8.地上への階段
S区の扉の周りは、昼間なのに薄暗く、人通りもほとんどない。そして朝と同じように、ぼんやりと偽物の空を見つめる人が何人か座り込んでいる。
「このあたりに座り込んでいるのは体に良くないんだけれど」
「例の汚染物質の関係?」
「うん。この扉の内部に発生源があった。他にも何か所かあるんだろうけどね。あ、その部分はざっと塞いでおいたから、ちょっと中通るくらいなら大丈夫だよ。でも今朝はさすがに急性症状出た」
え、急性症状なんかあるの?
「何それ大丈夫? 急性症状ってどうなるの?」
「べつにたいしたものじゃないよ。吐き気と頭痛くらい? ただ俺ミキと別れてからずっとごはん食べていなかったのに吐いたから、ちょっときつかったかなあ」
筋肉仕事バカめ……。
そんな状態だったのに朝食三人前食べて寝たら復活しちゃったわけ? コイツ、体力が常軌を逸しすぎだよ!
「あの、今思ったんだけど」
素人考えを提案するのは気が引けるが、「会社」の元係長様に言ってみる。
「地上の空気の汚染が人の体に与える影響を計るのにさ、コウの体基準じゃ多分世間は納得しないと思うの。あたしは健康だけど普通より体力ないし貧相だからさ、もしあたしの体で大丈夫っていうんなら世間も納得すると思うんだ。切った貼ったの実験はやだけど、採血ぐらいまでなら我慢できるから、あたしの状態もデータに入れてみたら……どうでしょう……か」
「いいの? 本当!? ありがとう!」
あたしの提案を聞いたコウは、目をきらきらと輝かせて拝むポーズをしてみせた。
この人、本当に仕事好きだなぁ。
報酬があるわけでもないのに。自分の仕事の成果が、みんな設備係の他の人の成果になってしまうのに。
仕事なんか食べていく手段位に思っていたあたしにとって、この純粋な情熱は意味不明だがどこか羨ましい。
古い扉には、機械の鍵がかかっている。百年前に設置されたらしい機械鍵は壊されていたが、そのそばに新しい鍵が取り付けられている。
「古い鍵、壊されているね。誰がやったのかな」
「俺」
「結構頑丈そうなのに。大掛かりな機械なんか持ってなかったじゃない」
「これ」
そう言って力こぶポーズを取ってみせ、新しい鍵の開錠作業を続ける。
……まじか。というか本当に力「こぶ」って出来るものなのね。
開錠の合図の電子音が鳴り、コウが扉を両手で押すと、それは軋んだ重い音を立てて内側に開いた。
中は、ぽっかりと暗い闇が口を開けている。
「急いで入って」
あたしが入るとすぐに扉を閉め、鍵をかけた。鍵をあけっぱなしにしておくと、路上で寝ていた人のねぐらにされかねないから、だそうだ。
扉を閉めると、そこは完全な闇だ。すぐそばにいるコウの姿も見えない。瞳孔がぐわっと開くのが分かったが、瞳が捉えられるのはやはり果てしない闇だけだった。
「資料によると、ここの通路が一番地上との距離が短いらしいんだ。ちょっと待って」
コウの落ち着いた声がぐわんと響く。かちりと音がして、小さなあかりとコウの手が浮かび上がる。手に何かを持っている。それのスイッチを入れると、通路に小さな灯りが点々と灯った。
「そういやこの灯り、随分前から何回も買いに行かされていたよね。店に在庫ないって言ったら取り寄せろって言ってさあ」
「お手数をおかけいたしまして誠に申し訳ないことでございます」
冗談めかした会社口調のコウの声が、暗闇への恐れを少しだけ和らげる。だがこの程度の明かりでは殆ど明るくならない。足元がぎりぎり見えるくらいだ。
怖い。恐ろしいくらいの闇だ。階段もところどころ崩れていて、湿った通路は滑りやすい。コウとつないでいる手にじっとりと汗をかいている。通路の中は結構寒いのに。
いやだ。怖い。こんな手先だけの支えじゃ心もとない。暗闇に押しつぶされそうだ。
あたしの頭の上で、黒い怪物が大きな口を開けて飲み込もうとしている。違う世界の生き物が、あたしを引っ張って奈落の底に突き落とそうとしている。息をすると黒い闇があたしの肺を侵していく。
……怖い。
「ねえ……」
話しかけようとしたその時、水たまりに足を取られて滑った。
「きゃあっ」
暗闇の中で滑って一瞬足元から地面が消える。
このまま奈落に落ちる幻覚を見かけたその時、あたしの体を力強い腕がふわりと救い上げた。
「あ……」
コウの両腕があたしの体を包み込む。暗闇で姿は見えないけれど、腕の感触と温かさははっきりと分かる。
「大丈夫?」
あたしの耳元のすぐ近くでコウが囁く。その囁きの感触に、心臓が一つ大きく飛び跳ねる。
「ん……ねえ、お願い」
体勢を立て直し、そのままコウの腕にすがりつく。
「このまま、歩いていい?」
暗闇の中で、無言で頷く気配があった。
あたしの大好きな腕。暗闇は同じなのに、こうしているだけでさっきの怪物はすっと遠くに行ってしまった。
足音と、かすかな息遣いだけが暗闇に溶けていく。どのくらい歩いただろう。時間の感覚が全く分からない。何時間も歩いた気がするけれど、多分気のせいなんだろう。
「あとどの位かな」
「もうすぐだよ、あとちょっと。ほら、見えるかな、向こうにちょっとだけ灯りが見えるでしょ」
いや見えないよ。あんたの視力でものを言われても困る。
そう思いながらなおも歩き続けると、なるほど、遠くに小さな灯りが見えてきた。
「あれ……」
「地上側の扉」
灯りはだんだん大きくなる。やがてその灯りは、扉の姿をぼんやりと照らし出した。
「こっちの扉は鍵壊しっぱなしなんだ」
そう言いながら扉に手をかけ、ぐっと力を込めて押し広げた。
扉が動くと、向こうから強烈な光が通路に差し込んできた。
照明を目の前に突き付けられたような強烈な光。光は扉が開くにつれて輝きを増していく。
それと同時に扉の向こうから身を切るような冷たい風と、鼻腔を突き抜けるような草の匂いがした。
「春先は風が冷たいんだ」
コウはあたしの肩をそっと抱くと、扉の外へと歩き進めた。
抜けるような、果てしなく広がる天井のない青い空。
想像を絶する強烈な白い光を放つ太陽。
大地を滑る、刃物のように冷たい風と優しい空気。
足元一面に広がる柔らかな緑の感触と突き抜ける草の匂い。
そして瓦礫。かつてこの地上を覆っていたであろう文明の傷跡。
人間という独裁者を地下に飲み込み、地上は、百年かけてゆっくりと傷を癒していった。
「ここが」
あたしの肩を抱き、太陽の光に目を細めてコウは云った。
「地上。そして、天井のない空」
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