10.恋に「堕ちた」

 分かっている。この気持ちはずっと心の中に棲んでいて、ずっと理性が抑えつけていた。それが今回の件で表に出てしまったのだ。


 だからといってどうしようもない。

 生活水準と知力が同じくらいで、遺伝子の相性が標準以上だというだけで、「会社」から指定された「婚約者」。

 でも東京中の人が皆、何の疑問も持たずにその相手と結婚し、出産している。だからあたしも、いずれそうしなければならないんだ。

 だから、どうしようもないんだ。




 リビングの様子を見に行くと、そこでは二人が何やら仕事の事を話し合って……いないや。

 喋っているのはほぼコウだ。


「S区の空調、もう二週間以上改善されていませんね。この汚染物質の濃度と犯罪率には有意の相関があるのは以前お伝えしております。社内で出来る作業には、管理品のマサキリーダーの班から七体派遣する余裕があります。特に現在実験が控えていない彼と彼は設備の取扱いに馴れておりますので」

「はーいそこまでー! コウ、あんた仕事熱心なのはいいけど、小野さん見てごらんよ。筋肉バカの自分の体力を基準に物事進めるんじゃないよ。……あ、すみません、小野さん。余計なお世話でしたね」

「いやいやいや、まさに救いの女神の登場だよ」


 緑色の顔色に脂汗を浮かべた小野さんは、芝居がかった仕草であたしを拝んだ。


 小野さんが心配なのは本当だ。でも、それより。

 さっき、真剣な表情で仕事の話をするコウの横顔をずっと見ていたら、何故だか鼓動が早くなって、頬が紅潮してきて、そんな自分が何だか怖くなって、それで無理矢理話に割り込んだんだ。


「えー、筋肉関係ないもん。座って話しているだけだもん」


 口を尖らすコウを無視してとりあえず二人に白湯を出す。


「今日は別に仕事の話をしに来た訳じゃなく、コウが元気か、噂の北山さんがどんな人なのかを見に来ただけなんだがなぁ」


 だから噂のって何だよ。


「コウは社内ではもっとひどいんだ。やたら丁寧な言葉遣いでびしびし斬りつけるから、よく新人の社員がトイレで泣いているんだよ」


 うーん、想像つかない。

 この間なんか、近所のちびっこと本気で口喧嘩して、しかも負け気味だったぞ。


「えっと、でも、社員さん泣かして問題になったりとかは」

「正論で斬られた奴を庇うほど『会社』は優しくないよ」


 当たり前のようにそう言う小野さんの言葉に、ふとお父さんの言葉が甦った。


 ――本当に優秀な人は、どんな人でもきちんと評価できるもんだよ。生まれや職種で人をばかにする奴は、自分に自信のない奴だ。


 本当にその通りだ。

 あたしは竹田さんの顔を思い浮かべてそう思う。


「そうそう。北山さん、取り敢えずこれ、今までの食費と当面の生活費。もっと取ってもいいんだよ。どうせ全部コウの口座から下ろすんだから」


 いきなり手渡された札束の重みに――札束が重いって、初めての感覚だ――、あたしは度肝を抜かれた。


「いやいや、全然こんなかかってないし! 節約ごはんとお父さんのお古がほとんどだし! ちょっ、コウ困る!」

「俺、外出禁止なのに役職手当つきの給料もらっていたからまだ当分大丈夫だよ。今までごめんね。特に食費」


 にこにこ顔の二人からは、「絶対に返すとは言わせない」オーラが出ている。仕方なくあたしは謹んで受け取った。


 小野さんは姿勢を正し、あたしを見た。


「北山さん、この度はこのような事になってしまい、申し訳ないです。私からも謝ります。ですが私の力では、今のところあなたに頼らざるをえないのです」


 会社の総合職なのに、係長なのに、あたしなんかに頭を深く下げる。あたしは恐縮してべこべこと何度も頭を下げた。


「コウは今、ある実験に関わる大きな問題を抱えているのですが、その問題は当分収まらないでしょう。ご迷惑は充分承知していますが、どうかしばらく彼をお願いします」

「あ、いえ、頭なんか下げられると困ります。そんな大したことしていないし、そもそも匿うって決めたのはあたしの方なんで。だってコウってほら、こんななんですもん」


 そう言いながらコウを見ると、彼はいつものにこにこ顔で頷いた。


「俺一人で逃げたって、何も出来なかった。それは毎日実感している。ありがとう。本当、ミキは俺の救いの女神だよ」


 またそんな事を言う。だから女神云々はやめろと言おうとした時、彼が言葉を続けた。


「ミキは女神だ。凄く優しい。そしていつも一人で頑張っている。ひりひりするくらいに、強くあろうとしている」


 コウ、そんなこと思っていたんだ。

 あたしとまっすぐに目が合う。


「だからね、匿ってもらっている立場でなんなんだって言われるかもしれないけど、俺がいる限り、そんなミキを守りたいって思っているんだ。せめて、せめて、俺は……」


 緑がかった茶色の、澄んだ瞳であたしの目を見る。


「お礼で言っているんじゃないよ。ただもう、そう思うんだ。左腕の機械も、電源切っていい。だって俺がいるんだもん。それだけじゃない。あらゆるものからミキを全力で守る。だからどうか俺を頼って欲しいんだ」


 澄んだ瞳が、彼の声が、私の心をまっすぐに射抜く。


「ミキ、もう大丈夫」




 ――――どぷん。


 あれ。

 どこだろうここは。


 全身が何かに絡め取られて沈んでいく。苦しい。息が出来ない。

 暗い。だけどずっとこのままでいたい。


 なんの希望もない。絶対に届かない。絶対に叶わない。

 だけどこの気持ちは捨てたくない。


 ……ああ、やっちゃった。

 あたし、よりにもよってこんなのに。

 こんなのだよ!? もう。

 なんでなのよ。全く。


 そう。分かっている。

 あたしは今、恋に「堕ちた」。

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