8.心は一緒

 コウの入社まで残り二日。

 今日は来客が一件だけだ。ここまで来ると、各部署とも資料を溜め込んで、入社を今か今かと待ち構えているらしい。




「んー、この位なら、まあいっか」


 管理職用の制服を着たコウを見て腕組みをする。

 「会社」の制服は、かなり体に添ってぴったり作られている。けれどもコウの制服は、実験前の体格をもとに支給されていたので、採用通知をもらったその日に着てみたら、悲しすぎて笑えるくらいぶかぶかだった。

 いくらなんでも入社までにこの制服が丁度よくなるほどは体型を戻せないと、一サイズ下げて再支給してもらい、今日、なんとか見られるくらいにまで体が復活した。


「これ、一番小さいサイズなんだって。俺そこまでは痩せていないと思うけどなあ」

「管理職用の制服なんて、お腹の出たおじさんが着ること前提だからじゃない? あとさ、前髪の長さ大丈夫? あの変なかっちり頭ができるか試さないと」

「いちいち変な、って言わないでよ」


 そんなことを話していると、外から「コウ、遊ぼうぜー!」の声が聞こえた。


「あーっ、コウがあのおっかねえおっさんの制服着ている! だせー!」

「えーそう? ださいかなあ。ちょっと待って、着替えてすぐ行くよ」


 コウが着替える間、ちびっこ達はだせー、こえー、と言いたい放題だった。

 ただ一人、上野君だけが、黙って玄関を見つめていた。




 ちびっこ達とは午前中いっぱい遊ぶらしい。コウが明日、寮に入ってしまうから。

 入社してしまったら今までのようには遊べない。一応、週に一日の休日にはうちに来るとは言っているが、休日出勤なんかも結構あるらしく、そううまくいくとは限らない。

 それに……あたしだって休日くらいは一緒にいたいんだ。


 コウの部屋に入る。機器類は既に梱包済みだ。服や雑貨もほとんど箱の中に詰められている。

 うちに来た時用に多少の日用品はそのままになっているが、この荷物がなくなった空間に、あたしは耐えられるだろうか。


 今日唯一のお客さんは小野さんと前田さんだ。うちで昼食を食べて、そのまま打ち合わせに入るらしい。

 小野さん、名家の出身なのに、うちの節約ごはんなんか食べておいしいと思うのかな。でもまあ、念のため今日は六人前作っておこう。




「あっ、今日はごはんいっぱいだ!」


 シチューをかき混ぜていると、コウが肩越しに鍋を覗き込んで歓声を上げた。

 肩越しの彼の声、体温、気配。これももう感じることが出来なくなる。

 あたしはこれから、一人で台所に立てるだろうか。また、実験の時みたいになってしまうのだろうか。

 こんなことじゃいけない。生まれた時から苦しいことばかりだったコウが、「会社」の正社員、しかも課長になったんだ。これから東京を大きく変えるんだ。

 あたしは二年後、彼の妻として支えていくんだ。

 だから、しっかりしなきゃ……。


「どうしたの?」


 本当だ。どうしたんだ。

 今回は警察に追われているわけでもない。実験で命の危険にさらされているわけでもない。ただ、寮に入るだけ。どこか知らないところに行ってしまうわけじゃない。

 なのに、どうして……。


「寂しいの……」


 鍋の火を消し、呟く。

 だめだ、こんなことじゃ。寂しくなんかない。寂しいなんて知られちゃいけない。

 彼が、あたしのことを気にせず思い切り社会で活躍するために……。


「ミキ」


 コウはあたしの両手を握り、跪いた。

 あたしの目をまっすぐ見る。


「初めてミキに会ったときはさ、まさかミキとこんな風になれるとは思っていなかった」


 柔らかく微笑む。


「あの時、どうしようもなく危険な状況の中、儚げな姿なのに精一杯強がるミキを見て、『外』にはこんなにもきれいな人がいるんだ、って凄い衝撃を受けたんだよ。しかも目を醒ましたらそのミキが助けてくれていた。それも俺が管理品なのを知りながら。その時の気持ちは、今でもはっきりと覚えている。一生、忘れない」


 あの時。S区の路地裏で、あたしは平凡な短い人生を終わろうとしていた。なのに。


「あの時、S区の路地裏で、俺はろくでもない短い人生を終わろうとしていた。なのに、ミキに出会えたから、今、こうしていられる。若林さんじゃないけど、運命ってあるんだな、と思うよ」


 ああ、そうだ。

 この人は、あたしの、「運命のもう半分」。


「遺伝子の相性だって、検査方法だの意義だのはともかく、百パーセントなんかそうそう出ない。それなのに、こんな数値をミキと出せた。これが偶然とは思えない。だからね、俺は、ミキとはこうして引き合う運命だったんだ、と思うようになったよ。宗教は信じていないけれど、でも、神様みたいな何か大きな力があって、それが運命の歯車をうまく回すために、S区の路地裏っていう、場所としてはどうなんだっていう場所で出会わせてくれたんじゃないかなあ、なんて」


 それはあたしも思う。そしてこんな偶然を積み重ねてまで出会えたってことは、きっと何か大きな意味があるんじゃないか、なんてことも思っている。


「俺ね、そしてこんな偶然を積み重ねてまで出会えたってことは、きっと何か大きな意味があるんじゃないか、って思っているんだ。だから、これから家の距離は多少離れるけれど、俺達の運命が別れるわけじゃない。電話だってあるし、なるべく休日にはここに戻るし、ミキが寮に来てくれたっていい。運命や心が別れないんなら、この程度の物理的な距離はあまり関係ない。そりゃ毎日会えないのは寂しいけどさ。でも、心はいつも一緒だ。……一緒だ、よね? 俺一緒のつもりなんだけど。ね? ……どうなんでしょう?」

「……何最後の詰めになって弱気になってんのよ。仕事と一緒でここは自信持って言い切らなきゃだめじゃない。……だって、一緒に決まっているでしょ」


 あたしも跪き、コウの目線に合わせた。

 彼は少し気まずそうに微笑む。それにつられてあたしも笑う。

 どちらからともなく唇を合わせる。


「……ごめんね。弱気になっていたのはあたしの方だ。大丈夫。入社したら思い切り活躍してよ。あ、でも無理しちゃだめだよ。あんた体力過信して働き過ぎて、ある日ばたっと倒れるタイプだから」

「えー……。え、あ……」


 コウはいきなりあたしのところから離れると、玄関の方へ転がるように駆け出した。


 あ、まずい!


「おおお遅くなりまして申し訳なななっ!」


 コウはあたしより先に玄関を開けて、大声で謝っていた。


「えーと、結構前から呼び鈴は押していたんだがねえ」

「夫婦喧嘩でもしていたんですかねえ? ……いや違うな。北山さんの表情からして、喧嘩の逆だな。こちらこそお邪魔して申し訳ないですうー」


 呆れたような顔をした小野さんと、邪悪な笑みを浮かべて資料を抱えた前田さんの姿がそこにあった。


 こんなこと言っちゃいけないんだろうけど、この人達でよかった……。

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