7.赦しを乞う
仮眠から覚めたコウは、さっきまで自分がおかしかった事を自覚していた。原因は、自分の体力を過信した仕事バカな行いの報いらしい。
「汚染物質の出所が分かったから、そこで色々調べていたんだけど、考えてみたらその間ずっと吸い込んでいる形になっていて、だから……よく覚えていないけど多分ごめんなさい」
「なんでそんなちょっと考えれば虫でも分かるような事に気がつかないんですか! 自分の健康にも気を配れないようではろくな仕事は出来ません!」
あれー? なんかうまく出来ないな。この叱りかた、仕事への理解と語彙力とひねくれた性格が必要なんだな。
「それ俺の物真似でしょ。会社で皆まだやってんの?」
「真似されているの知っていたんだ」
「うん。特に前田さんと佐々木さんがやっていた」
なんだ、ばれているんだ。
「でもさ、ただ面白がって真似しているだけじゃないよ」
一応、コウと新人達のお互いのためにこれは言っておこう。
「今回の警察騒ぎ、小野さんと警察官の会話をもとに前田さんが色々切り崩していったんだけど、それが出来たのは、コウのあの感じ悪い説教のおかげみたいよ」
「感じ悪くしているつもりはなかったんだけどなあ」
そう言いながら柔らかく笑う。その表情は部下の成長を喜ぶ上司そのものだ。
不思議な人。普段の仕草や言動は幼いのに、ふとした時に老成という言葉がふさわしいくらいの貫禄を見せる。
その差が気になる。
その差にあたしはまた惹かれる。
「今の時間ならぎりぎり青空に間に合う。そろそろ行ける?」
そう言って長袖の上着を引っかける。改めて持って行く荷物を選り分けてひょいと担ぐ。
やっぱり、おかしい。
汚染物質のせいだけじゃない。竹田さんの件、何の感想もない。良かったねとか、これからどうするのとか、何かあるだろうに。
さっきの古谷さんの話もあたしの気持ちの話も宙ぶらりんのままだ。
第一、この数日間の自分のしたことも話さないし、あたしの様子も聞いてこない。
なんで? ゆうべの電話で全部納得しちゃった? あたし、殴られたんだよ? 鉄格子の部屋も見たんだよ? 警察だって怖かった。ねえ……。
「……この数日間のこと、気にならない?」
あたしはいい加減学習した。こういう時はさっさと聞こう。下手に一人で考え込んで思い込むと、ろくな結果にならない。
「あたし結構いろいろあったの。まあ結果無事こうしているんだけど、でも」
コウは、ぐちぐちと喋るあたしの両手をぎゅっと握って言葉を遮った。
痛いくらい強く握って。
あたしの前に跪き、両手を額に押し当てる。
そのまま、ずっと、時が過ぎる。
「……気にならないわけないじゃないか」
絞り出すようなかすれた声で囁いた。
「あんな場所に大事な大事なミキを放り込んで、社員に暴力を振るわれていないか、市民に嫌なこと言われていないか、ほかの管理品に何かされていないか、きつい作業はしていないか、怖い思いはしていないか、寂しい思いはしていないか、悲しい思いはしていないか、眠れているか、ごはん食べられているか……」
何かのタガが外れ、言葉が次々溢れ出す。
壊れてしまった機械のように。
「……何から聞こう、何から言おう、どうしたらいい。そんなこと思っていたら、何も聞けなくて、何も言えなくて、そこにまたいろいろあったし……。ごめん……ごめんね……少しずつ、聞いていい?」
手を握ったまま、あたしの顔を仰ぎ見る。
赦しを請う人のように。
「地上で。天井のない空の下で。せっかくだから青空だけじゃなく星空も夜明けも一緒に見たい。その間にゆっくり話がしたいんだ。……いいかな」
「……コウってさ」
あたしも跪き目線を合わせる。
いつ見ても見惚れてしまう、彼の澄んだ瞳を見つめる。
「不器用だよね。あたしに言われたかないかも知れないけど。手先は器用だけど心が不器用だ」
彼は幼い子供のようにあたしを見る。
「じゃあそう言えばいいんだよ。考えすぎて言葉が足りなくなるんじゃないかな。ま、いいや。ちょっと待って。すぐ支度するから」
今、一番言いたいことを飲み込んで、にっこり笑って自分の部屋に戻った。
……やばいやばい。うっかり云っちゃうところだった。
あたしは戦前映画や戦前小説のマニアだ。あまり感心出来ない趣味だから、おおっぴらには言わないけれど。
だからそれらに当たり前に出てくる「恋愛」というものに、密かに興味を持っていた。まさか自分が経験するとは思っていなかったけれど。
その中では、主人公が女性でも、かなりの割合で「告白」やらの主導権は男性が握っている。女性が相手にもじもじ好意を表現しているうちに、都合よく男性が「告白」と呼ばれるものをしてくれる。なんかどの人たちも幸せそうだ。
だからせっかく「恋愛」したんだから、あたしもあれをやってみたい。
だから今、一番言いたいことは飲み込んだ。これは、待つものだ、多分。
手を握るだけじゃやだ。だって好きなんだもん。
だからお願い、あたしのことをぎゅってして。
そうだ、古谷さんからもらった口紅と香水、つけてみよう。
香水ってどうやってつけるんだ。よくわからないけれど結構香りが強いから、ちょんちょんと少しだけつけてみた。
いいのかこれで。少なくないか? まあいいや。高そうだし。
そしてこの口紅、すごくいい匂いがして、つけると唇がふわふわに柔らかくなって、お花みたいにきれいな色で、まさに古谷さんがよく使っていた「女の子」という言葉がふさわしい。
よく見ると、口紅のケースに何か外国語が彫られている。印刷じゃない。古谷さんのにこんなの彫ってあったっけ。よく見ていないけど。あたし用に彫ってくれたのかな。
そういやこの鏡の上にも外国語が彫ってある。口紅とは違う言葉だ。
あとでコウに意味を教えてもらおう。
「はいお待たせ。じゃあ行こう。タクシーうまくつかまるかな」
部屋から出てきたあたしを見て、コウは持っていた鞄を肩から落としてしまった。
がしゃんという、機械が衝撃を受けてしまったっぽい危険な音がした。
「ちょっと、何よ」
「ば……」
目を見開き、あたしを見据える。「ば」って何よ。
「薔薇の花みたいだ……きれいだ……」
お花畑みたいに華やかな職場で働いていたくせに、あたしが後頭部をひっぱたくまで彼はその場から動けなくなっていた。
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