10.降るような星空の下

 陽が落ちると、地下では考えられないような寒さに襲われる。藍色の空には輝きの強い星がぽつぽつと輝いていた。


 あたし達は手をつないで歩いた。

 地上に出るときもずっとつないでいたけれど、その時と今では、つながれた手の意味が全く変わっていた。


「あたしさあ、コウの何が良かったんだろ」

「えっ」

「いや確かにさ、見た目も運動神経も頭もいいけどさ。ごはん三人前食べるし、お父さんの服だらしなく着てちびっこと遊んでばっかりいるし、しかもちびっこに口喧嘩で本当に負けたりしているし、未だに常識が身についていないし、話し方は堅苦しいかガキくさいかのどっちかで中間がないし、前髪変だし、それに……」

「……もうそろそろ許して。俺本気で落ち込む」


 コウを見ると、彼は本当に落ち込んでいた。

 あのさ、この純粋さにも結構困っているんだよあたしは。


「でもいいの。好きになっちゃったんだからしょうがないよ。ね」


 そう言って彼の腕に絡みつく。

 「ね」と言われてもどう切り返したらいいのか分からないのだろう。コウは困ったような笑顔であたしを見た。


「それにそんなこと言ったら、コウはなんであたしなんか好きになったの」


 これはあたしの中で最大の謎だ。


「恋愛までいかなくとも、女性と仲良くなる機会はあったんでしょ。マサキさん言っていたよ。『会社』で結構言い寄られていたらしいじゃない」

「えー? 知らないよ。そんなことないよ」


 マサキさんも言っていたけど、本当に言い寄られている自覚なかったんだな。


「あと木本サキのこと、悪魔みたいな振り方したんでしょ」

「誰、その人」

「誰ってあの木本サキだよ! ロケに来た彼女に『世間の評判は知らないけど、俺はあんたの魅力が分かんない』みたいなこと言ったんでしょ、コウのくせに」

「あー、あれ? だってあの人顔も体も作り物だし、肌だって機械でずっと引っ張っているんだよ。あんな機械の使い方していたら、来年あたり一気に老け込むよ」


 思わぬところで無駄な芸能裏情報を入手してしまった。そうなんだ。あたしは善人じゃないから、来年の木本サキの顔が楽しみになってしまう。


「それに、世間の目から見た見た目ってそんなに重要かな。それこそ世間の評判は知らないけれど、俺はミキが世界で一番きれいだと思う。はじめて会ったときから、そう思っているけど」


 きらきらした目でそんな事を言われたら、もう、あたしの話は続かない。



 

