9.あなたと同じ空を

 初めて歩く草の上の感触は、ふわふわと心もとなく、歩くたびにさくさくという音とともに草の匂いが立ち昇る。

 風は冷たいが、吹いていないときは太陽の方向から暖かい熱が届き、体をじんわりとあたためる。

 この瓦礫は家の跡らしい。家の周りには庭があるつくりになっていたようだ。


「S区のあるあたりはね、戦前は平和な住宅街だったらしいんだ。もう少し行くと川があるよ」


 いつの間にか肩を抱いていた手が外されていた。コウは瓦礫の一角に腰を下ろし、荷物の中からよく分からない機器類を取り出した。


「ちょっといい?」


 採血やら聴診やらあちこち調べられる。彼は一つ終わるたびに例の本に文字盤のついた機械をいじった。

 毎回思うけれどやたら丁寧だな。あと、調べている時、あたしに直接触れない。今更だと思うんだけど、多分習慣が抜けないんだろう。




「うん。おしまい。ありがとう。あ、あっちに桜の木があるよ」


 気がつくと、青空は少し黄味がかった色に変化していた。

 そうか。七時を境にばちんと昼と夜が切り替わるわけじゃないんだ。


「地上って凄いね。光も色も匂いも強烈で、きれいだけど、刺激が強い。風も冷たいしさ」


 だからさっきみたいに肩を抱いてよ、とも言えず、勿論察してももらえず、並んでさくさくと歩く。


「ミキの脇腹」


 唐突に話題が変わった。


「どうしたの。怪我でもした?」


 ああ、そういや蹴られたな。もう普通にしていたら痛くないんだけど。よく気がついたな。


「実は研究所でさ、えーと社員さんとうっかりおしゃべりしているの見つかっちゃって、藤田とかいうのに蹴られたんだよ。あとほっぺた左右ダブルパンチ」

「研究所の藤田さん!?」


 コウの顔色が変わった。


「あの人、脚、違法改造しているでしょ。それに蹴られたの」


 違法改造知っていたのか。まあコウなら分かるよな。


「うん、だけどあたしが違法改造ばらしちゃったから減給と異動にな」

「どこ!? 診せて」

「やだよ!」


 勢い込むコウをはねつける。

 分かっている。「見せて」じゃなく「診せて」だよね。でもやだよ。冗談じゃない。


「あたしにとってコウは整備医じゃないんだよ。だから、分かってよ……。恥ずかしいじゃない」


 云いながら顔が火照っているのが分かる。ようやく察したコウは「ごめん」と呟いて急ぎ足で前を歩いた。


 もどかしい。なんなのこの今の状態。

 お互いの気持ちは分かっているのにお互い又聞きだから距離が掴めない。


 前を歩いていたコウは立ち止まり、あたしの方に向き直った。そして蹴られた方の脇腹近くにそっと手をかざす。


「ごめん、こんなことになって。痛かったよね。あの人容赦ないから」

「容赦ないって、なんで知っているの」

「俺昔あの人の標的だったんだよ。でもそんなのどうでもいいよ、俺とミキじゃ全然違うもん。ごめん、本当にごめん。他にもそんな事あった?」


 息をするのもつらそうな、悲痛な表情を浮かべて何度も言った。ごめん、と。

 でも蹴ったのはコウじゃなくて藤田だし、それだってそもそもの原因は、あたしがコウにもマサキさんにも散々注意されていたのにおしゃべりしたからだ。


「ねえもういいよ。今は全然痛くないし、もとはといえばあたしの不注意のせいだし、違法改造を見つけたってことで他の罰は受けないで済んだし。それに嫌なことばっかりじゃなかったよ」


 そう。本当にいろいろあった。悪いことも、いいことも、いろいろ。


 その時、なお悲痛な表情を浮かべるコウのアッシュブラウンの髪の毛に、ひらりと白いものが舞い降りた。

 つまみ上げると、なにかの花弁みたいだった。爪くらいのちいさくて薄い、ほんのり薄桃色の花弁はなびら

 空を見上げると、風が吹くたびにたくさんの花弁がふわりと舞い上がって、風に乗ってどこかへ泳いでいく。この瓦礫の向こうに、たくさんの花が咲いているらしい。

 さくさくと小走りになって瓦礫の向こうに向かう。ここは昔電車の駅だったのか、鉄棒が二本並べられた道の途中にたくさんの瓦礫がある。そこを抜けると視界がいきなり開けた。


