつ奪っていった。
何故、居場所が無くなったのかを考えようとしたができなかった。
足元に視線を向けると片腕のない化物が死んでいる。
なぜ、彼はここに居るのだろう・・・。
それに自嘲した。
ここは途轍もなく寒くて、苦しくて、悲しい場所だ。
1
看板も出ていない喫茶店風のオレンジ色のレンガの建物がある。
店の入口には殴り書きで営業中という文字が書かれた張り紙が貼ってある。
中に入ると大きな物音が聞こえた。
視線を足元に落とすと、そこには黒い髪を一つに束ねて男性店員用の制服を着た長月が倒れている姿が見えた。
「い、いらっしゃい・・・ま、せ・・・。」
うつぶせのまま涙声で長月は言った。
「なんでそんな服着てるんだよ・・・。」
しゃがみ込みながら睦月は言った。
すると長月は目に涙を貯めながらも勢いよく起き上がった。
「む、睦月!何を言っているんですか!私がこの服を着ているのは当然のことです!!」
ますますわけがわからない・・・。
「もしかして・・・お前、男だったのか?」
すると長月は慌て始めた。
「ち、違います!ってあ、当然ですよ!!」
顔を真っ赤にして腕を組みながら威張るように言った。
「長月、バレてるよ。」
スツールに座っていた弥生が腹を抱えて笑いながら言った。
「え、え!?ば、バレてたんですか!!」
恥ずかしそうに長月はそういうと、顔を真っ赤にして店の奥へと逃げて行った。
そんな光景に溜息を吐いて睦月は立ち上がった。
「珍しいね。いつもは師走が溜息を吐くのに。」
薄笑いを浮かべながら弥生は言った。
「師走は?」
「今日は風邪を引いて休みなんだとさ。それで、君が寂しく思うと思って、長月があんな格好をしていたというわけだ。」
微笑しながら弥生は椅子から離れて、睦月の前に立った。
「君に仕事がある。」
そう言うと黒のロングスカートのポケットから一枚の写真を取り出して、睦月に手渡した。
受け取った瞬間、睦月は心底嫌そうな顔をした。
「仲が良かっただろう?」
睦月はその写真を握りつぶして乱暴にポケットの中にしまい込むと、店の奥へと行った。
2
「大丈夫?」
布団を強く握り締めた瞬間、草木の心配そうな声が聞こえた。
それを聞いて勢いよく顔を上げた。
「大丈夫・・・。ちょっと、考え事をしていただけ・・・。」
心を落ち着かせるように深く呼吸をしながら言った。
一人になると、どうしても考えなくてもいいようなことまで考えてしまう。
「そっか・・・。」
私の頭を撫でながら草木はベッドの側にある椅子に座った。
「ねえ、春香は元気にしてる?」
すると草木は顔を綻ばせた。
「今日も元気に茂さんに連れられて幼稚園に行ったよ。」
「そう。」
ゆっくりと瞼を閉じて春香が元気に幼稚園に行く姿を思い浮かべた。
「ねえ、草木・・・辛いのはわかるけど、ちゃんと学校に行きなさいよ。」
すると草木は苦笑しながら頬を人差し指で軽く掻いた。
「わかってるけど・・・柘榴さんのことが心配で・・・勉強になんか集中できないよ。」
そんな草木の額をデコピンした。
「私は、草木が学校に行ってないことが一番心配なの。もし、私が居なくなったらどうする・・・。」
そう言った瞬間、草木は静かに泣いた。
その姿を見て、冗談でも言うべきではなかったと思った。
「ごめん。そろそろ行かないと・・・。」
そう言って草木は逃げるように病室から出て行った。
3
最低だ。
柘榴さんが一番辛いのに・・・もっと心配かけさせて・・・。
土手を歩きながら空に向かって右手を伸ばした。
「こんな所に居やがったのかよ。」
その声を聞いて後ろを振り返ると、目つきの悪い茶髪の少年が睨んでいる姿が見えた。
「仕事から全然戻って来ないから・・・し、心配したんだぜ?」
少年は頬を赤くしながら頭を掻いた。
仕事?
