3.接吻

 家に帰ってからも、あたしの混乱はおさまらなかった。


「あの辞令、なんで!?」

「うん、普通は入社するときに渡されるんだけど、前準備の関係とかで」

「辞令の渡されるタイミングなんか知らないよ! じゃなくて!」


 だって、だって、「会社」の課長なんか、あたしから見ればそれこそ雲の上の存在だ。コウがいずれ課長になることはなんとなく覚悟していたが、まさか、いきなり……。


「本当はね、小野さんと設備係の人に全部お願いできたらと思っていたんだけど、部長が、これはいずれ大きな話になるから、今のうちから独立した部署を作った方がいいって言ってさ。でも実際準備室で働く人は、当分設備係の人の兼務が中心だよ。本格的な課長業務が始まるのは年度初めの大規模な人事異動の後」


 コウは色々と説明してくれた後、悲しそうな表情であたしを見つめた。


「ミキ」


 澄んだ瞳の奥が揺れる。


「ミキにとって、俺の昇進って、そんなに衝撃を受けるもの?」


 あっ……。


 あたし、この人のパートナーとして最低だ。

 一生懸命やっていたことが評価されて、それなりのポジションに引き上げられたというのに、喜ぶどころか自分中心の価値観で怖気づいて、抗議するような物言いをしてしまった。

 この人は、いずれもっと上に行く人だ。東京を大きく変える仕事をする人だ。それなのに、それこそ結婚前から支えきれないようではどうするんだ。

 ……ううん。そうじゃない。それ以前に。


「ごめんね。この話は今日聞いたばっかりだから、心の準備ができていなくてびっくりしただけなんだ。でもね、あたしにとって、今日の一番大きな出来事は昇進じゃないよ」


 コウの首筋に両腕を回す。


「あたし、もうすぐ誕生日なの。だからあと二年とちょっとなの」


 澄んだ瞳の光があまりに眩しくて、あたしは思わず目を伏せる。


「……あのさ、当たり前じゃない、あたしにとって今日の一番大きな出来事は、コウとの婚約に決まっているでしょ」


 そう。今日はコウが市民権を得て、あたしと婚約した日なんだ。

 正社員雇用も、昇進も、彼のこれからの長い会社人生の中の一つのステップに過ぎない。

 コウは目を伏せたあたしの顎に軽く触れて顔を引き上げた。

 端整な顔と、澄んだ瞳が間近に迫る。あたしは思わず後ずさったが、リビングのドアに阻まれて後ろに引くことが出来なかった。


「あのさ、覚えている?」


 形の良い唇から、吐息のような囁き声がこぼれる。


「俺が実験に行く日の朝、ミキ、言ってくれたよね。あの言葉、まだ生きている?」


 あぁ、どうしよう。来た。

 心臓がどくどくと痛いくらいに打ちつける。

 どうしたらいいの。なんて言ったらいいの。どうしよう、あたしは今、どうしたら……。


 ……どうしよう、なんて分かっている。

 あたしは、あたしの言葉で、あたしがしてほしい事を言えばいいんだ。


「生きているよ勿論。あんたがあんなんなって帰ってきたもんだから、言いそびれちゃっただけじゃない。でもさ、とりあえず元気になったし、婚約もしたし、正社員にもなったし、もう『鈴木ヒカル』はいないんだよね。だったら」


 あぁ、恥ずかしくて涙が出そうだ……。


「『ここにキスして』」


 あまりに恥ずかしくて、言葉の最後の方は消え入ってしまった。

 コウははにかむように少し視線をそらし、またあたしの方を見つめた。

 どうするんだっけこういう時。そうだ目を閉じて。

 彼の顔が近づく気配を感じる。


 初めて重ねられた彼の唇の感触。

 そのあたたかさを、あたしは一生忘れない。




 昼食の後、改めて今日の書類なんかの確認をすることにした。

 戸籍関係は全く分からないのでコウに丸投げだ。婚約証明書に今回貼った写真は、なかなか良く撮れていた。


「前の写真って、そんなに変だったの? どんなだったの?」

「どんなってさあ、窓口のお姉さんが凄く面倒くさそうに撮って、なんか鼻の穴全開みたいな写真でさ。おかげで警察に捕まらなかったんだからいいんだけど」


 それを聞いたコウは書類を整理する手を止めて、じっとあたしのことを見た。


「それ、多分鼻の穴のせいじゃないと思うよ、警察官が気がつかなかったのって」

「えー? あ、じゃあ髪型か」

「それだってどうせ馬のしっぽみたいに縛っていたんでしょ。だったら印象に関係ないよ。そうじゃなくてね、多分、その写真に比べてミキがきれいになっていたからだと思うよ」