「これ……」


 見たことある。昔の映画で。春になるとたくさん咲くんだ。

 読んだことある。昔の本で。ほんの数日この花が咲く日を、何か月も前から待ちわびていたんだ。

 かつてここにあったはずの、平和で豊かな国の人達は。


 大きな大きな黒い幹に、一斉に咲き誇る桜の花。


 風が吹くたび黄金色の天井のない空に花弁が舞い散る。それでもなおこの大きな木には、たくさんの花が揺れている。


「きれい……」


 かつてここにあった国の人達は、桜の木の下で何時間も集い、この日のためのご馳走を食べ、酒を飲んだという。

 分かる。この木はそのくらい美しい。


「ちょうど桜が満開の時に来られて良かった。一年のうちほんの数日のことだもんね」


 桜の木を見上げながら、コウの表情も柔らかく変化する。

 そう、桜の下で悲痛な表情は似合わない。

 あたしたちは桜の木のそばにあった石の上に並んで座った。

 座った時に二人の指先が少しだけ触れる。

 どちらともなく、その手を握る。


「あのね、聞いて。本当、いろいろあったの」


 コウと桜の木の両方に聞かせるように、あたしはこの数日の出来事を話し始めた。




 思い出すことがたくさんあって、なかなか話が終わらなかった。コウはたまに話すだけでずっと静かに聞いていた。


 いつの間にか、黄金色の空がまた変化していた。

 空の上の方が藍色、そして下に行くにつれてオレンジ色、黄金色、茜色になっている。

 極彩色の空の色。こんなきれいな空があるのに、人はどうして地下に潜らなきゃいけないようなことをしでかしてしまったんだろう。


「大変だったね。……ごめん、何日もあんな所に放り込んで」


 握られた手にぐっと力が入った。


「もー。いいって。大丈夫だよ。結構皆さんによくしてもらったし」


 あなたには謝って欲しいんじゃない。ただそばに一緒にいて、話を聞いて欲しいだけなんだ。


「だからもう『ごめん』はナシ! 今度から『ごめん』一回言ったら、夕飯のおかず一品減らす」

「えっ」


 結構効果的な脅迫だったのか、彼は黙って下を向いた。あたしもつられて下を向くと、足元には桜の花弁がたくさん積もっていた。

 見上げると、桜の木が夕焼け色に染まっている。

 その光景を、あたしたちは飽きもせず、ずっと眺め続けていた。




「コウ、ありがとう」


 夕焼けの色が深くなってきた頃、空のおかげか桜のおかげか、あたしは素直にそう言えた。


「こんなきれいな空を見せてくれて。あたしを一緒に空を見る最初の人間に選んでくれて」


 コウがあたしを見つめた。夕焼け色に染まった、澄んだ瞳で。


「色々あったけどさ、それこそ最初はどうしたもんかと思ったけどさ、あたし、コウに出会えて、本当に良かった」


 心からそう思う。

 あの日、路地の片隅で、どうでもいい奴に殺されて終わるはずだったあたしの人生。これから先、何があろうと、彼に出会ったこの人生を後悔することはないだろう。

 とはいえちょっとクサかったか今のセリフ。そう思って照れ隠しに微笑んでみた。


 コウはあたしをじっと見つめたままだ。瞳の奥がわずかに揺れている。


「ミキ……」


 低い声で囁く。

 次の瞬間、あたしの体は彼の力強い両腕に抱き締められた。


「……絶対、絶対言うまいと思っていた」


 抱き締める腕に力がこもる。

 その強い力と共に、あたしの心も熱く熱く締め上げられる。


「俺は幸せにできないから。ミキの人生を狂わすことしかできないから。そう思って、一生言うまいと思っていたのに」


 少し前まで、あたしの髪に触れることすら躊躇していた、彼の温かい腕と体の感触。


「ミキ」


 少し体を離し、あたしの目をじっと見つめる。



「好きだ」




 誰もいない夕暮れの桜の木の下で、彼の囁きがあたしの全身に甘く響く。

 彼の気持ちは知ってた。だからもしこの日が来たら、映画みたいに気の利いたことを言おうなんて思っていた。

 なのになんの言葉も出てこない。あたしに出来たのは、ただその囁きの持つ甘い痺れに身を委ね、わずかに唇を震わせて彼の瞳を見つめることだけだった。


「行き着く先は分からない。俺はこんな身の上だし、常識だって全然分かんない奴だよ。でも」


 コウは言った。

 あたしの心ですり替えた声じゃなく、彼の、本当の声で。


「もし、俺を取り囲む垣根を取り払うことができなかったとしても、俺は一生、ミキを愛し続ける」


 遠くに沈む太陽が、その時、最後の輝きを強く放った。

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