5.たまらなく会いたい

 あたしは一応開業している。だから事務作業はしたことがあるけれど、こんな立派な組織の中で行われている業務が務まるかどうか。

 そんなことを思いながら空調管理課に向かったら、託された業務は予想をはるかに超えた……単純作業だった。


「これ! 明日の一便で投函しないといけないやつなんだ! 手紙の内容は全部一緒だから、片っ端から封入して切手貼って!」


 手渡された封筒の山を見て、あたしはなんだかおかしくなった。

 そうか、この人達、人生の中でこんなのやったことないもんね。


 戦前は、ボタン一つで誰もが好きなように世界中に情報を送れたらしい。そのシステムが今でもあれば、こんな作業はいらないのかもしれない。

 だけど普通に考えれば分かることだ。そんなことが無制限に許されていたら、問題が起きないはずがない。まあ、要はそれがもとで「あの戦争」が起きた。

 だから今ここでそんな昔を羨んでも仕方がない。さて、やるか。


 隣では、慣れない手つきで切手を一枚一枚ちぎって貼っている黒ずくめがいる。


「あの、そうやっていると大変なんで、こうやって切手を十枚縦一列に切って、封筒をこのくらいの山にして、切手を封筒に乗せて押さえながら下の部分をちぎっていくと早いと思います」


 そうだよね、庶民の何倍もの給料を貰っている人たちが、普段からこんなことやっていたら庶民、暴動起こすよ。


「できました……。あ、それ、そのままだと崩れちゃうんで、互い違いに積んだ方が……」




 ひととおりの作業が終わって時計を見ると、一時を回っていた。


「ありがとう。助かったよ」


 小野さんが顔を緑色にしながら言った。


「いえ、たいしたことできなくて。こんなんでよかったんでしょうか」


 前田さんは指についた糊を拭きながら溜息をついた。


「いやー、『事務職の方の業務を把握していないんですか。何をやっているのか分からない人に指示を出しても、的確な指示は出せません』だよな本当」


 前田さんって、鬼係長に言われたことを全部覚えているんだろうか。言われたことを全て受け止めている気がする。

 自分より年下で、非常勤の上司の言うことを。


「今日はもう遅いから、明日ママに挨拶してから家に帰って。ここへは来なくていいからね」


 小野さんがそう言い終わるか終らないかというときに、あたしの電話が鳴った。


 ずっとずっと待っていた。

 表示された電話番号を見ただけで、涙が出そうになる。


『遅い時間にごめんね。今、電話大丈夫?』


 数日聞いてないだけなのに、たまらなく懐かしい。

 低くて優しい声に幼い口調。


『今、S区の入り口に戻った。そっちはどう? 何か大変なこととかなかった?』


 あったといえばあったが、今となってはそんなことはどうってことない。

 黒ずくめ達がこちらを見ているのが分かる。でも、気にしていられない。


「少しね。でも皆さんが助けてくれたから大丈夫。でね、小野さんや前田さんのおかげで警察の件が解決したから、あの家に戻れるの」


 どうしよう。立っていられなくてその場でうずくまる。


「ねえ帰ろう。一緒に空を見たら、また家に帰ろう。今S区の入り口でしょ。あたし今から行く。すぐ行く。早く会いたいの」

『……いや、明日の朝にしよう』


 冷静な声が、あたしの昂ぶった感情を鎮める。


『ここは治安が良くないから、夜中に一人で来ちゃだめだよ。俺入り口で待っているから、今日は休んで』


 嫌だ、早く会いたい。そう言おうとしたとき、言葉を遮られた。


『俺だって早く会いたいよ。でもさ、これからずっと一緒なんだから、今晩数時間くらい、待っている』


 ――ずっと一緒。


 分かっている。そこに大きな意味はない。でも。


「……分かった。じゃあ明日八時くらいにそこに着くようにする」


 その時、小野さんが電話を貸すよう手振りで示した。


「おいこの放蕩息子。人に散々仕事を投げておいて、真っ先に連絡するのは私ではなく北山さんか」


 後ろにいた黒ずくめの一人が、笑いながら呟いた。


「そういやそうだ。ひどいやコウさん」


うん、確かに。そういやそうだ。


「――とまあ、そういうことで、古谷さんの一言で、君達の関係は設備係全員が知っているから。具体的には北山さんから直接聞くように。もうここまで来たら、いい加減腹をくくって若林の提案をのんだらどうだ。そんなびくびくしないでどーんと行け! 男だろう! あ、切れた」


 詳しくは分からないが、珍しくコウに勝利したらしい小野さんは、電話に向かって満足げに頷き、あたしに電話を返してきた。


「八時に着きたいなら七時前にはここを出ないとね。あいつ買い物出来ないから、途中朝食でも買って行ってやってくれるかな。……と、そうそう」


 小野さんは自分のデスクから小さな紙の包みを取り出した。


「古谷さんがね、今日のお詫び代わりに受け取ってくれって。コウに会うとき使えって。一度帰社した後持ってきたな。あとよく分からないけど、靴は四センチから慣らしていけとかなんとか」


 お礼を伝えて紙の包みを受け取り、大部屋に戻った。




 大部屋では、既に皆眠りについていた。

 音を立てないように、さっきの包みを開ける。この包みのマーク、見たことある。あたしなんか怖くて近寄れないような「デパート」のマークだ。わざわざ会社終わった後買いに行ってくれたんだ。


 きれいな細工のついた小さな銀色の鏡。 

 さっきつけてもらった、お花のようなピンクの口紅。

 そして小さな四角いガラスの壜。中には透き通った薄い黄色の液体が入っている。蓋を開けた途端、くらくらするほど甘くていい匂いがした。初めて手にした。これ、香水だ。

 壜には外国語で何か書いてある。この香水の名前らしい。

 壜の外国語の上に、武骨な事務用の付箋が二枚貼ってある。付箋にはそれぞれ、「先ほどはごめんなさい」「言葉の意味は、自分で調べずコウさんに訊いて下さい。古谷」と書いてあった。

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