9.婚約者定期連絡
「ヒカル、逃げろ!」
夕方、近所の上野さんちの子供が、そう叫びながらうちに飛び込んできた。
「どうしたの」
ついに警察に見つかったか。両手にねばついた汗が滲む。上野君は真剣な表情で声をひそめた。
「さっき黒ずくめのおっさんに、『鈴木ヒカルを知っているか』って訊かれた! 多分『会社』のやつだ! ヒカルが働きもしないで俺らと遊んでばっかりいるから、きっと捕まえて『管理品』にする気だ!」
……あぁ。
子供のしつけの決まり文句に、「ちゃんと○○しないと、『会社』の人にさらわれて『管理品』にされるよ!」というのがある。
コウが初めてその話を聞いた時、「俺ちゃんと勉強も歯みがきもするし、ごはんも残さないのに」と、ひどく落ち込んでいた。落ち込み方が何か違う気もするが。
「上野君、大丈夫だよ。その人あたしのお父さんのお客さ」
「そう、北山さんのお父さんが以前ヒカルのことを話していたんでね」
いきなり背後に立っていた「黒ずくめのおっさん」の姿に、上野君は「でたー!」と叫んで逃げていった。
「まるでお化けが出たみたいだな」
「総合職」さんは上野君の後ろ姿を見て肩をすくめた。
あたしは、「いや、お化けより怖いです庶民には」という言葉を呑み込んで曖昧に笑った。
「はじめまして。小野です。北山ミキさんだね、噂の」
「はい」
噂の、ってなんだよ。
「ご足労頂きましてありがとうございます。お待ち申し上げておりました」
コウが出て来ると、小野さんはぎょっとしたような顔で軽くのけ反った。
「お……おお、コウか。凄いなその恰好。その顔でその髪型と眼鏡は迫力あるな」
「おそれいります。あ、この度の昇進、おめでとうございます」
「ああ。やっと万年主任から係長だよ。これで係長のお前に変に気を遣わせずに済むな」
コウが何かごにょごにょ言っているのを無視して、小野さんはリビングに上がった。
小野さんは三十歳くらいかな。コウが前に着ていたのと同じ制服とかっちり頭。彫りの深い、特徴的な顔立ちをしている。そしていかにも機械に頼って動いていそうな痩せ型だ。
そして。
さっきさらっと言ってたけど、コウ、本当に係長なんだ……。
「どうぞごゆっくり。あ、あのねコウ」
「うん、竹田さんへの連絡の時間でしょ。こっち気にしないで。きっと竹田さん驚くよ。今日のミキはひときわきれいだから」
人前でも言うんかい! でも小野さんは今の言葉に対して何も言わない。ってことは、やっぱりこの調子、会社でも同じだったんだろうか。
ちくん、と心の片隅に小さな棘が刺さる。
何これ。痛い。抜けない。さっきの心の奥の黒いものといい、何か変だ。体調良くないのかな。
やだ。そうだ、竹田さんに早く連絡……。
画面の向こうの竹田さんは、相変わらず穏やかな顔。でもコウが竹田さんを診た日から、この顔を見るとなんともいえない気分になる。
あたしにはこんな顔するけれど、人を平気で差別して蔑む人なんだ。
普通なら目玉の飛び出るような料金を取られる治療を、さんざん受けた上で通報する人なんだ。
「こんにちは。お仕事いかがですか」
「今日は大変だったよ。久しぶりに出張も二件あったしね」
元気になって良かった。少し前まで、家から一歩も出られなかったのに。
「あの、この間調べたんですけれど、内臓の機械って、動かし続けると却って具合悪くなるみたいです。竹田さん、今度医師に診てもらいませんか」
「いや、いいよ。機械動かしていないと不安だから」
ふーん、じゃあいいもん。
……うわー、ネタが尽きた。
毎回、何話したらいいのか本当に困る。なんで連絡制度なんかあるんだろう。どうせこの人と結婚しなきゃいけないんなら、別にどうだっていいじゃん。
出来るだけ、距離を置きたいのに。
「じゃあ、また。最近物騒だから気をつけて。あんなこともあったわけだし」
あんなこと、とは、脱走管理品を家に上げたことだろう。
「はい。気をつけます」
「……ところでさ」
竹田さんは言いにくそうに話を続けた。
「あの『管理品』とは、何もなかったよね?」
「ん?」
何かあったかといえば、まぁ匿ってはいるけど。なんだろう。
「ミキちゃん、あいつとやけに仲良かったでしょ。まさかあいつと、間違いなんかおかしていないよね?」
そう言われて、あたしは竹田さんが何を言いたいのか、少しの間分からなかった。
……ひどい。
この人、そんな目であたしの事見ていたのか。
「そんなわけないじゃないですか。もし万が一の事があったら、あたしとっくに被害届出してますよ」
それでも精一杯冷静なふりをして、被害届云々と言ってみた。
なのに。
「被害届。まぁ、そんな言葉が出てくるなら……。いや、あの『管理品』、若かったし随分と姿が良かったからね、僕と違って。だから心配だったんだよ。ミキちゃん、君は結婚前なんだからね。今後くれぐれも世間に誤解されるような事はしないようにね。じゃあまた」
あたしは何も映っていない電話の画面を見たまま、身動きを取ることが出来なかった。あまりの怒りに感情が振り切れてしまったのだ。
今の言い方。
竹田さんは、あたしが会ったばかりのコウにあっさりなびき、間違いをおかした挙げ句に、平気な顔をして竹田さんと引き合わせたと思っていたのだ。
なんでそんなことを思い付くんだろう。まさか自分の容姿や健康の負い目から? だとしたらばかみたい。あたし、全然気にしていないって、何度も言っているのに。
くだらない。そしてその気持ちがあたしへの猜疑心へと変わったの?
ふつふつとわき上がる思いが否定できない。体の芯がすうっと褪めてゆく。だからと言ってどうしようもないのは知っているんだけど。
あたし、竹田さんと結婚したくない。
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