7.恋に「堕ちる」

 あたしはとりあえずコウを椅子に座らせ、顔を覗き込んだ。

 知っている。今、下手に声をかけちゃいけない。でも、どうしよう。一人にした方がいいのかな。


「ミキ」


 立ち上がろうとしたあたしの手を、コウの手が掴んだ。

 がっしりとした大きな手が、今はやけに頼りなげに感じられる。


 あぁ、この人は多分あたしと同じタイプだ。


 あたしはゆっくりと話しかけた。


「あたしのお父さんがなくなったときはね、周りに病院の人しかいなかったの。だからこうすることができなかったんだ」


 コウの肩に両手を回す。驚いたような表情であたしを見上げる彼に向かって言葉を続ける。


「いいんだよ、何したって。こうが喚こうが騒ごうが、あたししかいないんだから。好きにしなよ」


 コウは泣いてるような笑ってるような不思議な顔であたしを見た。あたしは彼の肩をぽんぽんと軽く叩く。


 やがて下を向いた彼は肩を震わせ、声を殺して涙を流した。




 出張整備から帰ると、コウはリビングのソファで丸くなって寝ていた。泣き疲れて寝てしまったらしい。


「そんな所で寝ていると人生二度目の風邪ひくよ……うわーひどい顔。コウでも不細工になるんだねぇ。顔洗ってきな」


 あえて気を遣わない言葉をかけて洗面所へ追いたててみる。

 顔を洗ったコウはまだ少し目元が赤い。けれどもいつもの不自然に完璧な顔の時と違い、その赤い目元が妙に人間的な生々しさを感じさせ、あたしはなぜか一瞬どきりとした。


「アイはね」


 ソファに座り、コウが口を開いた。


「その個体の限界まで運動機能と知力を高めた上で、機械を全身で機能させた場合、体がどこまで耐えられるかの実験サンプルだったんだ」


 なんだ、その実験は。

 どこまで耐えられるか測る、って、耐えられなくなるまで機械を動かすって事じゃないのか。


「本当は俺がやるはずだったんだけど、俺は『係長』の仕事の方が増えていたから、会社としてはアイの方が、実験、しやすくて……」


 おかしい。

 おかしいじゃないそんなの。いくら「管理品」なんて言ったって、同じ人間じゃないか。


「最初にやられたのは脳だったんだ。俺が誰か分かんなくなって。なのに診させてくんないんだよ。治しちゃ意味ないって。やっと、やっと、同じ部屋で一緒に暮らせるようになったのに」

「……同じ部屋に住んでいたの?」


 小さく頷く。


「俺に個室が与えられたのと同時に一緒になったんだ」


 そしてそれきり黙ってしまった。


 アイさんとは、そんなに深い仲だったとは。

 あたしだって一応大人だ。「一緒に暮らす」というのが、今のあたしとコウみたいな状態を指す訳じゃないことくらい分かっている。

 そんな相手を、治す手段を持たされながら治せないまま失ったなんて……。


 こういう言い方は嫌だけれど、コウとアイさんは「管理品」だ。だから「結婚」じゃなくて「恋愛」だったんだろう。

 あたしも含め大体の人が一生経験することのない「恋愛」。

 今までコウの事を筋肉と脳ミソの過剰な八歳児くらいに思っていたのに、なんだか急に大人の男性に見えて、あたしは軽くたじろいだ。




 スープだけの夕食を摂りながら、今聞くべきじゃないかもしれないけれどどうしても知りたいことを訊いてみた。


「あのさ、話せればでいいんだけど。何か恥ずかしいけれど、やっぱ興味あるんだよね。あたしには縁がない世界だし、周りでも聞かないから」


 やたら長い前置きに、コウは怪訝そうな顔をして首をかしげた。


「何? 『会社』の話は、話せることとそうでないことがあるよ」

「うん……。そうじゃなくて。えーと」


 やだもう、あたし。


「あのさ、恋愛って、どんな感じ? やっぱり楽しかったり素敵だったりするの?」

「…………」

「コウ?」

「…………」

「……コウ?」

「…………」

「コウ、汚いなー、何やってんの! スープが口から全部垂れ流しになってるよ! ちゃんと口閉じて飲む!」

「えっ」


 スープを口から全部垂らして固まっていたコウは、慌てて口元を拭いた。


「れれれ恋愛のこと!?」

「うん、あ、あのね、そんな、その、具体的な経緯が聞きたいんじゃなくて、えーとほら、初めてその人を好きになったとき、どう思うのかなー、とか、なんか、そんな感じのことをね、まあ、ね」


 口を拭いたコウは顔を真っ赤にして頭を抱えた。

 へー。そういうもんなんだ。彼女への感情を話すのは恥ずかしいんだ。


「……何人もの相手と恋愛を繰り返す人と、俺みたいに一人しか知らないのでは違うのかもしれないけど」


 顔を赤くしたまま、それでも一生懸命話してくれる。


「昔の本とかでさ、『恋におちる』って表現あるでしょ。あれ、『落ちる』っていうより『堕ちる』って感じだった」


 コウはそこで少し言葉を切った。

 そして微笑む。澄んだ瞳が、遠くを見つめている。


「あの時、『堕ちた』んだ。空間にすとんと落ちるんじゃなくて、甘い甘い深い沼の中にずぶずぶと絡め取られて、行く先に光が見えなくても、彼女の周りだけが光に満ちていて、深い沼の底で彼女を想うだけで身体中が痺れて、胸が苦しくて……。そう、苦しいのにたまらなく甘くて心地よくて、ずっとこの沼の底にいたいと思うような、そんな感じだった……んだけど……分かる?」

「分かんない」


 そう言うしかなかった。

 今のコウの説明は全部抽象的な表現だった。だから実感しようがない。だけど、あたしなんかがまだ聞いちゃいけない話のような不思議な妖しさを感じて、何故か鼓動が強くなった。


「恋愛は苦しい事が多いよ。だからミキはこのまま竹田さんと結婚して幸せになるのがいいと思う。だけど俺は後悔していない。たとえ永遠に想いを届けようがなくても、俺は一生、愛し続ける」


 そこまで一気に話したコウは、やがて耳まで真っ赤にして顔から頭から汗を吹き出し、スープ皿を手に取るとスプーンも使わず一気に飲み干した。そしてスープ皿で顔を隠すように皿を突きだし「おかわり!」と叫んだ。

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