 川の近くまで来た。今の東京は、この川のあたりで終わっているらしい。

 けれどもかつてここにあった国は、この川の向こうの、ずっとずっと果ての方まで続いていた。


「この川までが東京。川の向こうは神奈川だよ」

「川の向こうも川?」

「神奈川は土地の名前。横浜って聞いたことあるでしょ。横浜も神奈川の一部だよ」


 あ、知っている! 横浜、本や映画で出てくる。へえ、本当にあったんだ。

 本当に広い地上でたくさんの人達が、生きていたんだ。


 東京の果ての川の側に、荷物置き場代わりの小さなテントが張ってあった。


「良かった。雨が降ったら機械が台無しになるところだった」


 雨か。

 地下に住んでいると雨の危険性なんか考えもしない。遥か空の上から、雲が抱えきれなくなった水が糸のように地上に降り注ぐという雨。

 今晩はここで一緒に星を見るのよね、なんて思っていると、コウがまたさっきの得体のしれない機械をがたがたと広げだす。


「採血いい?」


 ……そうだった。コウは遊びに来ているわけじゃなかったんだ。

 どうもすみませんね、一人で「デート」気分で。




 小さな灯りの下でうんざりするほど丁寧なデータ収集が終わった。空を見上げると、そこには大小さまざまな星が瞬いていた。

 その中でひときわ大きく輝く、白い月。円形だから、今日は満月だ。

 夜というのは、昼間通った通路のように完全な闇なのかと思っていたら、意外と明るいものなんだ。

 星は、想像もつかないような空の向こうから果てしない時を経てあたしのところに光を届けている。じっと見ているとこのまま夜空に吸い込まれていきそうだ。

 通路の怪物とは違う、もっと大きな力を持つ何者かの力によって。


「……夜空って、きれいだけど」


 寒さと畏れで体が震え、思わず自分の肩を抱く。


「こわいね」


 あたしの貧相な肩をコウの大きな手が包み込む。

 そっと引き寄せる。


 あたたかい。

 単純にコウは平熱が高いからあたたかいというのもあるのだけれど、お互いの心が寄り添ったときに発生する、甘いぬくもりがそこにはある。


「今日一日疲れたでしょ。そろそろ寝ようか」


 あたしの肩に頬を寄せてそう言ったが、いきなり目を見開き、あっと叫んだ。


「何、どうしたの?」

「俺、昨日までその辺で毛布にくるまって適当に転がって寝ていたんだけど、そうだミキ、どうしよう。ここ寒いんだよ。地面冷たいし。うわ、どこかないかな。えーとえーと」

「いいから。大丈夫だよ。あたしもその辺で転がるから」


 コウがあまりにうろたえるものだから、あたしの方が落ち着いて話すしかない。


「いやでも毛布あっても寒いよ」

「だからさ。あんたが一緒なら大丈夫だって」


 コウが一人で使えと押し付けてきた毛布に二人一緒にくるまり、地面の平らな所に休んだ。

 横になると、あの吸い込まれるような夜空が目の前に迫ってくる。

 お互いの体温が、じんわりと狭い毛布の中を循環する。




「――本当はこんな状況でこんな話したくないんだけれど」


 そう、何も今じゃなくていいんだけれど。疑問をぐちぐち一人で抱え込んでこじらせない。そう決めたから今訊くことにする。


「竹田さんのことさ、どうしてあんなに良くしてあげたの?」


 それこそあたしが傷つくくらい、色々良くしてあげていた。


「最初の治療はあたしへのお礼代わりだったけど、なにも薬代まで自分持ちにしなくても良かったんじゃない? それにさ、あたしが結婚したくないって言ったとき、考えろって言った。とどめに変な機械つけてあたしのところに来た時も、婚約取り消しは考えろって言った。しかも脚まで治してあげていたよね。あたしあの時、コウのこと好きだったんだよ。だから他の人と結婚しろって言われた時、結構ショックだったんだけど」


 あたしがどの時点からコウが好きになっていたのかなんて、彼の知るところではないんだから、こういう言い方は良くないのかもしれない。でも傷ついたんだ。


「あの人ね」


 結構きつい言い方をしてしまったので、彼がどう思うか若干不安だったが、星空を見上げながら穏やかに答えてくれた。


「ひとごとに思えなくて」

「ん?」

「ミキは、竹田さんが俺とミキのことを疑ったとき、どう思った?」

「うーん、まあ、疑い深くてやだなー、って」

「うん。じゃあなんで竹田さんは疑い深くなったんだろう」


 あれ、この人、竹田さんのこと嫌っていないのかな。あんなに散々ひどいこと云われたのに。


「竹田さんね、ミキのことが大好きだったんだよ、多分。なのに見当違いな劣等感とか、感情を素直に表現できない見栄とか、そんなもののせいで結果ミキが嫌がるようなことばっかりしちゃったんじゃないかな。だって竹田さんって、もともと違法機械なんか買うような人じゃないんでしょ」

「うん。あれはさすがに竹田さんらしくないって思った」

「ああいう業者は、人の弱みにつけこむんだ。体とか、収入とか、なんかそういう自分が弱みだと思っているものを良くすれば、ミキが自分の方を向いてくれるって思ったんだろうね。当のミキはそんなものどうでもよかったんだろうけど」


 竹田さんがあたしのことを好きだった?

 どうなんだろう。よくわかんないや。

 だってあたしににとっては、「会社」から指定された結婚相手、というだけの人だったから。


「俺だって感情は人間と同じだよ。ミキが竹田さんと結婚すると思うと、それこそ地獄の底みたいに苦しかったよ。でもさ、しょうがないって思って。俺はこんな立場だけど、竹田さんなら安定した将来があるし、ミキのことが好きなら大事にしてくれるかなって。なら出来るだけ健康になってもらえば、それがミキの幸せにつながると思ったんだ」


 そう言って、コウはあたしの顔を見て少し笑った。

 あたし知っている。この笑顔は、苦しいときの笑顔だ。


「でもさ、『実験動物のくせに、なんでお前ばっかりなんでも持っているんだ』って言われた時は、さすがになんだそりゃと思ったよ」

「ひどいよね、実験動物って。ああ、思い出しただけで腹が立つ」

「いやそれはいいんだよ。だってそうだもん。そうじゃなくて『なんでお前ばっかりなんでも持っているんだ』って、それは俺のセリフだよって思った」


 いやよくないよ。実験動物って言われたこと流すなよ。もういい加減その管理品根性をどうにかして欲しい。


「まあコウは、見た目と健康と知能っていう、竹田さんの三大コンプレックスを見事に直球で刺激する存在だったんだろうね」

「でも俺からすればそんなのくだらないよ。正直、俺がどんなに渇望しても絶対得られないものを、なんの疑問もなく持っている竹田さんがずっと羨ましかったもん。俺が欲しかったのは二つ。市民権と」


 さっきとは違う笑顔であたしを見つめる。


「ミキ」




  大きな満月と瞬く星は、あたしたちのことを静かに見下ろしている。

 川の流れる音がさらさらと聞こえる。

 あたしはコウにしがみついて彼の胸に頬をすり寄せた。


「な、何? どうしたの」

「いやー、あったかいなーと思って」


 こうして彼のぬくもりを感じていると、このぬくもりを知るために外が寒いんじゃないかとさえ思ってしまう。

 コウの顔を見上げると、困ったような表情をしていた。


「何その変な顔」

「変な顔って……」


 彼は大きなため息を一つつくと、あたしの頭をぽんと軽く叩いた。


「明日、夜明けを見よう。だからもうおやすみ」

「うん。おやすみ」


 彼の胸の奥の微かな鼓動を聞きながら、あたしは深い眠りについた。

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