8.薄い壁
朝早くから、家の前でちびっこと大きなちびっこが騒ぐ声が響いて目を覚ました。
「ヒカルすげー!」
「ほらー行くぞー怪獣だー!」
低い声のちびっこの叫びに窓を覗くと、コウが両腕と首にそれぞれ子供をぶら下げて振り回していた。
こいつ、整備医のうえに「会社」の係長かもしれないんだよな。
前髪にちょうちょ結び、変装用のださい眼鏡、微妙に体に合わないおじさん服。
どこから見ても「遊び呆けた挙げ句に『会社』から仕事をもらえなかった居候」といった様子のコウは、でも生き生きとして楽しそうに見えた。
「あ、じゃあね」
ちびっこと対等に騒いでいたコウは、いきなりそう言って、サイズの小さなお父さんのつっかけを引きずりながら家の中に引っ込んだ。
「ヒカルまたなー!」
家の中に入ったコウは、ポケットから例の板を取り出した。
「お待たせ致しまして申し訳ございません。……はい。……あ、左様でございますか。この度はおめでとうございます」
板を耳に当てた途端に、「会社」の顔になる。脱走したくせに、会社の人とよく連絡を取り合っている。
「かしこまりました。訊いてみます。それでは失礼いたします」
会社の顔のまま板をポケットにしまう。
顔を上げてこちらを見る。
「ごはんまだ?」
そうほざく顔は、いつもの間抜けな居候顔だ。
「あたしはアンタの母親じゃないんだよ!」
それでもにこにこしながらおいしいおいしいと大量の食事を摂るコウの姿を見ると嬉しくなる。
何故か心がほかほかと暖かくなる。
アイさんがなくなってから数日が経つが、彼からアイさんの話をしたことは一度もない。
その代わり、夜遅くに書籍端末で何かを調べたり、ふとした時に難しい顔をして考え込んでいる事が多くなった。
けれども、あたしの前ではいつも通りにこにこして、家の事を手伝ったり、最新の機械や整備の方法を教えてくれたりしている。
あたしとコウの間には、薄いけれど決して破れない壁がある。
「あのさ、今日の夕方、俺の知り合いがここに来たいっていうんだけど、いいかな」
「別にいいよ。『管理品』仲間かなんか?」
「『管理品』は『外』に出られないんだよ。来るのは『総合職』」
「総合職だぁ!?」
あたしは椅子からひっくり返って絶叫した。
「なな何の用よ! どどどうしよう、どど」
総合職って、総合職って、そんな偉い人、粗相があったらどうしよう、どうもてなせばいいんだろう。
「大丈夫だよ。なんか『そと』では『会社』って凄く怖い組織みたいに思われているんだね。そんなことないよ。政府組織の代行や機械の販売なんかは、みんな市民のためにやっているんだから」
そのために自分が市民から差別され、いいように実験台にされ、挙げ句大切な人を殺されたくせに、そんなことを言う。コウの「会社」に対する感覚がよく分からない。
「あのね、その人、ミキのこと見たいんだって」
「あたしのこと? なんでだろ。ねえ、あたしのことその人になんて言ったの」
「倒れた俺を助けてくれた上に匿ってくれている、きれいで優しくて勇気があって聡明でごはんがおいしい、女神のような人、って言った」
つい先日、アイさんのことを一生愛し続けるって言った口が、なにをほざく!
もうやだこいつ。
それに言われる度に顔が赤くなる自分もやだ!
なにいちいち喜んでいるのあたし!
「でもさ。確かにミキはきれいだけど、その髪型、馬のしっぽみたいだよ。せっかくのきれいな黒髪が台無しだ。今日はお客さん来るし、竹田さんへの連絡の日なんだから、きれいに編み込んだりしたら?」
「編み込み……あー、なんかみんなやっているよねー。でもさ、あたしがなんで右腕に機械入れないか知っている?」
そう、整備師として致命的なんだけど。
「あたし不器用なんだよ。だから少しでも細かい作業に影響ないように、不便だけど機械入れていないんだ」
力が左右の腕で極端に違うのは結構不便だ。けれども女が一人で働いて生活して自分を守るには、機械の力は欠かせない。
……器用、か。
そこであたしはいいことを思いついた。雑誌に載っている最新の編み込みスタイルをコウに見せる。
「これ、できる?」
「多分できるけど……」
「じゃあやってよ」
「えっ」
彼は雑誌を放り投げ、目を見開いて後ずさった。まるで恐ろしい事を言われたかの様に首を激しく左右に振る。
「何言ってんの! 『管理品』が、じょっ女性の髪を触っていいわけないじゃん!」
なんだそれ? 知らないよそんな決まり!
「管理品だのなんだのって区別すんのあたしやだ! それにコウはもう管理品じゃないじゃない。いい加減、その根性直しなよ! 気持ち悪いなーその感覚。じゃあ居候に家主から命令! 編む!」
あたしはちょうちょ結びのついた前髪を掴んで寝室の鏡の前に彼を引きずり込んだ。
あたしが掴んだせいで紐がほどけて、アッシュブラウンの長い前髪が額にかかった。
「ここ入ったら殺すって……」
「あたしに無断で入ったらだよ」
あたしの定番のひっつめ髪をほどくと、自慢の真っ直ぐな黒髪が背中に広がった。
「えっと……失礼します」
コウはよくわからない声をかけて髪を手に取り、雑誌をちらりと見た後、びっくりするほど器用に複雑な編み込みを作っていった。
これ、きっとアイさんにもやってあげていたんだろうな。
鏡に映ったコウの表情を見て、そう思った。
そこに映っていたのは、いつものとぼけたにこにこ顔でも、「会社」の人と話す時のこわばった無表情でもない。
髪の束ひとつひとつを慈しむような、優しくて穏やかな甘い顔。
初めて見る表情。この人、こんな顔するんだ。
あたしの髪の向こうに、アイさんを見ているんだろうか。
こんなふうに、まるで抱き締めて髪を撫でるような優しさで、アイさんの髪を編んでいたんだろうか。
「市民」のあたしの髪には、触れることすら躊躇していたくせに。これはあたしの髪なのに。
あたしのことは、見ていないんだ……。
「出来たー! どう? 本より上手でしょ。ま、このモデルよりミキのほうがきれいだしね」
気がつくと、コウは手を腰に当ててふんぞり返っていた。
あれ?
今さっき、何かあたしの心の奥に、どろっとした黒いものがわき上がっていた気がする。なんだろう。まあいいや。
「さすがだねー。ありがとう!」
「いーえー。あ、お客さん来たよ。石山さんだ。あの人ね、胃の機械、多分もう要らないよ。今の不調は、機械のせいで却って胃酸過多になっているせい。一度受信機切って様子見てみて。あと左脚の機械の出力も半分でいい。脚の筋力自体が落ちてきている」
そう言っていつものにこにこ顔でお父さんの部屋に引っ込んだ。
あたしの心の奥の黒いものを置き去りにして。
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