9.消えていった

 「明日、実験前に少しだけ顔が見られる」と若林さんから電話があったのは、夜十時を過ぎた頃だった。


「小野さんが研究所にお願いしてくれたらしいんだ。社員が何人かいる中だから、コウさんと話したりはできないけれど」

「ありがとうございます。なんでもいいです、ちょっとでも会えれば。社員さん大勢集まるんですか?」

「いや。ロビーでだし、勤務時間内だから数人だよ。研究所の俺以外は部課長と小野さん、佐々木くらいかな。古谷さんは出張で来られない」

「へえ。あれ、前田さんは?」

「あのさ、俺ら三人が全員勤務時間内にぞろぞろ見送りに行ったらさ、百パーセントコウさんに斬り倒されるだろ」


 そう言いながらも、若林さんはなぜか少し嬉しそうだ。


「あはは、そうですね……って、ちょっと待って下さい。部課長って」

「環境部長と空調管理課長だよ」


 ぎゃああ! 怖い怖い怖い! 「会社」の部長と課長って!

 

「ぶぶぶぶちょうとかかかちょうって、そんな偉い人の前で、あたあたあたしどうしよう……」

「何言っているの北山さん」


 若林さんは呆れたように溜息をついた。


「別に部課長だって人間だよ。捕って食ったりしないから。それにさ、今のうちから自覚持っておいた方がいいよ。北山さんは、結婚した時点で確実に課長夫人なんだよ」




 翌日、「会社」のロビーに行くと、片隅に黒ずくめのかたまりが立っていた。小野さんと佐々木さん、それに知らないおじさん二人。

 おじさん達は、かなり細身に仕立てられたスーツにネクタイのスタイル。これも全部真っ黒だ。シャツとパンツのスタイルの係長以下の制服とはまた威圧感が違う。管理職の制服なんだろうか。


「やあおはよう。あ、こちらが噂の北山ミキさんです」


 小野さんがおじさん達にあたしを紹介した。

 「噂の」って、「会社」の部課長になんの噂がされているんだよ。


「へー君が」


 こちらから挨拶をする前に、おじさんの一人がまじまじとあたしのことを見て声をかけてきた。


「あのコウを完全に尻に敷いているって聞いたから、どんな恐ろしい人が出て来るかと思っていたんだが、こんな華奢で可愛らしい女性だったとは」


 尻に敷いている!?

 誰だ噂の出どころは!?


「ああ、部長、来ましたよ」


 もう一人のおじさんが呟いた。あたしはそのおじさん――今の話からすると多分課長なんだろう――の視線を追った。

 若林さんに引かれるように、コウが来た。


 右腕の刺青を晒すためなのであろう半袖の、灰色の制服姿。足には金属のリング。

 けれども管理品の制服の一部である布の靴は履いておらず裸足で、その上腰縄までつけられている。腰縄は、若林さんの腕に繋がれている。


「一応、脱走歴があるので、うちとしては……すみません」


 若林さんは自分の腕に繋がれた腰縄をいじりながら下を向いた。


「この度はご迷惑をおかけいたしまして申し訳ないことでございます。また、この度の件につきまして、ご尽力頂きましたこと心よりお礼を申し上げます。ありがとうございます」


 コウは皆に向かって深々と頭を下げた。


「礼よりも、こんな実験さっさと済ませて自分で溜め込んだ仕事を片付けろ」


 課長が言った。「礼はいいから、早く職場に復帰しておいで」の「会社語」なんだろう。


 コウはロビーの一番隅に立ち、決して顔を上げなかった。あたしとも視線を合わせてくれない。こっちに来たとき、一瞬目が合ったのに。

 俯いた、制裁を受けたらしい痣や腫れだらけの顔。

 誰がやったんだ。何をしたんだ。あたしの大事な大事なコウを傷つけて、裸足に腰縄なんて恰好までさせて。

 おかしい。何もかもが、おかしい。


 コウは社員たちと難しそうな仕事の話を少しして、そのまま若林さんに引かれて研究所のある方へ消えていった。

 あたしとは、ついに一言も話さず、視線も合わせてくれなかった。




 部課長達は、コウがいなくなるとすぐにどこかへ行ってしまった。あとに残った小野さんと佐々木さんは、心配そうにあたしのことを見た。


「コウが北山さんに声をかけなかったのは」


 小野さんが小さな声で言った。


「ロビーにいる人の目のせいだよ。こんな黒ずくめの怖いおじさん達に取り囲まれて頭を下げる、腰縄付きの『管理品』が、市民の女性と親しげに話したりしていたら、あの女性は一体なんなんだってことになるからね」

「俺もおじさんすか」


 佐々木さんがどうでもいい反論をした。


「話は出来ないって聞いていたんで、別にいいんです。でも……」


 今のコウの姿は、あたしにじわじわとしたショックを与えた。

 おかしい。彼のような人を管理「品」として扱うこの制度自体が、おかしい。


「あんな刺青を入れられて、あんな姿にされて、命の危険すらある実験をされる『人』がいていいはずないです。他の『管理品』の人だって、それぞれ皆さん、結構特技や資格があったりするのに、その場限りの作業をさせられたり、実験サンプルにされたり、なんでよって思います。人をモノ扱いする根性の方が、よっぽど人でない……」


 そこまで言って、あたしは慌てて口を押えた。

 しまった! どうしよう、あたし、「会社」の人の前で、なんてことを……!


「……今の北山さんのセリフね、少し前だったら大問題だったよ。さすがに俺らも庇えなかったと思う」


 佐々木さんはなぜか愉快そうに笑った。


「さすが『運命のもう半分』だ。考えることが一緒なんだね。コウさんは今は従順なふりをしているけれど、市民になったら怖いよ。若林には悪いけど、今まで偉そうにしていた研究所め、今にみていろ、コウさんの怖さをお前らにも味わわせてやるってね」


 佐々木さんが何を言っているのか全く分からなかったが、とにかく、コウが実験を無事済ませて、元気に職場に戻ってくる、ということは、皆の大前提になっていることは分かった。あたしは、それを知れただけでも今日ここに来て良かった。

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