心の中で首を傾げたが、今の気持ちを振り払おうと思い口元に笑みを浮かべた。
「追いかけっこをしよう。」
すると、少年は眉間に皺を寄せて首を傾げた。
「何言ってんだ?」
少年に向かって人差し指を突きつけた。
「君が俺を捕まえることができたら、君の話を聞いてやっても良いよってことだよ。」
理解できない様子でこっちを見つめている少年に向かって、着ていたジャンバーを素早く脱いで投げた。
ジャンバーは狙い通り、少年の頭に覆いかぶさった。
それを確認してから草で生い茂った場所から土手を降りて逃げた。
4
「草木!」
少年から逃げるように街の中を見回しながら歩いていると、茂の声が後ろから聞こえた。
後ろを振り向くとドラッグストアの大きな買い物袋を持って、春香を背負っている姿が見えた。
まだ日は高い。
「茂さんずるい!春香に“将来はパパのお嫁さんになる!!”って言わせるための策略だな!!」
そう言って茂から買い物袋を横取りした。
「こうなったら、俺の手料理で“パパなんかより草木の方が主夫としていい物件!結婚するなら草木じゃないと!!”って言わせてやるんだからな。」
すると茂は肩を揺らしながら笑った。
「そうは言っても草木、ご飯なんか作ったことがあるのか?俺はそんなお前の姿を見たことがないけど?」
「こういうのは、愛情がものを言うんだよ。」
無理に笑みを浮かべながら言った。
「愛情ねぇ・・・。それなら俺も負けないよ。」
疑わしそうな目を向けられながらそんなことを言われた。
「くっ・・・茂さんは春香をおんぶしてる時点で点数が高いのに・・・。こうなったら、先に帰ってご飯作って春香の好感度ゲットしてやる!!」
茂を指差してそう宣言をすると走った。
5
「やっと・・・見つけた・・・。」
春香のためにご飯を作ろうと家に帰っている最中、公園を通りがかるとどこからともなくあの少年の声が聞こえた。
辺りを見回した瞬間、背中に強い衝撃を感じたと同時に地面に倒れ込んだ。
「こんな所までご苦労さん。元気そうでなにより・・・。」
視線を背中の上に乗っている少年に向かって言った。
「なにがご苦労さんだ。お前のせいで野良猫の大群に追われて怪我して大変だったんだぞ?」
溜息混じりの声で少年は言った。
どうやら、ポケットの中に入れておいた猫のエサ袋を開封したままポケットの中に入れておいたのがうまくいったらしい・・・。
「この辺りは猫が多いからね。君のことをエサと勘違いしたんじゃないの?」
悪意を込めて言った。
「ふざけんな。さっさと帰るぞ。」
その言葉を聞いて驚いたと同時に少年を乱暴に背中ら落とした。
そして全力で走った。
「ま、待てよ!!」
後ろから少年の声が聞こえた。
しつこい・・・。
そう思い、少年を撒くように住宅街の細い道を通った。
気がつくと土手に出ていた。
荒れた息を整えるように立ち止まり、深呼吸をした。
「やっと・・・追いついた・・・。」
背後からあの少年の声が聞こえた。
これ以上逃げ回るのも体力的に限界だ・・・。
少年の方へと振り返り、睨んだ。
「君はなんで俺のことを追いかけ回すんだ?それに、君は俺の家を知っているように言っていたが、それはどうしてなんだ?」
すると、少年は顔を顰めた。
「はぁ?なにを寝ぼけたことを言ってんだ?知ってんに決まってんだろ?」
寝ぼけてる?