 ……またかい。


「初めて会った時、こんなにきれいな人がこの世にいるのかと思ったんだ。でもさ、その後、さらにどんどんきれいになっていくんだもん、どういうことかと思うよ。上限と思っていたものが、さらに良くなるって。まるで天井のない空みたいだよ」


 そう言って微笑み、また書類の方に目を戻した。

 コウの表現は九割差し引くとして、改めて今回の写真を見てみる。

 口紅をつけている、とか、きれいなワンピースを着ている、とかを別にしても、確かに昔に比べて少しまともになった気がする。目鼻の形は変わらないが、雰囲気というか、なんというか……。


 まあ、原因は、すぐに分かった。

 好きな人に、毎日きれいだって言われていれば、そりゃ変わるでしょうよ。

 自分でも分かる。今、あたしは、にんまりとした気色悪い笑みを浮かべながら、書類をファイルにしまっている。




 コウの入社まであと三週間。

 あたしはその間、思い切って全てのお客さんのキャンセルをした。

 ただでさえ最近休みがちだったので、多分これでなじみのお客さん達も大分失うことになると思う。でも仕方ない。今は、コウを全力で支える時だ。


 辞令をもらった翌日から、家の前にはひっきりなしに黒塗りの巨大な車がやって来た。移住準備室の打ち合わせのためだ。

 形式上、入社前のコウがあんまり「会社」に行くのもどうか、という事や、彼の体調のこともあって、向こうから大量の資料や機械を持って来るのだ。


 あたしはその度に出迎え、貴重品のお茶を出し、見送った後に片付けと掃除をする。

 来客中にも容赦なく電話がかかってくるので、その間の電話はあたしが応対することにした。自然と来客のスケジュールを管理することになる。出来るだけ色々な人の予定を入れつつ、コウの体の負担にならないよう調整しないといけない。


 食事や休息の取り方は、若林さんの仕事が終わった後、アドバイスをもらって自分なりに工夫した。

 最近若林さんの仕事が忙しいらしく、電話が出来るのはいつも真夜中だが、若林さんは何の知識もないあたしに根気よく色々教えてくれた。


 入社後のコウの新しい住まいは、会社の独身寮だ。管理職の入寮は前代未聞らしいが、入寮条件が「二十五歳以下の独身者」しかなかったので認められたらしい。

 寮なので一通りの家具や機械は揃っているが、こまごまとした買い物はしないといけない。来客応対の合間に、少しずつ揃えていった。




「ミキ、ありがとう」


 婚約後何日か経ったある日の夜、リビングで二人並んで座っていた時にコウが言った。


「毎日いっぱい手伝ってくれて、ごはんも色々考えてくれて。おかげで凄く助かっているよ。仕事もスムーズに動いているし、体もすっかり元気になった。一緒にいるのがミキだからこそ、俺は働けるんだ」


 ミキだからこそ。

 そう言ってくれるだけであたしは充分だ。


「いいんだよ。それよりさ、明日は『会社』休みでしょ。久しぶりにちびっこと遊ぶ? 上野君、毎日遊びたいってうちに来ているんだけど」

「うん……。それもいいけど、本当は俺、明日はずっとミキと一緒にいたい」


 コウは照れたように顔を赤くして下を向き、少し躊躇った後、顔を上げた。


「あのね、今日、部長がミキのことを褒めていたよ」

「部長が? なんで?」


 環境部長とは、行き帰りの挨拶の時くらいしか会っていない。なんとなく初めて会ったときの「尻に敷いている発言」のイメージがあるので、あんまりいい印象がないんだけれど。


「ただ尻に敷いているだけじゃなくて、ちゃんと支えてくれているんだねって」


 本当にもう、誰だよこの噂の出所は!


「君は幸せ者だ、本当に良い『奥さん』だねっ……て」



 目を見開いたあたしを見て、コウは柔らかな笑みを浮かべた。

 幸せそうな、あたたかな笑顔。

 コウ、こんな笑顔もあったんだね……。


「ミキ、ありがとう」


 彼の指先があたしの頬に触れる。

 もう、分かっている。あたしはそっと目を閉じる。


 そしてあたし達は、この日何度めかのキスをした。

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