第五夜

「やめなよ! ジーノっ! このお告げは、どう考えてもおかしいよ! 神様のご加護がある行列なのに、カルロスもナタリーも途中でいなくなってしまったし、第一、羊飼いの子が祈っても海は割れなかったじゃないかっ!!」

 マルセイヌの街の路地で、彼は必死に船の乗るという、最後の友達を引き止めていた。

「でも、羊飼いの子に感動した商人さんが大きな船を寄進してくれたんだよ」

 ジーノは人の良い笑みを浮かべた。

「大丈夫。ボクが聖地でカルロスやナタリーが村に戻れますようにって祈ってくるよ。そうすればきっと神様が二人を戻して下さる」

「でも……」

「ジャックは泳げないからね。だから無理に乗らなくて良いよ。ボクがジャックの分もジャックの家族の分も赦しを頂いてくるから……」

 渋る彼にジーノは約束した。

「カルロスとナタリーを連れて戻ってくるから、ジャックは先に戻って、あの村でボク達を待っていて」

 穏やかに微笑んで、船に乗る子供達の列に加わる。

 ……しかし、ジーノは、二度とこの地に戻ってくることはなかった……。



 夜の帳が降りた村の道を灰色の猫が歩いていく。いつもは優雅に、まるで貴婦人のようだと村人達から言われているエイミィは、今は操られているせいで、どこか足取りがおぼつかない。普段は、しゃなりしゃなりと振られる尻尾も空に止まったままだ。

 ガイ・フォークスのお面を着けた幽霊が出るという噂が広がった村は、最近どこも夜になると家の扉を堅く閉め、法令による終了時間の二十二時ギリギリまで賑わっている村のパブも、すでに明かりを落としている。

 私はジョアンナさんに貰った魔除けを入れた袋を手に、彼女を追い掛けていた。

 ジョアンナさんの家に代々伝わる強力な魔除け。触れるだけで、その力がびりびりと手に伝わってくる。下手にエイミィに近づくと、この力で彼女に掛けられた術が解けてしまうかもしれないので、私は彼女を見失わないギリギリまで離れて追っていた。

 腰には一応、ジャックに言われたハタキをベルトに差している。

 それを見て、家を出るとき、ジョアンナさんは、にこにこと笑っていた。

『あら? 自分の力に気付いたの?』

『いえ……。ジャックに言われただけです』

『そう。でも、ジャックがそう言うのなら、間違いないわね』

 彼女は私がうすうす考えていたとおり、私には場を清める力があると教えてくれた。

『本当に、この私にそんな力があるのですか……?』

 ジャックが見抜いた、死神さんの真意も未だに解らないのに。うなだれる私をジョアンナさんは笑い飛ばした。

『ジャックは、貴方よりはるか昔から幽霊をやっているのよ。ああ見えてかなりの場数は踏んでいるの。死神さんとも付き合いも、貴方よりずっと長いしね。それに、ジャックはその貴方の力を見込んで、貴方に手伝いを頼んだわけでしょう?』

