10.待つしかできない

 夕飯の時間になっても、何も作る気がしなかった。


 お父さんの部屋の方に目をやる。けれども「ごはんは? ねえごはんは?」の声がしない。外に耳を澄ませても、怪獣ごっこの声や歌声が聞こえない。

 この家のどこからも、あの声が聞こえない。


 台所に立つ。けれども「ハンバーグは二個がいい」だの、「焼くより揚げた方がいい」だのといった注文をつける人がいない。あたしの背後に立って、嬉しそうに鍋を覗き込む姿がない。それならば、何も作る気がしない。

 なんでだろう。お父さんがなくなって、コウがうちに来るまでは、ずっと一人で暮らして、一人で食事をしていたのに。


 コウは今どうしているだろう。味気ない食餌を摂っているのだろうか。それとも既に機械を取り付けられているのだろうか。


 違法機械をつけた竹田さんの姿を思い出す。

 甲高い声と物凄い早口でコウを罵る姿。アイ君の話でも、似たような症状が出ていたようだ。

 コウも、ああなってしまうのか。

 あの声が。低くて優しくて幼くて、でも時に痺れる程に甘い熱を帯びた、あの声が。


 夕飯も面倒だ。シャワーも面倒だ。まだ結構早い時間だが寝てしまおう。

 ベッドに入り、明かりを消す。途端に暗闇から怪獣が牙を剥いて襲い掛かってくる。

 怖い。寂しい。コウはどうしているだろう。もう寝ているだろうか。苦しんでいたりしないだろうか、痛い思いをしていないだろうか。


 もうやだ、苦しい。こんな夜が、あとどれだけ続くの……。




 その時、あたしの枕元の電話が鳴った。若林さんからだ。


「今仕事中だから手短に話す。俺は担当じゃないから詳しくは分からないけれど、明日いっぱいまでは体の調整期間だから機械の取りつけはないよ。また何かわかったら電話する」


 電話の遠くから「若林君!」と呼ぶ声が聞こえ、若林さんはその声に「はい!」と答えながら電話を切った。本当に仕事の隙をみて電話をしてくれたらしい。

 とりあえず、少しだけ、ほっとした。何の解決にもならないけれど。まずは寝ないと。


 お父さんの部屋に入る。前田さん達に買い物を教えてもらってから、この部屋にはコウの私物が増えた。かつて、いざとなったら自分一人で去っていくつもりだった頃とは違って。だからこの部屋は「お父さんの部屋」から「コウの部屋」になっている。


