6.一緒に帰ろう

 朝、マサキさんの部屋に置いていた荷物を受け取り、挨拶をした。


「もう二度と会うことはないだろうね。気をつけて」


 マサキさんの挨拶はそっけない。あたしはもう一度お辞儀をしてマサキさんの部屋と、管理品居住棟を後にした。


 もう二度と会うことはない、と言っていたが、あたしはなんとなくまた会える気がしている。それもロビーで偶然見かけるとか、そういうのじゃなくて。

 それってあたしが本当に「管理品」になっちゃうということなのか。それも違う気がするな。

 なんだろうこの気持ち。




 朝七時。偽物の空が夜空から青空に切り替わる。この時間になるといくつかの店が営業を開始する。あたしは「会社」の周りにたくさんあるおいしそうな店の一つに入って、朝食を四人前購入し、支払いをしようとした。


「あ、北山さん!」


 朝食を買いに来ていたらしい男性にいきなり声をかけられた。

 すらりとした抜群のスタイルで、ラフな格好ながらも随分と垢抜けた雰囲気の人だ。あたしの知っている人で、こんな芸能人みたいな人なんかいない……。


「前田……さん?」


 えー! まじか!


「俺らここの寮住まいなんだよ。いやーすごい偶然。これからS区でしょ。なんで朝食四人分?」

「コウさん一回の食事で三人前食べるんです」

「若いなー」


 そんなこと言うほど歳食っていないだろ、と思ったが、時間がないので会釈して店を出た。すぐにタクシーが来たので飛び乗る。


 いいなあ。仕事は大変そうだけど、自由で楽しそうだ。結婚するまでの一人の時間を気ままに過ごしている感じ。

 おしゃれをして、好きなものを食べて。別に特別なことをしているわけじゃない。誰だって、そのくらいの楽しみはあってもいいはずだ。


 鉄格子の中で監視されながら生活して、栄養だけを考えられた食餌しか食べられない。大学だ整備医だ外国語だとあらんかぎりの知識を詰め込まれながら、肝心の時に技能を使わせてもらえない。買い物のしかたも知らない。

 そんなの、おかしいじゃない。


 これからはあたしが今までの時間を取り戻してあげる。今回の近所の人達の対応から見て、もっと行動範囲を広げても大丈夫そうだ。

 一緒に買い物をして、食堂でごはん食べて。そうだ、戦前の映画も観たい。屋根のない空が普通にある、戦前の。あと……。


 そこでふっと、なんとなく考えるのを避けていた事が頭をもたげる。


 あたしはコウが好きだ。

 コウもあたしが好きだ。

 それでも、今までと同じ関係を続けるのか。




 気がつくと、タクシーは目的地に着いていた。

 S区の外れ、誰も通りたがらないような路地裏。薄汚れた建物が密集するなか、ぽっかりと空いた空間に唐突に現れる古い扉。

 この間来たときには扉の前にゴミがうずたかく積まれていた。周りには住むところを失ったのか棄てたのか、そんな様子の汚れた身なりの人達が虚ろな目で偽物の空を見つめている。


 いた。

 思い切り周りに馴染んだ薄汚れた姿。扉の近くの建物の壁に寄りかかって眠っている、人形のように整った顔。

 ずっと、ずっと逢いたかった。


「コウ……」


 囁き声では起きない。そっと頬に触れてみたが、少し眉間に皺を寄せただけでまた眠ってしまった。

 よほど疲れているんだろう。このままもう少し寝かせてあげる? いや、それより……。


「コウ! もう八時過ぎているよ! こんな所で寝て、危ないじゃん荷物が! ほらごはん買ってきたから食べよう!」

「ごはん!」


 なんだよ、逢った第一声が「ごはん」かよ! 寝ぼけて目は半開きだし、全くこの……愛しい奴が。


「……ミキ?」


 緑がかった茶色の瞳があたしをとらえ、じっと見据える。

 長い間。

 まるであたしの姿を瞳に全て焼きつけようとしているかのように。

 彼は何かを言おうとして口を開き、そして閉じた。


 どうしたの。何か言ってよ。

 でもあたしも言葉と感情が溢れて溢れてどれも口から出てこられない。何から話そう。何から伝えよう。あんなに逢えるのを楽しみにしていたのに、今の想いを何も伝えられない。