『はあ……』

『しっかりなさい!』

 ジョアンナさんは私の背中をバシリと太い手で叩いた。

『貴方に必要なのは自分を信じることよ。ずっと『役立たず』と言われ続けていたのは解るけど、死神がそれでは、迎えにいった亡き人も迷ってしまうわ』

 彼女はぐっと拳を握ってみせた。

『間違いなく、ジャックと死神さんは貴方を信じている。だから、とにかくやってみなさい!』



「ブニャァァァ~」

 ふいにしゃがれた猫の鳴き声が流れ、エイミィの姿が消える。

 息を飲み、周囲を何度も見回した後、感じた邪気に落ち着けと自分に言い聞かせながら、私は目を閉じ、教会の近くの荒れ野を視た。

 月の無い、真っ暗な荒れ野をエイミィが歩いている。その先には黒々とした教会のシルエットがあった。

「よし」

 距離を取って、彼女の後ろに飛ぶ。

「ブニャァァァ~」

「えっ!?」

 飛んだ先には、あの黒ぶちの猫が私を待っていた。

「君は……猫の幽霊ですか?」

 改めて視ると、彼から霊気が漂っているのが解る。生気は全く無く、間違いなく私やジャックと同じ幽霊だ。

 黒ぶちの猫は私に背を向けるとついておいで、というかのように前を歩き出した。慌てて後を追う。闇の先にエイミィの灰色の尻尾が見えてきた。

「君も手伝ってくれるのですか?」

 猫は振り返り「ブニャ」と鳴いた。

「そうですか……」

 ジャックがジニーと探すときに案内したという黒ぶちの猫は彼だろう。それに、少なくとも一度、私は彼の鳴き声で、悪霊の攻撃から助かっている。彼は私達の味方のようだ。

 やがて、二匹の猫の進む先に、星空を黒く塗りつぶして、教会の建物が広がっていく。と、同時に邪気が濃くなってくる。

 間違いない。あそこにエイミィに手を掛けようと、悪霊が待っている。

 私は息を飲むと袋の魔除けを握り締めた。



 ゴオォォォォ……。

 荒れ野を草をガサガサとかきわけながら、風が通り抜ける。

 風は屋根の無い教会の上から吹き込み、床に散らばった枯れ草の葉を吹き散らかした。

 そこにぽっかり開いた教会の入り口から、灰色の猫が入ってくる。水色の瞳をうつろに開いた猫は、身廊を抜け、長年使われ真ん中がすりへこんだ、低い段を三つ登り、祭壇跡の平らな丸い床にすとんと座った。

 ゴオォォォォ……。

 また風が吹き降りる。カサカサと枯れ葉が音を立てる。風が止み、音も止むと、不気味に微笑むガイ・フォークスのマスクを着けた、少女が浮かんでいた。

 十歳を少し越えたくらいだろうか? 背の低い細身の少女だ。マスクの後ろからは、形の良い耳と栗色の腰まである長い髪が見える。灰色の、型紙どおりに切って、無造作に縫い合わせただけの、シンプルすぎるワンピース。足には白いソックスと黒い靴を履いているが、それにもこの歳の女の子が喜びそうな飾りは一つも付いてなかった。

 改めて良く見ると、どこか見覚えがあるような気がしてくる。

 彼女はゆっくりと両腕を上げ、前に揃えた二本の人指し指で、床の座った猫を指す。猫の身体がふわりと空に浮いた。

 身廊の柱の影に身を潜めつつ、私はそっと袋から魔除けを取り出した。背中の翼から羽を一本抜き、魔除けの隙間に慎重に差し込む。

 私の向こうの柱の影には、さっきの黒ぶちの猫がいる。彼も太った身体を弓なりに縮めて、今すぐにでも飛び出せるようにしていた。

 視線の先、祭壇の一番近い柱の影にはジャックがいた。少女を伺いつつ、立てた白い手袋の人差し指をくるくると回している。

 少女の指が彼女の目の位置にまで上がり、エイミィの身体もそこまで上がる。マスクの曲線を描く口が大きく開き、声も無く笑う。彼女が揃えた人差し指を左右に離した。

 そのとき、エイミィの身体に左右から大きく引き裂こうとする力が掛かるのを感じた。

「今ダッ!!」

 ジャックが大きく叫んで、柱から飛び出し、少女の前に立つと両手を天に挙げた。

 ガサガサガサッ!!

 祭壇の少女の下の位置から、一斉にカボチャの蔓が湧き出す。それはグンと伸び、エイミィを身廊の方へ弾く。

「ブニャァァァ!!」

 黒ぶち猫が高く鳴く。我を取り戻したのか、彼女はくるりと宙で身を捻って、音もなく床に降り立った。

「エイミィは返シテ貰ったネッ!」

 ジャックが両手を突き出す。カボチャの蔓が二手に分かれ、一つは彼女の身体に絡みつき、もう一つは下からお面を弾いた。

「!!」

 お面の下から栗色の瞳の痩せた、そばかすたらけの白い少女の顔が現れる。

「あれはっ!?」

 驚く私に「イワン! 早ク、魔除ケを投げルねッ!!」ジャックが声を上げた。

「は……はいっ! 行きなさい!!」

 魔除けを投げる。私の羽を差し込んだ魔除けは、私の意のままに飛んで、少女の頭の上に乗った。

 少女がカクリとうなだれる。力が抜けた身体をカボチャの蔓が支える。

 そのとき、床に落ちたお面が、まるで意志があるかのように、ふわりと宙に浮かぶと、少女に向かって飛んだ。

「えっ!?」

 それはまた少女の顔に収まろうとする。だが、バチン!! 音がして魔除けに弾かれる。ぐったりとカボチャの蔓に身体を預けている少女と、二度、三度と彼女に着こうとするマスクを見ているうちに、ようやく私にもジャックの言っていたことが解ってきた。

「……そうか、少女の霊と悪霊は別モノだったのですね……」

「あノ子は、ココの牧師館の子ダネェ。デモ、悪霊に憑カレて、オ家に火を付けて、家族ト一緒に自分も焼ケ死ンだネェ~。そシテ幽霊にナッテも悪霊に憑カレたママだっんダヨ」

