8.最後の夜に

 いきなり突き落とされた真っ暗な闇の底から、あたしはようやく声を絞り出した。


「なんで……?」


 コウは微笑んだ。

  なんだろうこの微笑。嬉しいときのものでも、苦しいときのものでもない、底知れない微笑。


「研究所としては、これでもぎりぎりの妥協だと思うよ。だって俺が市民権を得たら、もう俺で一切実験できないんだもん。俺一体作るのに、結構なコストもかかっているみたいだし」


 この期に及んで、まだ自分のことを「モノ」のように言う。


「コストって何よ、知らないよそんなの! それにコウは『一体』じゃなくて『一人』! あたしと結婚するまでに、ちゃんとその根性直してよ!」


 あたしと結婚するまでに。

 でも、その「結婚」までちゃんとたどり着けるんだろうか。この実験を、ちゃんと乗り越えられるんだろうか。

 どうしてこんな条件を突きつけてくるんだろう。「人間」として生きたい、それってそんなに難しいことなんだろうか。


「なんで? ねえなんで? もっと他になかったの? 命かけなきゃいけないようなのじゃなくて、もっと他の条件とかじゃだめだったの?」

「古谷さん達もね、必死になってそれを探してくれていたんだよ。汚染物質の件とか色々提示して。でもそれで許してくれるほど研究所は甘くないよ。俺は最初からこうなると思っていたから、さっさと俺を差し出してくれって言っていたんだけど、嫌だって言ってくれて」


 ああ、そういえばあったな、だいぶ前。

 珍しくコウが電話でイライラしていたり、あの前田さんがコウに反抗的な態度を取っていたり。

 あれって、この件だったのか。


  コウの理屈は分かる。でも、あたしには古谷さんや前田さんの気持ちが痛いほど分かる。

 あの人達のことだから、きっとあたし以上にコウの理屈が正しいのは分かっていたはずだ。

 だからって、はいそうですかと研究所に差し出せるわけがない。

 だって市民権とかそういう法律上の線引きの事なんかよりも、元気な姿のコウと一緒に仕事がしたい、その一心で動き回ってくれていたんだろうから。

 なのに市民権と引き換えに命をかけるんじゃ本末転倒だ。


「アイ君のことがあったのに、どうして性懲りもなく同じ事をしようとしているのよ」

「同じじゃないよ。まあ実験内容は同じだけど、アイで……失敗したからこそ、その……事例を生かして今回の実験は行われる。だからそこまで悲観的にならなくてもいいと思うんだ、多分」

「でも、仮に命自体は助かっても、脳や体にそれなりのダメージは受けるんでしょ? 採血みたいに簡単に終わるようなものじゃないんでしょ? あたしコウが苦しむのなんかやだ。考えただけでやだ。もういいじゃない。今までいっぱい苦しかったじゃない。あたしから言わせりゃ、市民権なんていちいち意識しなきゃいけない方がおかしいもんだよ。息するときにいちいち酸素に感謝しないのと同じだよ。そんなもんのためになんで」

「俺、焦っているんだなぁ、多分」


 のんびりとした口調で、あたしの話を遮った。


「これ以上の交渉をしたって多分無駄だよ。時間がかかるだけだよ。時間がかかればかかるほど、『家主と居候』の関係が長引くだけだもん。俺、いい加減疲れたよ」


 そう言って、指先であたしの頬に触れた。

 指先は頬を伝い、唇にそっと触れて離れる。

 ぞくり、とあたしの中でなにかが震えた。


「俺は絶対に生き延びる」


 両手をあたしの肩において言った。

 澄んだ瞳で、あたしのことをじっと見て。


「明日の朝、一旦警察に自首という形で捕まってから、『会社』が引き取る。不起訴になるから大丈夫だよ。そしてあさってから二週間か最長一か月、実験に入るから。それが終わって一週間くらいで、市民権と婚約の手続きが完了する」