「ごはん、食べよっか」


 結局出てきたのはこんな言葉だ。

 なんだよあたし。


 コウは少し首をかしげた後、私が持っていた袋の中から当たり前のように朝食を三箱取りだし、挨拶もせずにこの場で猛然と食べ始めた。

 こちらに目も向けず無言で食べ続ける。


 ……なんか、おかしい。


 「会社」の衛生環境が良かったせいか、コウほ案外きれい好きだ。こんなに汚れて気持ち悪いかもしれない。あんまり顔色も良くないし。


「あのさ、一旦、うち帰らない?」


 三個めの朝食の蓋を無言で開けたコウに言った。


「無理しないでさ。『ヒカル』なら帰っても大丈夫だし、シャワー浴びて少し寝なよ。大丈夫。地上は逃げないもん。あたし数時間なら待っている。ね。一緒にうちへ帰ろう」


 一緒にうちへ帰ろう。

 なんて素敵な言葉だろう。

 帰る家と、一緒に帰る人がいるから言える言葉。今のあたしにとってはまるで幸せの呪文みたいだ。

 空は見たい。でもまずは、あなたと一緒にうちへ帰ろう。




 家の前で、上野さんの奥さんに会ってしまった。


「ミキちゃんどうしたの今まで! あらヒカル君、何その格好」

「いやーこいつ実は放浪癖があって、やっと捕まえたんです」

「まあそうなの」


 ヒカルの普段の行いのせいか、ものすごくあっさり納得された。ご近所対策はこれでよし。


 それより気になるのはコウだ。さっきからほとんど喋っていない。

 昨日の電話ではあんなに優しかったのに、なんだかよそよそしい気もする。

 なんで? そんなに疲れた? でもさ、いくら疲れたからって、ちょっとくらい微笑みかけてくれてもいいじゃない……。




 やっぱり汚れが相当気持ち悪かったのか、やたら長時間かけて、ようやくシャワーから出て来た。


 ……だから半袖やめて! あたしその腕大好きなんだから見せないでよ!


「……古谷さん」


 頭を拭きながらいきなり話しかけてきた。


「何か言ったの」


 変な棒読み口調で、目の焦点が合っていない。


「え? ああ、あのことか。えーと古谷さんが何か言ったというより、あたしの今の気持ちを古谷さんに云ったら、それをふまえたあたしとコウの関係というか状態をうっかり大部屋で叫んじゃったの」

「気持ち?」

「うん。あたしの気持ちとコウの気持ちを合わせると世間で一般的に何て言うか。それを叫んだもんだから、昨日女性陣が仕事にならなくて、で、天下の総合職様達が夜中まで切手貼ったりコピー取ったりしていたわけ」


 コウはこう見えてばかじゃない。昨日、小野さんは電話の反撃の中で、あたしがコウの気持ちを知っていることをほのめかしていた。いろいろ総合すれば、あたしの気持ちも分かっているはずだ。

 でも、あたしは結構意地悪なんだよ。


「気持ちってなあに、とか聞いても言わないよ。あたし戦前映画マニアなんだもん。お互いの気持ちがお互い又聞きなんか、やだもん。こういうのはあんたの方から言うんだよ。だからいつでもいいから言って。その時の状況がどんなでも、あたしは受け入れるから……って、普通はここまでサービスして云わないんだよ」


 その時、郵便が届いた。

 郵便、まだ封開けていないのもあるのに。家を留守にするとこれが面倒くさい。

 手紙は警察からだった。

 なんで? あたしの疑いは晴れたんじゃないの? コウがここにいるのは知らないはずだよね? それとも「ヒカル」の身元のこととか?


 鋏でなく手で封を切る。

 手元が震える。一体……。


「これ……」


 中の紙を見て、あたしはその場に座り込んだ。

 やだ、涙まで出てきた。

 そんなあたしの様子を見て近寄ってきたコウに紙を見せる。彼は内容を一瞥して、その場に立ち尽くした。


 ぐちゃぐちゃの迷路みたいに先が見えなかった。

 今だってそうだ。問題も障害も山積みだ。

 それでもきっと行き着く先は奈落じゃない。多分。

 少しずつ前に進んでいる。


 警察から届いたのは、傷害の虚偽被害を申告した竹田さんの、強制婚約解除処分の通知だった。

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