11.嫉妬

 仕事の話の時以外の小野さんは、庶民のイメージする「会社の人」とは随分違って、何というか、「普通」だった。


「うちの子供、今年八歳でね。義務教育終わるんだけど、上級学校受験させるか、職業訓練受けさせるか迷っているんだよ」

「義務教育が一日二時間五年では短すぎます。せめて識字率を戦前並に」

「コウ、仕事の話に持っていかない! こういう時は『そうですね、お子さんの意思を尊重できれば理想ですけどね』って言いながら、親が本音ではどんな進路を望んでいるのか引き出すのが世間ってもんよ」

「……北山さん、大したものだね。よく分かっている」


 コウをたしなめるつもりが小野さんの立場をなくしてしまったみたいだ。頭を下げて引っ込む。


「今日のところは帰るよ。しかし、北山さんに会えて良かった。随分しっかりしているね。いや、コウがあまりにも北山さんに関して美辞麗句を並べ立てるものだから、かえって不安だったんだ」

「あの、なんて言っていたんですか」

「うーん、例えば……魂を奪われる程の美しさ。女神のごとき慈悲深さと地上よりも広い心。地下の泥濘に咲く蓮の花。涼やかな地上の風。空に煌めく星々……あとなんだっけ、とにかくそんな表現が日替わりで登場するんだ」


 本気か。もしかして出会った時の風邪、風邪じゃなくて脳ミソに花が咲く病気かなんかだったのか。


「それはそうと、今後、私がここへ来るのは難しいかもしれないなあ。この制服は目立つし、さっきの子供が私の噂を流しているかもしれないし。うーん、でも勤務中の制服着用は義務だしなあ。うーん、でもコウの私物なんかも渡したいし、引き継ぎもあるしなぁ」