 そしてふっと柔らかな笑みを浮かべた。


「そうしたらミキ、俺達は『家主と居候』なんかじゃない。正式な婚約者同士だ」




 明日の朝、といっても正確にはもう「今日」の朝、だ。

 それから下手すれば一か月、コウと会えなくなる。

 この間の地上調査の時とは比べ物にならない長さ。しかも元気な姿で戻ってきてくれる可能性は決して高くはない。


 シャワーを浴び、ベッドに入ったはいいが眠れるわけがない。夜、一人でいると、どうしても悪い方へ悪い方へと想像力が働いてしまう。


「コウ」


 お父さんの部屋をノックすると、コウがドアを開けた。今まで大抵夜遅くまで何やら作業をしていたのだが、今日は既に寝ているところだったらしい。


「どうしたの?」

「眠れないの。今日こっちで寝ていい?」


 コウは困ったような顔をして頷いた。


 ごめんね。

 あたしだって非常識なのは百も承知だけど。でも一人でいるのが怖いんだ。


「……あったかいなあ、相変わらず」


 体温の高いコウと一緒にいるとぽかぽかする。


「こんなに体温高くて、地上の夏とか大丈夫なのかな。夏って暑いんでしょ」

「うん。東京でも三十度超えるって」

「えー! お湯だよそれ」


 そんな他愛ない話が出来るのも、今日までだ。明日からはしばらく一人で暗闇や静寂と闘わなければならない。


「ねえ、若林さんに実験をお願いすることとか、出来ないの?」

「ああ、勿論担当から外されているよ。絶対に手心加えるからって」


 ああ、そうだよなあ。誰だってそう思うよなあ。


「でも、実験の経過をミキに報告してくれるようお願いすることくらいはできるかも。言ってみるね」


 そう言ってから、ふとあたしの首筋に顔を寄せる。

 そっと囁く。

 今までにない、切ないまでに熱を帯びた、低くて甘い声で。


「……いい匂いがする」


 気がついたんだ。古谷さんからもらった香水。つける量とかつけ方は未だによく分からないけれど、寝るとき気分がいいから、夜、一滴だけ首筋につけている。


「でしょう? いい匂いだよねこれ。もったいないからけちけち使っているんだけど」


 そんなあたしの言葉に、コウはまた少し困ったような顔をしてみせた。

 あたしの頭をぽんぽんと軽く叩いて微笑みながら囁く。


「今日は遅いからもう寝よう。おやすみ、『愛しい人』」




 結局、浅い眠りを繰り返しているうちに朝になってしまった。


「あっ、そうだ。これからしばらく『ごはん』が食べられない!」


 コウは起きるなり絶望に満ちた声で絶叫した。


「分かったよ。朝っぱらからごはんいっぱい作ってあげるから、顔洗って着替えな」


 このしょうもない底抜けの食欲のおかげで、少しだけ救われた。あたしは全く食欲がない。


 夕飯並の豪華な朝食が出来上がった。あたしは食べたくなかったが、スープだけでも食べるふりをすることにした。

 コウと一緒に食事の時間を過ごすためだけに。


「わー! おかずいっぱい!」


 背後で歓声が上がった。振り返ると、あの黒い制服姿のコウがいた。


「この間、前髪切りすぎちゃって、あの頭できなくてさ……」


 気まずそうに前髪をつまむ。

 その仕草と黒い制服姿を見ているうちに、あたしは急に切なくなって、涙が溢れてきた。


「ミキ……?」


 どうしよう、止まらない。泣かないようにしていたのに。

 泣くなんて、まるで悪い結果を予感しているみたいだから、元気に送り出そうと思っていたのに。


「いやだ……」


 心の奥が叫び出す。


「いやだ……怖いよ、こんな……」


 あたしのばか! 何言っているの。そんなのコウの方が何百倍も思っているに決まっているじゃない!


「ミキ」


 泣きじゃくって訳が分からなくなっているあたしを見て、コウは穏やかに語りかけてきた。


「前ね、覚えているかな。俺、ミキのこと、守るって言ったでしょ。あの時は俺がいる間はミキをとりまく色々なものから守る、っていうつもりだったんだけど、今は違う」


 この人は、これから自分に起こる事を知りながら、どうしてこんなに優しく話す事ができるんだろう。


「俺は自分の生涯をかけてミキを守るよ。誓う。だって、結婚ってそういうもんでしょ。だからさ、誓った以上、そう簡単にはへたばらないから。俺を信じて。こんなんだけど」


 そう言って笑う。あたしはたまらず、コウにしがみついて大声を上げて泣いた。

 彼は、そんなあたしをそっと包み込むように抱き締めた。




 玄関先に立つ黒ずくめの姿をしたコウ。このドアを出て行った先に起こることを思い、あたしはまた泣きだしそうになったが、両目を見開いて耐えた。


「あ、そうだミキ」


 そんなあたしにおかまいなしに、彼は呑気な声を上げる。


「もしかしたら、実験の前にちょっとだけ会えるかも。皆のいる中でになるけど。お願いしてみるね」


 なんでもいい。少しでも姿が見たい。あたしは何度も頷いた。


「じゃあね」


 コウは、ちびっこと遊んだあとと同じ挨拶をしてドアを開けた。


「あ、待って!」


 思わず声をかける。彼は当然立ち止まって振り返る。

 でも……話す内容を考えていなかった。

 行ってほしくなくて思わず声をかけたはいいけど、さあどうするあたし。必死になって頭をめぐらしている時に、ガラスに映る自分の顔に目が行った。

 少しでもまともな顔のあたしを見て欲しくて、今、古谷さんからもらった口紅をつけている。


「あのね、実験が終わってここに帰ってくる時って、もう警察からも追われていない、管理品でもない、そういう状態なんでしょ」

「うん。そうだね。厳密には婚約や市民権はまだだろうけど」

「じゃあさ、もうその時は『居候と家主』じゃないんだよね」

「うーん、まあそうだねえ一応。しばらくは居候させてもらうと思うけど」

「細かいことはいいよ。そうじゃなくて。じゃあさ、ちゃんとうちに帰ってきたら」


 あたしは自分の唇を指差した。


「『ここにキスして』」




 恐ろしげな黒ずくめの制服姿のまま、コウは顔を赤紫色にして一瞬言葉を失った。

 やがて花が開くように顔をほころばせて頷く。


「絶対に戻ってくるよ!」


 そして笑顔で家を出て行った。

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