一歩後ろに下がったその時、足を踏み外して土手から転がり落ちそうになった。
しかし、少年に腕を掴まれたためそれは防がれた。
「たっく・・・仕事増やすんじゃねーよ。」
苛立った様子で少年は言った。
草木は勢いよく少年の腕を振り払った。
「これだけははっきり言う。俺は君が何を言っているのか理解できないし、君が誰なのかも分からない。」
そう言った瞬間、少年は目を見開いた。
そんな少年を無視してその場から離れた。
これで・・・諦めるだろう・・・。
6
さっきまで雲一つない晴天だったのに、今にも雨が降りそうな天気に変わっていた。
如月に言われた言葉が頭の中で何度も反芻される。
雨が自分の体温を奪うように、ポツリ、ポツリと降り始めた。
その勢いは、時間が増していくほど激しくなっていく。
何でだ・・・。
睦月は下唇を噛んだ。
人と離れたときに寂しく感じるのが嫌だから、感情移入はしないと決めていたのに
・・・。
仕事上の関係だけだったはずなのに・・・あいつと居る時間が長すぎたんだ・・・。
「なんで・・・俺があいつのことでこんなにイライラしないといけないんだ?」
吐き捨てるように自分を罵って、両頬を叩いた。
「あいつが忘れていようと忘れていまいと関係ない!!これは仕事だ!!」
そう自分に言い聞かせて豪雨の中、土手を駆け上がった。
辺りを見回すが、如月の姿はどこにもない。
「くっそ!!」
苛立ち混じりに頭を掻きむしった。
(あっち・・・。)
聞き覚えのある声が突然、どこからともなく聞こえてきた。
その次の瞬間、自分が意図していない風景が次々と脳裏に浮かんだ。
口元に笑みを浮かんべながらその風景に従って走った。
走っていると徐々に体が温かくなり、息をするのが苦しかった。
「こんなに真面目に仕事をするのは今日限りだからな!!」
睦月は大きな声で叫んだ。
最後に見た風景の場所にたどり着くと、急に体の力が抜けた。
倒れて意識が遠のく寸前、人影が睦月の体を覆った。
7
曇天の下で、水干姿の少年が悲しげな目をして草の生い茂る地面を見つめている。
その顔をよく見ると頬に血が付いている。
一瞬、怪我をしているのかと思ったがそんな風には見えなかった。
少年が見つめている地面に視線を向けると、片腕のない化物が見るも無残な姿で倒れていた。
異様な光景に顔をしかめると、血に染まった刀の先が見える。
その刀を持っているのは少年だ。
「ここは寒い。」
そんな声が聞こえ、視線を少年に向けると目が合った。
「草木、お前まで風邪引いたら洒落にならないだろ。」
突然そんな声が聞こえたと思うと、柔らかい布団が覆いかぶさった。
まるで亀が様子をうかがうように布団から頭を出して茂を見た。
「あれ・・・俺、寝てた?」
まだはっきりと視界を捉えきれていない目で茂を見た。
「もう、床でぐっすりと。」
満面の笑みを浮かべながら茂はストーブを付ける。
それをじっと静かに見つめていると、見覚えのある茶髪が茂の横で眠っているのが視界に入った。
その瞬間、顔が自然に引きつった。
「し、茂さん・・・?それ、どうしたの?」
恐る恐る聞いくと、茂はあの目つきの悪い少年を見た。
「ああ・・・家の前で倒れてたんだ。」
茂は窓に視線を向けた。
「さっきまで晴れてたんだけど、今は土砂降りだし・・・あのまま外に放置して置くのもかわいそうだから、一先ず家に入れたんだ。俺は今から救急車に連絡をするから草木、この子をお願いな。」
そう言うと、茂は電話の方へと向かった。
ずぶ濡れの少年に視線を向ける。
「君は何で俺のことをそんなに追い掛け回すんだ?」
静かに眠っている少年に言ってみるが、当然返事はない。
それに溜息を吐いて、タオルと着替えを取りに行った。
8
目を覚ますと綺麗とは言い難い天井の木目が見えた。
どこからともなく包丁を使って調理をする音が聞こえてきた。
首だけを横に向けると、知らない女の子と如月が眠っている姿が見えた。
それに疑問を持ちながら起き上がろうと力を入れたが、激しい頭痛のせいでそれができなかった。
体中が熱くてだるい。
「師走と同じで、俺も風邪ひいちまったのか?」
額に右手を当てて言った。
その時、自分が知らないTシャツを着ているのに気がついた。