「ご迷惑をおかけいたしまして申し訳ないことでございます」


 あたしにとっての大問題、「謎の美辞麗句」の話題は放置されたっぽい。でも、引き継ぎ問題なら簡単じゃないの。


「あの、あたしが本社まで行って受け渡しとかしますよ。『会社』って、一般人も結構出入りしていますから、その方が確実でしょう?」


 二人だけで解決しようとしないで、あたしを使えばいい。あたしだってコウの役に立ちたい。


「それは有り難い。助かるよ。では危険のない範囲でお願いしますね」


 そう言って小野さんは帰っていった。




 小野さんが帰った後、あたしはいまさらな事実に気がついた。


 この家、あたしとコウの二人きりだ。


 なんで今まで気に留めなかったんだろうか。コウのことを人形顔の大きな八歳児、と思っていたからか。幼い言動や仕草のせいで、何かを勘違いしていたのか。


 幼いもんか。確かに世間知らずだけれど、今日小野さんと話していた姿は、立派に社会で活躍している大人そのものだった。


「あー、疲れた。ミキ、今日はどうもありがとう」


 肩をぐるぐる回しながらお父さんの部屋に戻ろうとしたコウが、ふと振り返った。


「そうだ、ミキの機械の電源、切ろうか? 力は入らなくなるけど体が随分楽になるよ」


 あたしは反射的に後ずさった。


「う、ううん、いいよ。一応竹田さんに相談するから」


 今、一番出したくない名前を利用して曖昧に笑った。コウは微笑んで頷き、お父さんの部屋に入っていった。




 竹田さんがあたしの機械の電源を切ることに賛成するわけがない。コウの存在は内緒だし、脚にも機械を入れろと言っているんだし。

 電源は背中だ。自分じゃそうそう切れない。でも、コウに背中を見られたくない。

 恥ずかしいもん。


 その感情が無意味なのは知っている。だってコウはもともと整備医だし、あたしの電源なんかなんとも思っていない。

 というか、あたしのことなんかなんとも思っていない。


 でも、やだもん。




「ごはん、作らなきゃ」


 今日は大豆蛋白のフライと青菜のピーナッツ和え、玉ねぎの味噌汁、常備菜は何があったっけ……。


 ごはん作るのは楽しい。おいしいおいしいと笑顔で食べてくれる人がいると本当にやりがいがある。

 竹田さんは食事を摂らない。健康上は食べられるのに、面倒だからと胃に栄養剤を流し込んで終わりだ。

 だから料理の楽しみも今のうち。


「あ、フライ! 大きい! やったー!」


 コウは、いつもみたいに八歳児のような歓声を上げてあたしの肩越しに鍋を覗き込んだ。

 そう、いつもと同じ。なのにあたしにはいつもと同じじゃない。


 肩ごしの彼の気配に、声に、意識が持っていかれて体が強張る。


「……ミキ?」


 苦しい。恋愛ってこんなに苦しいんだ。

 昔の本なんかでは随分と楽しそうに描かれているのに。あれは、嘘だったのか。


「どうしたの」


 あたし、嫌な感情ばっかりだ。

 分かっている。あたしはなくなったアイさんに、ずっと嫉妬している。


 そんなことしてもどうしようもないのに。

 なくなった人に嫉妬するなんて、あたし、どれだけ嫌な奴なんだ。人として最低だ。

 こんな気持ち、もしコウにばれたら軽蔑される。嫌われる。当たり前だけれど。


 どうしよう。あたしの恋心は絶対に伝えられない。そんなことをしたら彼はここにいられなくなる。そうしたら彼の行き場を奪ってしまうことになる。

 それにどうせ伝えたところで、あたしの入り込む隙間は、どこにもない。


「具合悪い? 疲れた? ちょっと椅子座ろう」


 様子のおかしくなったあたしを気遣って、コウはあたしの手を取り椅子に座らせた。


「……女性には手首から下しか触っちゃいけないとか、そんな決まりがあるの?」


 今までのコウの行動を思い出して、そんな下らないことを訊いた。コウは少し逡巡してから頷いた。


 でもそれは「市民の」なんでしょ、どうせ。


 どす黒いあたしの心が毒づく。


 もうやだ。もうやめよう。どうにもならないことなんだから。

 あたしのこの気持ちは誰にも知られてはいけない。あたしは竹田さんと結婚しなきゃいけない。そして最低一人は出産しなきゃいけない……。


「……あたし、竹田さんと結婚したくない」


 云っちゃった。声に出して。

 だめだ、そんなことしたら。感情のタガが外れちゃうじゃない。


「嫌だ、あんな人。いい人だって思っていたのに、いい人だって思おうとしていたのに。あんな人、嫌だ。あたし、あの人と結婚したり、一生一緒に生活したり……産んだりしたくない……」


 ばかばか。そんなことあたしに言われたって、コウも困るだけじゃない。どうしようもない。そう。だからさっさとごはんにしなきゃ。


「……医学上可能な場合、結婚と出産は市民の義務だけれど、俺らからすれば権利にも見えるよ」


 言葉の裏に何かの意味を含ませるようにコウは言った。


「俺、子供好きなの分かるでしょ。でも管理品は結婚出来ない。それに結婚しないで子供を持ったら、それは不幸な結果しか招かなかった」


 ……え?


「あんな……あんなの、二度とごめんだ。だからね、ミキ。もうちょっと考えよう、竹田さんのこと。さ、とりあえずごはんにしない?」




 その日の食事は、何を口にしても砂みたいな味しかしなかった。一応雑談もしたと思うが、何も覚えていない。かろうじてコウが「小野さんが、明日早速本社に来てくれって」と言っていたのは覚えている。


 


 夜、隣の部屋から話し声が聞こえた。コウがドアを半開きにして電話しているらしい。


「汚染物質の特定を研究所に指示して何日経っていますか。まだってことはありませんよね。他の区でも散見されていましたが、濃度の差と各区の排気の……」


 あーあー、小野さん、まだやられている。


「うるさいよこの筋肉仕事バカ! さっさと歯磨いて寝な!」


 お、よかった、いつもと同じ調子で言えた。


 あたしが部屋に戻ってしばらくすると、ドアの向こうからコウの大きな声が聞こえた。


「ミキ! さっきの声、小野さんに聞こえちゃったじゃないか! 明日から俺の渾名、筋肉仕事バカに決定だよ!」

「小野さん可哀想だよ、こんな夜遅くまで。引き継ぎたいことがあったら紙に書いておきなよ、明日渡すから」

「あ、それもそうだね」


 あれだけムキになっていたのに、こっちが拍子抜けするほどあっさり引っ込んだ。


「手書きだと時間かかるからワープロ借りるよ。じゃあおやすみ……そうだ、もう歯磨いたから」


 ものすごくどうでもいい事を言い添えて部屋に戻る気配がした。


「あ、あのさ」


 あたしは何の考えもなしにドアを開き、部屋に入ろうとするコウを呼び止めた。


「ん?」


 ……えーとえーと、言いたいことや訊きたいことが溢れて頭がパンクする。でも一番言いたいことと一番訊きたいことは口に出せない。


「……あたしって、本当にきれいだと思う?」


 パンクした挙げ句に出てきた言葉は、こんな果てしなくどうでもいい台詞だった。


「勿論だよ。何今更。ミキはきれいだよ」


 彼は、じゃ、と手を振りながらドアを閉めて部屋に入った。

 電話しながら何か作業中だったのか、珍しくシャツの袖をまくっている。右腕には、普段隠している数字と記号の刺青――「管理品」の識別コード――が見えた。




 あたしはきれいじゃない。そんなの小さい頃から知っている。別にブスだとは思わないが、まぁ人並みだ。

 今まで髪の毛以外見た目で褒められたこともない。

 あたしはきれいじゃない。心もだ。醜い嫉妬心を隠し持っている。


 なくなった人に。

 子供まで授かった人に。


 もうやめよう。今度こそ諦めよう。

 「役に立つ人」と思ってもらえればそれでいいや。ならばせめて、明日の用事は全力でこなそう。


 それで、いい。

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