 ああ……。

 私の頭にジョアンナさんの暖炉の上のフォトフレームの写真が浮かんだ。

 さっき見えた少女の顔は、あの二人のうちの地味な少女にそっくりだ。きっと彼女がお母さんの友達だったのだろう。何故、悪霊に憑かれたかは、解らないが、隣のお母さんの服装と比べて、地味過ぎる服装からして、両親はかなり厳しい人だったのだろう。あの年頃なら、友達と同じような格好をさせて貰えないだけでも、妬み、嫉みの元になりそうだ。

「それで……死神さんは、あの少女を助けようと、六十年で解ける封印を掛けたのですね」

 浄化のサークルで悪霊の力を削ぎ、奴の力が弱くなった頃を見計らって、少女と分離させようとしたのだろう。それが六十年という月日だったのだ。

「旦那、死んだ人ニは本当二甘イからネェ」

「確かに……」

 小さく笑う。そんな私を見てジャックが叫んだ。

「ぼゥっと、見テないデ、早クあのマスクに憑イた悪霊ヲ祓うンダョ!!」

 バチン、バチン!! 何度魔除けに弾かれようとも、悪霊は長年憑いていた少女が諦め切れないのか、しつこく突撃を繰り返す。

「コレじゃア『戻セ』ないヨォ!!」

 少女と悪霊を離すだけでなく、少女の霊にも自分を取り戻させなければならない。

「……私が……ですか?」

「パタぱた! ぱたパタ! 綺麗にスルネェ!!」

 ジャックが両手を振り回す。その勢いに促されて、ベルトに差していたハタキを取ったものの……。

「……私に出来るでしょうか……」

 躊躇う。そんな私の頬に

「ギャアァァ!!」

「ブニャァァ!!」

 パチン! パチン! エイミィと黒ぶち猫が飛び掛かり、猫パンチを食らわした。

 しっかりなさい! というかのように二匹がまた身体を弓なりにすると、今度は爪を出す。

「はいっ!! 今、やりますっ!!」

 私は慌てて、お面に向かって駆け出した。



 バチン! また魔除けに弾かれて床に転がった、お面が再度、少女を目指して飛び出す。

「えいっ!」

 私は間に入ると、その不気味な笑顔の眉間をハタキで叩いた。

 ボフン! 黒い靄のようなものが、埃を叩いたときのように出、マスクが床に落ちる。

「やった!?」

 思わず嬉しい声を上げたとき、またマスクが床から飛び上がった。

「ジャック! やっぱり無理ですよ~!!」

 大したダメージを受けた様子もなく、ふわふわと浮かぶマスクに振り返る。

「シツこい汚レは、何度モ何度も綺麗にスル! コレ、イワンが言っテいたデショ!!」

 ジャックがまた両手を振り回す。

「ギャアァァ!!」

「ブニャァァ!!」

 二匹に怒られて、私は涙目でお面に向かった。

 こうならヤケだっ!!

「ぱたパタ! パタぱた!」

 ジャックの声に煽られるように、飛んできたマスクにハタキを掛ける。

 パタパタパタパタ……。

「パタぱた! ぱたパタ!」

 パタパタパタパタ……。

 ぽふぽふと黒い靄がマスクから出て、空中に散り消えていく。

 パタパタパタパタ……。

 段々、床に落ちて飛び上がってくる、お面の勢いがなくなってきた。

「ぱたパタ! パタぱた!」

 パタパタパタパタ……。

 端から見るとカボチャ頭に励まされ、二匹の猫に怒られて、ものすごく格好悪い浄化なのではないかと思う。元上司の天使が見たら、きっと腹を抱えて笑うだろう。

 でも……。

 私も笑い出す。どうせ『出来損ない』の元天使なのだ。自分で出来ることをやるだけ。

 開き直った私は無我夢中でマスクにハタキを掛け続けた。

 パタパタパタパタ……。

 どんどん、マスクの動きが鈍くなっていく。

 そして……ついに、床に落ちて上がってこなくなる。

「やったネ! 綺麗になったヨォ!」

 ジャックがピョンピョン跳ねる。

「……はい」

 ぐったりと身体の力が抜ける。夢中になってきて気付かなかったが、どうやらかなり体力、精神力を使ったらしい。

 ……疲れた……。

 床に座った私に

「ニャア~ン」

「ブニャア~ン」

 お疲れさま、とでも言うように二匹が身体をこすりつけ、ちろりと頬を舐めてくれた。

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