今まで着ていた制服がどこに行ったのかと思いながら如月を睨んだ。
すると、眉間に皺が寄っているのが分かった。
いつも悩みなんかなさそうなお気楽なのに・・・見えない所では色んなことに悩んで苦しんでいたのかもしれない・・・。
そう思うと溜息が出てきた。
「具合はどうかな?」
清涼感のある顔をした小奇麗な男がそう言いながら現れた。
「ちょっとだるい・・・。けど、助けてくれてありがとう。」
苦笑しながらそう言った。
「それほどでもないよ。俺は人として当然のことをしただけなんだから。」
そう言うと男は額に手を当ててきた。
それが冷たくて気持ちよかった。
「なあ、お前らは如月とどういう関係なんだ?」
まどろっこしいことが嫌いで、すぐに答えを聞きたかったから如月を指さしながらそう言った。
「君は・・・草木の友達かな?」
不思議そうな顔をして男は言った。
「仕事仲間だ。」
はっきりと当然のことを言うと首を傾げられた。
「仕事って・・・なんの?」
「喫茶店だよ。」
男から視線をそらしながら言った。
本当のことは口が裂けても言えない。
「それよりも、質問に質問で返すなよ。」
すると、男は苦笑した。
「ごめん、ごめん。草木にしては珍しいと思ってつい、聞きたくなっただけなんだ。」
優しそうな目で男は如月を見つめた。
「草木は俺の奥さんの親戚なんだ。今は身寄りがないらしくて、家で一緒に暮らしてるんだ。」
目を細めて男を見つめる。
9
あの目つきの悪い少年と茂の話し声が聞こえた。
「茂さん・・・救急車は?」
眠い目を右手で擦りながら言うと、茂は困ったような顔をした。
「今救急車が全て出払ってるみたいで、すぐには来れないみたいなんだ。それで、症状を伝えたら・・・」
「病院は嫌だ。」
茂の言葉を遮るように少年が真剣な声で言った。
「俺の体調ぐらい、俺自身が一番よくわかってる。だから、そんなのに行く必要はない。」
真っ赤な顔をしたまま少年はそっぽを向いた。
「俺にはその体調、全然よく見えないんだけど?」
苛立ち混じりに少年に言った。
「だ、大丈夫に決まってるだろ。」
少年はその言葉に反応するように息を切らせながら無理に起き上がった。
そのとき、電話の鳴り響く音が家中に響き渡った。
それに反応するように茂が電話を取りに行った。
しばらくすると、茂の声色がだんだん険しくなった。
「草木・・・柘榴の容態が急変したみたいなんだ・・・。」
電話が終わった茂の第一声が俺の心を締め付けた。
10
突然、インターホンの鳴る音がやけに静かな部屋の中に響いた。
「茂さん、俺が出るよ。」
誰が来たのだろう・・・そう思いながら焦る気持ちを落ち着かせるように立ち上がった。
少し重たい扉を開けると、メガネをかけたインテリ風の優男が立っていた。
その優男は少年が着ていた服と同じ制服を着ていた。
「私の名前は師走と申します。」
そう言うと、師走は丁寧にお辞儀をした。
「今、忙しいんだ。後にしてもらえるかな?」
「安心してください。この時間に活動しているのは、私とあなたとお世話になっている睦月だけです。」
そう言って師走は家の中を指差した。
その指の先に視線を向けると、こっちを睨んでいる睦月の姿が見えた。
家の中・・・というよりも世界は静かなままだ。
「仕事に熱心なのはいいことですが・・・体調を崩したときは安静にするものですよ?」
「うるせー。その言葉、そっくりそのまま返すぜ。」
不機嫌そうな顔をして睦月は言った。
「心配していただき、ありがとうございます。」
顔に笑みを浮かべながら師走は言った。
「それにしても、オーナーも困りものですね・・・。睦月に何も説明をしないで仕事をさせるとは・・・。」
困った様子で師走は言った。
「な、なんだよ・・・これ・・・。」
この静かすぎる異様な空間に驚きながら言った。
「如月から見れば・・・そう驚くことではありませんが・・・。」
そう苦い顔をしながら師走は言うと、息を吐いた。
「まあ、私としてもこの忙しい最中に従業員が減るというのは手痛いことですからね。個人的に、睦月のサポートをさせていただきますね。」
クスリと笑ってから師走がこっちを見た。
「それでは如月・・・柘榴様にもう一度会いたければ私の手を握ってください。」
もう一度?
