2.辞令
人事部との約束の時間まで少し間がある。コウが疲れた様子だったので、とりあえずロビーで座ることにした。
「大丈夫?」
「うん……」
椅子に座ってからのコウの様子がおかしい。疲れだけではなく。落ち着きなくあっちを見たりこっちを見たりしている。
「なんなのよさっきからきょろきょろと気色悪い」
「気色悪い……」
あー、またやっちゃった。
「ごめん言いすぎた。で、何よ」
コウはしばらくもじもじしていたが、やがてジャケットの胸ポケットから何かを取り出した。
「ミキ、戦前映画好きでしょ。でも俺、実は見たことなくて、本もちょっとしか読んだことないから、どのタイミングで渡すもんなのか分かんないんだけど」
耳まで真っ赤になりながら、あたしに向かってポケットから出したものを突き出す。
「受け取って下さいっ」
両手であたしの目の前に突き出されたのは。
リボンのかかった、手のひらに乗るくらいの小さな小さな箱。
これ……!
観たことある、昔の映画で。戦後すっかり廃れてしまった風習。今の結婚制度になってからは、まったく意味をなさなくなった、これは……。
両手で受け取り、リボンをほどく。包み紙を取ると、その中には名前だけは聞いたことのある、別世界の宝飾店の名前の入った箱があった。
まさか、このあたしが。
箱を開ける。心臓が大きく飛び跳ねる。
中に入っていたのは。
「コウ、これって……」
コウは耳まで赤くして照れながら、それでもにこにこと笑った。
「婚約指輪。左手の薬指につけるんだって」
箱の中に
新たに採掘できない現在、その希少性からごく限られた人しか手に出来ない、ダイヤモンドとプラチナが使われた指輪。あたしなんか見るのも初めてだ。
左手の薬指にはめてみる。ロビーの照明を受けて、指輪に嵌め込まれたダイヤモンドが、あの日見た星のようにきらきらと輝いた。
「ありがとう……凄く、素敵……」
溢れ出す感情の中で、やっとの思いでそれだけ伝えられた。コウはそんなあたしを見て、柔らかく微笑む。
「あっ」
しかし次の瞬間、彼は椅子から跳ねるように立ち上がり、まるで恐ろしいものを見たときのように大きく目を見開いた。
「人事部!」
そしてあたしとあたしの気持ちを放り出して、全速力で駆けて行った。
ほっぽり出されたあたしは、指輪を手にしてしばらく呆然としていた。
「あれでも仕事できるんだよなぁ……」
変なところで間の抜けた彼が走り去った後をぼんやり眺めていると、なんだか笑いがこみ上げてきた。
改めて指輪を見る。シンプルだけど繊細なデザイン。あたしの手の大きさに丁度いいサイズ感だ。
コウが宝飾店を知っていたとは思えないので、以前前田さんと出かけたときに買ったのだろうか。
あたしが戦前映画が好きだから、と……。
あたし、大切にされているなあ。
高価なものを買ってもらったからそう思ったんじゃない。あたしの好きなもの、あたしの喜ぶものを一生懸命考えてくれる気持ちが嬉しかった。
元部下に、女性服店や宝飾店のことを訊いたりするのって、結構勇気がいるんじゃないか。それでも、あたしのために訊いてくれた。あたしのためにいろいろ選んでくれた。
それが、たまらなく嬉しい。
昼休みになった。ロビーから「管理品」の姿が消え、社員がどっと出てくる。
その社員の波に押し出されるようにコウが出てきた。手には紙袋と大きな封筒を持っている。
「ミキ、お待たせ。ねえみてみて、俺来月から」
「あーっ! コウさんだーっ!」
コウの話し声に被さるように甲高い声が聞こえた。声のした方を見ると、古谷さんを先頭にお花のような女性社員数人がこちらに向かってくる。
「きゃあ、お久しぶりですう。あ、北山さんも一緒だあ」
若い社員の一人がはしゃいだように声を掛けてきた。
コウは皆に向かって深々と頭を下げる。
「皆さんお久しぶりです。古谷さん、この度はご尽力頂きましてありがとうございます」
古谷さんは、コウを見て複雑な表情を浮かべた。
「あんな目に遭わせてごめんなさいね。……大変だったでしょう、こんなに痩せちゃって」
その言葉を聞いた女性社員たちは、皆言葉を閉じ、俯いた。
その様子を見て、コウはにこにこと笑って手を左右に振る。
「こんなものはすぐに戻ります。それより、おかげさまで今日、全ての手続きが完了しました」
あたしに微笑みかける。
そこで古谷さんは大輪の花のような笑みを浮かべた。
「あっ……! おめでとうございます、『北山』さん」
今の言葉の意味を皆理解しているらしく、拍手が起こった。コウははにかみながら頭を下げる。
「あっ、じゃあせっかくですから、今日はコウさんと北山さんも一緒にランチ行きましょうよ」
どういうつもりか、さっきの甲高い声の社員がそんなことを言った。
えー、やだなぁ。せっかくの記念日なんだから二人になりたいなぁ。でも皆盛り上がっちゃっているし、コウの今後の付き合いもあるから行かなきゃかなぁ……。
その時、古谷さんが強い口調でさっきの社員をたしなめた。
「何言っているの。二人きりにしてあげましょうよ。なんていったってコウさん、今まで散々な思いをしてやっと恋を実らせて、今日めでたく婚約までこぎ着けたんだから」
「あの古谷さん……」
いくらコウが顔を赤紫色にして止めても、古谷さんは止まらない。
「そりゃあね、北山さんの左手の指輪は婚約指輪ですかー、とか、どこでどんな風に想いを伝えたんですかー、とか、二人の時はお互いをなんて呼んでいるんですかー、とか、色々聞きたいかも知れないけれど。これからは雑談OKなんだから、復帰したらじっっくり聞きましょ。ね、コウさん……じゃなくて『北山さん』……あ、違うか」
「もうなんでもいいです……」
古谷さんは赤紫色のコウの手から封筒を勝手に取り上げ、中に入っていた紙を高々と掲げた。
「来月からは」
掲げられた紙を見て、あたしは度肝を抜かれた。
……まじか!?
「『北山課長』ね」
辞令
北山 洸
右の者 環境部移住準備室長(課長待遇)に任ず
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