5.この恋は、未来を拓く
1.婚約
コウが帰ってくる日。
あたしは朝からずっと玄関を出たり入ったりしていた。
車の音がすると外へ飛び出す。でもそれがただのタクシーの音だと分かり、家の中に入る。それを何度も繰り返す。
「なあ、ヒカルいつ帰ってくんの?」
家から飛び出した何度目かの時に、上野さん親子に会った。上野君はあたしのことを見上げて不満そうに言った。
「母ちゃんが言っていたけど、仕事見つかったって本当? ヒカル仕事なんかできるの?」
「ヒカルはね、ああ見えて物凄く仕事ができるんだよ。これから東京を大きく変える仕事をするの」
上野君の視線に合わせてかがみこむ。
「もうちょっとしたら、全部本当のことを言うね。だから……」
その時、あたしの背後に車が止まる気配がした。
振り返ると、黒塗りの巨大な車が止まっている。このあたりではまず見かけないようなぴかぴかの高級車だ。上野君が車を見て歓声を上げた。
「北山さん!」
ドアが開き、中から黒ずくめ姿の若林さんが叫んだ。
「今コウさんを運ぶから!」
その言葉と同時に、黒ずくめの前田さんがコウを抱きかかえて飛び出してきた。
前田さんの腕の中のコウを見て、あたしは言葉を失った。
家を出て行った時と同じ黒ずくめ姿。けれども髪やシャツは乱れ、真っ青な顔にはびっしりと汗が浮かんでいる。そして荒く激しい呼吸を繰り返し、声にならない呻き声をあげていた。
「コウ!」
「寝室どこ!?」
前田さんは駆け寄ろうとしたあたしに向かって叫んだ。大きな黒い鞄を持った若林さんが後に続く。
「こっちです!」
三人でコウの部屋へ向かう。振り向くと、上野さん親子が呆然とその場に立ち尽くしていた。
若林さんがベッドの上に白いシートを広げ、前田さんがその上にコウを横たえる。
コウの荒い呼吸が止まり、全身が細かく痙攣する。若林さんが前田さんに目くばせをすると、前田さんはあたしを部屋の外に促し、ドアを閉めた。
「や……」
「ごめん北山さん」
一緒に外に出た前田さんがあたしを押しとどめる。
「多分、見ない方がいい。ここは若林に任せて」
コウが帰ってきた。
けれども喜びに浸ることなど到底できないような状況に置かれ、あたしはどうしたらいいのか分からず混乱した。
「なんで!? 回復室に入っていたんじゃないの!? コウどうしちゃったの!?」
敬語も忘れ前田さんに掴みかかった。
「……あれでも大分回復したんだよ」
前田さんが暗い声で呟く。
「大丈夫、若林を信じて待っていて」
「前田!」
部屋の中から若林さんが叫んだ。
「手伝ってくれ!」
前田さんはあたしを残して部屋に入っていった。
ドアが閉じる瞬間ちらりと見えた白いシートは、真っ赤な血の色に染まっていた。
「北山さん、お待たせ……」
やがて疲れ切った若林さんの声が聞こえたので、部屋の中に入った。
白いシートは片付けられ、ベッドの上には黒ずくめ姿のコウが横たわっている。
相変わらず顔は真っ青で、呼吸も乱れている。それでもさっきの状態からすれば随分と落ち着いていた。
「本当は俺の実家が経営している『若林病院』みたいな所に何日か入院した方がいいんだろうけど」
若林さんはぐったりと椅子にもたれかかりながら言った。
「会社の機密事項が絡んでいるから、民間の病院へは運べないんだ。でも『管理品』としての扱いもできないから、研究所にもいられない。だから北山さん、大変かも知れないけど、コウさんの世話をお願いできるかな」
若林さんは鞄から薬や機械を取り出して色々説明してくれた。前田さんはその間、ずっとコウの方を見ていた。
若林さんの説明が終わった後、前田さんがぽつりと呟いた。
「北山さん、ごめんね。俺らの交渉力が足りなかったから……」
力なくうなだれる前田さんを見て、あたしは首を横に振った。
「コウさんはそう思っていなかったみたいです。皆さんの気持ちは、痛い程分かっていたみたいです」
そう言うしかない。
コウを見る。
一体、何をされたらこんなことになるのだろう。詳しいことは分からないけれど、素人でも分かることが一つだけある。
こんなことが、あってはならない。
「…………」
気がつくと、コウがうわごとのように何かを繰り返し呟いている。何か言いたいことがあるんだろうか。
「コウ、どうしたの? なんて言っているの?」
コウは首をわずかにこちらへ向け、殆ど言葉にならない声で呟いた。視線は、あたしではなく前田さんと若林さんに向けられている。
「二人に話があるの? どうしたの?」
「…………」
コウの口元に耳を寄せ、繰り返し呟く言葉を必死に聞き取ろうとした。
「…………ぷっ」
あたしはコウの口元から顔を離し、二人に向かっていった。
「あのですね、鬼係長がお二人に言っています。『ありがとう』それと『早く仕事に戻りなさい』だそうです」
実験が終わった途端に叱られて、二人は嬉しそうに「会社」に戻って行った。
巨大な車が滑るように走り去っていく。さて、これからご近所に何から説明したらいいものやら。
寝室に戻ると、コウは眠っていた。