その意味がわからず、躊躇していると無理やり手首を掴まれた。
その瞬間、世界がまるで渦潮に巻き込まれているかのように歪んだ。
11
店の中を掃除しているときのことだった。
「如月、彼をここに呼んできてくれないか?」
口元に笑みを浮かべながら弥生は小さな紙を手渡してきた。
その紙には場所と時間だけしか書かれていなかった。
「顔写真とかないんですか?」
店の奥へと引っ込もうとする弥生の背中に言った。
「大丈夫。行けば分かるから。」
振り返らずに弥生は言った。
疑いの眼差しで弥生を見つめながら溜息を吐いた。
12
手渡された紙に書かれた通りの場所に来て見ると雨が降っていた。
それを不満に思いながら、少しぬかるんだ地面を歩き回った。
しばらく歩いていると、水干装束の黒髪の少年が立っているのが見えた。
その少年は死んでいる化物を見つめながら静かに感情のない涙を流している。
それに目を細めた。
「ここは寒い。」
少年は弱々しく肩を震わせながらそう言った。
「だったら、こっちに来いよ。俺が温かい場所に連れて行ってやるから!!」
刀を持ったままの少年の手を掴んだ。
その手は驚くほど冷たかった。
少年の両手首を強引に掴んだ瞬間、化物の片腕を握っているのが分かった。
刀に・・・得体の知れない生物の腕・・・。
少しだけ心臓の鼓動が乱れた。
「だ、大丈夫!俺は全然怖くないからな!どちらかというと、皆にはお茶らけた奴って言われてるし!行くあてがないなら、騙されたと思って目を閉じて見ろよ。」
その言葉を聞くと、少年は怯えながらも目を閉じた。
それを確認してから左手でしっかりと少年の手首を掴んで、右手で大きな円を描いた。
描いた線が白く光り、その中へと飛び込んだ。
円の中はいつも通り不安定な足場になっている。
少年が転んでしまわないようにゆっくりと歩いた。
しばらく歩いているとお目当ての扉が見え、その前で十字を切ってから中に入った。
「目を開けても大丈夫だぞ。」
扉の先の見慣れた店内へ歓迎するように両手を広げてそう言った。
「如月、そいつ新人?」
その時、店の奥から神無月が出てきた。
「わかんない。けど、オーナーが呼んでこいって行ったから連れてきた。」
視線を少年に向けると、警戒した様子で神無月を睨んでいた。
「大丈夫だって。神無月は仏頂面で不器用だけど、仕事も危害も加えることはないから!」
すると、神無月に背中を小突かれた。
「おい、その仕事をしないっていうのは余計だろ。」
神無月が耳打ちをしてきたが、無視して少年の前に笑顔で立った。
「俺の名前は如月って言うんだ。そんでもって、こいつは神無月。」
神無月を指差すと、軽くお辞儀して見せた。
それが睦月と初めて会ったときのことだ。
13
「如月、仕事だ。」
店内を掃除していると、スツールに座っている弥生が資料を片手にそう言った。
「分かりました。」
持っていたモップを壁に立てかけて資料を受け取った。
「じゃあ、よろしくね。」
渡すと、弥生は立ち上がって店の奥へと歩いた。
奥へと引っ込む前に弥生は立ち止まって、こっちをじっと見た。
「くれぐれも、飲まれるなよ。」
そう言うと弥生は扉の向こうへと行った。
「さて、仕事に行きますか。」
いつもの調子で右手に茶色い手袋をはめて、何もない空間に大きな円を描いた。
中に入ろうとしたその時、誰かに首根っこを掴まれた。
「如月・・・仕事熱心なのはとてもいいことですが、場所を考えてもらえませんか?」
首だけを振り向かせると、機嫌の悪そうな師走の顔が見えた。
「わ、悪い、悪い・・・。帰ったら床が鏡だと思えるくらいに掃除するから、今回だけは多めに見てくれないか?」
苦笑いをしながら逃げるように円の中に入った。
14
俺の仕事は師走とは正反対だ。
「初めまして。柘榴さん。俺は如月って言います。」
ベッドの上で本を静かに呼んでいる健康そうに見える女性がじっと見つめてきた。
「へーこの部屋、全体が真っ白いから部屋が広く感じられていいな。」
病室を見回しながら行った。
「俺の部屋なんか、居候が部屋を汚しまくってて足の踏み場なんか存在しないんだ。」
睦月のせいで荒れている部屋を思い出すと笑いがこみ上げた。
すると、柘榴は肩を揺らしながらクスクスと笑った。
それに驚いた。
「珍しいね。俺が登場してこんなことを言うと、大抵は固まったままか石化したままなんだけどな。」
同じように笑いながら言った。
「それ、結局は同じじゃない。」
「え?あっ、本当だ!!恐れ入りました。」
軽くお辞儀をしながら言った。
柘榴はお腹を抱えたまま笑った。
それを嬉しく思う反面、心苦しかった。
「今日はさ・・・。」
笑おうと思ってもうまく笑えず、ひどく引きつった顔をしてしまっているだろうと思った。