 ベッドに入ると、かすかにコウの気配を感じる。けれどもそこにはあたたかい胸も、柔らかな笑顔も、穏やかな囁き声もない。


 大丈夫。最長で一カ月だって言っていた。永遠にいなくなったわけじゃない。永遠にいなくなったりなんか絶対しない。待っていれば絶対帰ってくる。


 自分の唇にそっと触れる。


 早く帰ってきて。いつもの笑顔で。

 そしたら、ねえ。


 「ここにキスして」……。




 若林さんからの連絡は毎日あるわけじゃない。コウの実験の担当でない上に仕事の隙を見ての電話だから、いつも一言だけ。

 けれどもこれだって若林さんからすれば「機密漏洩」にあたる行為なんだから、贅沢なんか言えない。


「今日から機械の取りつけが始まる」「命に別状はないがトラブルがあったようだ」「試作品が体に合わなかったようだけど今は回復している」


 入ってくる一言だけの情報は、却って悪い想像力をかき立てるから、聞くのが怖い。けれども連絡がないとそれはそれで不安だ。

 あたしはほとんど仕事もせず、若林さんからの連絡を待ち、その一言に感情を振り回される。そんな日々が続いた。


 時間はたっぷりあるはずなのに、家事もほとんどせず、家の中は少しずつ散らかっていった。

 コウがいる時は忙しくても掃除も洗濯も毎日していたのに。

 食事も、出来合いのものを気が向いたときにつまむだけだ。だって、おいしいおいしいと言って三食大量に食べてくれる人がいないから。

 ベッドの上に横になって、電話のかかるのをただじっと待っている。そんな生活が二週間続いた。




「あと一週間に延長になった」


 二週間が過ぎたころ、若林さんからそんな連絡が入った。


 もういいじゃない。なんでこれ以上コウのことを苦しめるの。

 あたしももう心がもたない。何が研究よ、何が実験よ、もうやだ、早く、早く帰ってきて……。




「ミキちゃん、どうしたの最近? そういえばヒカル君見かけないけど、また出て行っちゃったの?」


 コウの実験が始まって三週間が過ぎたころ。

 ヒカルがいなくなったのと、あたしの様子がおかしいのを見かねて、上野さんがうちの玄関先まで見に来てくれた。


「ヒカルは……帰ってきます。絶対。今、仕事が大変で……」

「あら、お仕事みつかったの?」


 あたしは少し笑った。


「はい、やっと。これが終われば……正社員になれるかも……」

「あら、良かったわねー」


 上野さんは顔をほころばせた。


「そうそう。うちの子ね、ずっとヒカル君に勉強見てもらっていたんだけど、おかげで上級学校に合格したのよ! それもね、A区の学校! まさかうちの子が受かると思っていなかったから記念で受けただけなのによ! それもこれもヒカル君のおかげよ!」


 へえ、凄いな。A区の学校って、高校進学率が一番高い所じゃない。


「凄いですねー。おめでとうございます」

「ヒカル君、ああ見えて、って言っちゃ悪いけど、ああ見えて凄いお勉強できるのね。学校行ってなかったって言っていたけど」


 その時、ポケットの中で電話が鳴った。着信音が鳴る設定のままにしていたので、上野さんはいきなり鳴った電子音に驚いていた。

 上野さんの目も気にせず、電話に出る。

 若林さんからだった。


「実験が終了した。コウさんは無事だ。でも消耗が激しいから、明日まで回復室に入って、明後日腕の識別コード除去の処置をしてから、社用車で北山さんの家まで送るから」




 やっと終わった。

 あたしは切れた電話を手にしたまま、大きく息を吐いて玄関先に座り込んだ。


「ミキちゃん、どうしたの? 何それ」


 上野さんはあたしが手にしている電話を不思議そうに眺めている。


「今、電話があって……コウが帰ってくるって……」

「コウ?」


 あ、そうだ。ヒカルだ。

 ああもういいや、いずればれることだし。

 あたしは適当な挨拶をして上野さんと別れ、家の中に入った。


 帰ってくる。

 帰ってくるんだ。


 じわじわと喜びが胸の中に滲みだしてくる。飛び上がったり叫んだりしたくなるような喜びとは違う、床の上に座り込み、涙が頬を伝うような、切ない喜び。

 喜びの中に心を浸して、あたしはしばらく動けなかった。


 でも、ああ、そうだ。


「……掃除しなきゃ」


 いつまでも喜びの沼の中で溺れてしまいそうな自分を奮い立たせるように、わざと声を出して言った。

 コウはきれい好きなんだ。せっかく実験が終わって帰ってきたうちが散らかっていたら嫌だよね。水回りも恐ろしいことになっていた気がする。


 よし、帰ってくるんだ! だからあたしもしっかりしなきゃ!

 立ち上がった途端にぐらりと視界が揺れた。

 そうだ、最後に何か食べたのはいつだ。コウが無事帰ってくるのに、あたしが体壊しちゃしょうがない。


 ガラスに映った自分を見る。

 うわー、きったないなーあたし。髪も肌もぼろぼろだ。帰ってくるのが明後日なら、明日、髪を揃えに行こう。


 自分の運命のもう半分が帰ってくる。

 その人のために、部屋も自分もきれいにしなきゃ。

 三週間一度も見ることのなかった鏡。それに彫られたあの言葉を思い出す。


「私はあなたを心から愛しています」

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