顔色はひどいが、こんな状況でも思わず見惚れてしまうほどの綺麗な寝顔。結構汗をかいているので、ハンカチで額をそっと拭った。
「お疲れさま」
ふと思い出して、右腕のシャツをめくる。識別コードの彫られていた部分には、肌色のテープが貼られていた。
右腕を何度も撫でる。
もうこれで、あなたは「人間」なんだよ、「私の愛しい『人』」。
「会社」の書類は一週間後に取りに行く。それまでに元気になっているかな。
「おやすみ、コウ」
人形のように端整な寝顔にそっと頬を寄せ、囁いた。
コウは翌日の夕方には、あたしに支えられながらベッドから降りられるようになった。
コウの体はぞっとするほど痩せていた。たった三週間とちょっとで。
この頑健な体に一体何があったのだろう。今は聞いて答えられる状態ではないし、回復しても多分教えてはくれない。
今日の夕方から食餌を摂るようにと若林さんから指示があったのだけれど、渡された食餌を、コウは少し口をつけただけで殆ど食べなかった。彼が食べ物を残すところなんか初めて見た。
その翌日には、ぽつんぽつんと会話が出来るようになった。
食事は流動食であれば家で作ったものでいいと言われたので、じっくり煮込んだ野菜でポタージュを作ってみた。彼はそれを全部飲み干し、か細い声で「おいしい」と言って微笑んだ。
なんとか身の回りのことを一人で出来るようになったのはその翌日になってからだ。それでもそのことを若林さんに言うと、「凄い回復力だな、さすが『筋肉仕事ナントカ』」と驚いていた。
あたしが適当に叫んだあの綽名、一体どのくらい広まっているんだろう。
普通の食事が摂れるようになると、顔色も良くなり、以前の面差しが戻ってきた。
「ミキ」
それでもまだ少しやつれた顔に、精一杯の微笑を作る。
「ありがとう。ごめんね、苦労ばかりかけて。俺いつもミキに守ってもらってばっかりだ」
「何言っているの、余計な気を遣う暇があったら、早く元気になってよ。明日は『会社』に手続きに行くんだから。あたし一人じゃわけわかんないし」
「うん、実はね、明日、人事部にも行かないといけないんだ」
「人事部?」
「正社員の採用通知を貰いに」
え、もうそこまで話がついているの?
「これの根回しで時間かかっちゃったよ。でも実験開始直前にやっと確約が取れたんだ」
そういえば実験前、随分長い間何の電話も来なかった時期があった。あれってこんな話も進めていたからなのかな。
「とにかく、一日でも早く『ヒカル』じゃなくなりたくて」
そう言って、少し細くなった指先であたしの唇にそっと触れた。
手続き当日、あたしはあの桜色のワンピースを着ることにした。
だって今日は、あたし達の婚約と、コウの市民権と、正社員採用が一気に決まる日なんだもん。勿論、煩雑な手続きはコウに丸投げする気満々だ。
「あれ? そんな格好でいいの?」
部屋から出てきたコウは、普通のジャケット姿だった。
「今日『会社』の人に会うんでしょ。制服じゃなくていいの?」
「うん。『管理品』としてじゃなくて『新人』として、今日採用通知貰って、入社は来月始め、って形を取るから」
ああ、なるほどね。
まずは戸籍課。窓口のお兄さんに渡された謎の書類に、コウはなにやら書き込んだ。
初めて見るコウの字。なんか釘で引っ掻いたような独特の字だ。別に下手じゃないんだけど、なんとなく完璧な達筆のイメージがあったので意外だった。
癖のある字を書くコウって、ちょっと人間味があって嫌いじゃない。
「……ふん」
書類を確認して、窓口のお兄さんは鼻を鳴らし、露骨に蔑むような目をして言い放った。
「お前、『管理品』あがりか」
コウは軽く笑って受け流す。その時、背後にいた黒ずくめが慌てたようにお兄さんの所へ駆け寄り、何かを耳打ちした。
「馬鹿、この人は……」
「えっ……」
顔色を失って固まったお兄さんを無視してコウは席を立ち、にこにこしながらあたしにできたばかりの戸籍謄本を見せた。
「見てミキ、苗字だよ!」
愛想のない機械の字で打ち出された「氏名:北山洸」のたった五文字を、あたし達はしばらく見つめていた。
できたての戸籍謄本を持って、次はあたしの中での今日のメインイベント、婚約証明書の作成だ。
思い出したくもないが、これは一度書いているから要領は分かっている。けれども今日の手続きの意味は前回とは全く違う。
「会社」から指定された、何の思い入れもない人との婚約じゃない。
あたしが心から愛する人との結婚の約束。運命の引き合った婚約だ。
「では手続きは以上です。婚姻届は両者が二十歳になった日以降に提出してください」
機械的に話すお姉さんの言葉を繰り返し噛み締める。
あたしが二十歳になったら。
あたしはコウの妻になるんだ。
「婚姻届はミキの二十歳の誕生日に提出しよう」
コウの囁きに頷く。
当たり前だ。
あなたのこんなに熱を帯びた甘い囁きを、いつまでも冷静なふりして聞けるほど、あたしは強い女じゃない。
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