「もう、草木ったら!私を元気づけたくてこの本と同じことをしているんでしょう?」
その言葉を聞いた瞬間、素直に驚いた。
「ち・・・。」
そう言いかけたが、柘榴のこの先の人生を考えたらその先を容易に言うことができなかった。
まだ時間はある・・・それなら、まだ言う必要はない。
「そうだね。柘榴さん。」
優しさで草木を受け止めただけなのに・・・草木が現実になり、如月が夢に変わった。
起きた初めのうちは如月を鮮明に覚えていた。
しかし、如月は時間が経つごとにまるで夢だと言わんばかりに霧散していった。
15
「目を開けてください。」
師走の声を聞いてゆっくりと目を開けた。
今にも消え入りそうな柘榴の姿がベッドに見えた。
そのすぐそばで、その現実を受け止めたくないと言いたげな表情でじっと見ている茂と春香の姿があった。
もちろん、俺はそこに居ない。
茂さんたちからしたら、俺はここに居てはいけない。
夢である草木は夢として消えていなければならない。
「師走ならさ、柘榴さんの寿命を伸ばすことができるはずだよな?」
無理だと分かっていながらも言わずにはいられなかった。
「如月、私や睦月の思いを踏みにじらないでくださいね。」
それを聞いて、無理に笑みを浮かべた。
「分かってる。終わらせてくるよ。」
師走から手渡された茶色い手袋を右手にはめて柘榴の前に立つ。
優しさと勘違いしていた自分の弱さ・・・。
それから招いたこの事態を・・・終息させよう。
16
「帰るぞ」
仕事を終えると、真っ赤な顔をした睦月が待ち構えていた。
「睦月!ただいま!」
そんな睦月を無理やり抱きかかえながら言った。
「離せ!俺はただ、仕事を終わらせるためにお前を待ってただけだ!違ってたら、お前みたいなアホ、待ってないんだからな!!」
そう叫ぶように言うと、睦月は急にぐったりとした。
そんな姿に自然と笑いがこみ上げてきた。
「睦月と居るとやっぱり面白いな。」
久しぶりに店へと帰った。
「如月、お帰りなさい。」
店に入ると、満面の笑みを浮かべた師走がモップとバケツを持って待ち構えていた。
「師走、妙に張り切ってるみたいだけど、こんな深夜から大掃除でもするのか?」
すると師走は手に持っていた掃除道具を床に置いて、睦月を奪うように抱きかかえた。
「し、師走?」
掃除道具と師走を交互に見ながら聞いた。
「安心してください。如月が掃除をしている間、睦月は店の奥で寝かせておきます。どうぞ、心おきなく掃除をしてください。」
満面の笑みを浮かべてそう言うと、師走は睦月を連れて奥の部屋へと消えた。
「し、師走さん!?い、意味がわからないんですけど!?」
そう言ったあとで、仕事に行く前に言った言葉が脳裏に浮かんだ。
「まさか・・・あの約束、まだ覚えていたのか?」
モップを手に持ちながら溜息を吐いた。
「お前も仕事に私情を挟むなんて、まだまだだな。」
今までカウンターで静かにコップを拭いていた神無月が言った。
そんな久しぶりに見る仏頂面の神無月に自然と満面の笑みが浮かんだ。
「わー!久しぶりの神無月だ!!」
抱き締めながら激しく頰擦りをした。
「お前は動物か!!」
神無月は両手に全身全霊の力を入れて必死に引き剥がそうとした。
「如月さん!!掃除をちゃんとしてください!!」
今度は長月の声が聞こえた。
「わー!長月ちゃんだ!!相変わらず可愛いな!!」
そう言いながら神無月と同じように抱きついた。
長月は顔を真っ赤にして慌てた素振りを見せた。
「き、如月!掃除をし、して、してください!!」
17
「あ~帰ったばかりだっていうのに・・・こんな時間まで掃除するハメになっちゃったよ・・・。」
満点の星空の下、眠っている睦月を背負いながら言った。
そのとき、思わず柘榴の姿が脳裏に浮かんだ。
口がへの字に曲がりそうになり、無理やり顔に笑みを浮かべた。
「これは、浮気でもなんでもないんだから・・・安心して、そこで待っててくれよな。」
桜の木の下に置き忘れた思い出にそう言った。
しばらく歩いていると、街頭の下に立っている神無月の姿が見えた。
「待ちくたびれた。」
「こんな時間にどうしたんだ?」
すると神無月の手が頭の上に乗って左右に動いた。
「改めてお帰りって言いにきたんだ。」
その言葉を聞いた瞬間、神無月の顔面に向かって吹き出した。
それに対して神無月は不思議そうに首を傾げた。
「相変わらず・・・神無月は面白いな~。もう、可愛すぎるくらい可愛い。」
笑いながら言うと、神無月は顔を真っ赤にした。
「か、可愛いって・・・意味が分からない。」
眉間に皺を寄せながら背中を向けられてしまった。
それの姿に微笑した。
「ただいま。」
そう言って家に向かって歩いた。
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