4.ヒカルという仮面
地上から帰ってきて一週間。あたしの日常はそれなりに回っているが、小さな変化がいろいろと起きていた。
前田さんとも相談して、「カズヤ」とヒカルは子供の頃の友達ということにしておいた。
上野さんに、「カズヤ」は現在「会社」に勤めていると言うと、「さすがだわ……」とうっとりしていた。勿論、会社は会社でも総合職だと言うと怖がられるので、それは内緒だ。
そしてヒカルを見るご近所のおばちゃんの目も変わった。
それはそうだろう。「明るくていい子だけどださくて変」という、ある意味おばちゃんたちが安心して見守っていられたヒカルが、「カズヤ」が来た日を境にがらりと変わってしまったのだから。ちびっこ達は外見の変化を受け入れている、というか、いじるネタが増えた位にしか思っていないようだが、おばちゃん達はどう接していいのやら戸惑っているようだ。
あたしは今まで以上に仕事に精を出している。「二十歳になったら『会社』の管理職の奥様だよ」なんて言われたが、場合によっては「一生大飯食らいの居候の家主」かもしれないのだ。
今朝、「会社」からあたし宛に郵便が届いた。中を見ると、「婚約承諾書」と書いてある。
なんだこれ。こんなの、前は届かなかった。承諾も何も、「あなたの相手はこの人です」と言われたら「そうですか」と答えるしかないのが結婚だ。
「コウ、『会社』からなんか変な書類来たー。なにこれー?」
お父さんの部屋から出てきたコウは、一通り書類に目を通すと少し笑った。
「ああ。今回の話って、結婚どうこういう前に、まず俺が市民権を得ないと話が進まないんだよ。だけど、その市民権を得るには結婚相手が必要でしょ」
「うん。あ、どっちを先に解決したらいいんだこれ」
「だからこれ。市民の中で、『遺伝子の相性が良いんだったら、半ば人工的に作られたような怪しい出自の管理品で、しかも現在脱走中の奴と婚約してもいいですよ』という人がいましたー、って先に申請して、だから結婚させてあげましょうよ、そのためにはこいつに市民権をあげましょうよ、って話を持って行く」
なるほどね。だけど、そう聞くと改めてあたし、なんでコウのこと好きになったんだろう、なんて思う。
もう、取り返しがつかないくらい好きになっちゃったんだから、しょうがないけどさ。
「じゃあこれ、今日中に速達で返信しちゃおう」
改めて書類を見直す。
普段、意味も分からず「遺伝子の相性」という言葉を使っているけれど、改めて考えるとなんなんだこれ。
そんな疑問をコウにぶつけてみたが、彼ですら「うーん、もともとは戦後の人口管理のために作り出された考えらしいんだけど、今はその当時とは検査内容も変化しているし、はっきり言って検査している側もよく分かっていないんじゃないか」なんて言っている。
そんなもののために、あたしはあんな婚約をさせられていたのか。
そんなものの保証がないからと、「恋愛」で生まれた子が「管理品」として生きなければならないのか。
「そんなの、おかしいよね。こんな検査、なくなってしまえばいいのに」
「うん。ただ、もともと地下生活の人口管理のために始まったものだから、地上生活が定着すれば多分なくなるよ」
そう言って言葉を切り、いたずらっぽくにやりと笑う。
「でもね、現状この検査がある以上、使える駒は利用させてもらおうよ」
考えただけで足が震えるお洒落地区、A区にある「レストラン」の予約の日。
なんで夕飯食べるのにこんなに緊張しなきゃいけないんだ。まあ言い出しっぺはあたしなんだけれど。
「A区」の「レストラン」。あたしにとっては夜のS区の一人歩きくらい怖い。
それをコウに言ったら大笑いされた。
「お化けの正体は、大抵その人が心の中で作り出したものだよ。分からないことがあれば聞けばいいんだし、おいしいごはんをおいしいって食べればいいだけのことだよ」
まあ、そうなんだけどね。あたし、周りの目を気にしすぎなんだろうな。
この間買ってもらったワンピースに袖を通す。仕立てたわけでもないのに、見事なまでにぴったりだ。そういやなんであたしのサイズを知っているんだ。
あたしだったら「似合わない」と決めつけて、絶対に手を出さないであろうデザイン。結構体の線が出るよこれ。出たところでどうという線でもないんだけど、なんとなく恥ずかしい。
あたしが一番気にしている、左右の腕の太さが違うのはうまく分からないようになっているけれど、鎖骨まわりとか結構豪快に開いている。
古谷さんからもらった口紅をつけ、買ったばかりの――三日分の稼ぎをまるまるつぎ込んだ――靴を履いて、びくびくとリビングに向かった。
「どうですかね……?」
今のあたしは髪の毛も短いし、こんなどこぞのお嬢様が着るような服を着こなせるほどの顔でも体型でも身分でもない。がっかりされたらどうしよう……。
「…………」
黒ベースだが、あのおっかない「会社」の制服とは全然雰囲気の違う、こなれたジャケット姿が見事にさまになっているコウは、口を半開きにしたまま何の表情も見せず、何の言葉も言わず、こちらを見たまま微動だにしなかった。
「どうだって聞いているんだけど。なんなのその変な顔。人形は人形でもくるみ割り人形みたいだよ、今の顔」
そう言っても動かない。仕方ないので後頭部をひっぱたいて怒鳴った。
「人に聞かれたことにはちゃんと答える!」
「はい!」
ようやく動いたコウは、改めてこちらを見て呟いた。
「……思った通りだ。あの日の桜の精みたいだ」
あの日の桜。
ああ、だからこの色を選んだのね。
あの日。地上に出て、二人で見上げた桜。
黄金色から夕焼け色に移り変わる空の色に染まる桜の下でたくさん話して。
その桜の下で、彼はあたしへの想いを伝えてくれた。
「ありがとう」
普段、きれいだ女神だと云われたところで大抵流しているのだが、今日は素直にありがとうと言えた。
彼は少し苦しげに微笑むと、あたしのことをそっと抱きしめた。
「……早く『俺』になりたい」
両腕に力が入る。
「ミキがこんなに近くにいるのに、『ヒカル』の仮面を外せないのが、凄く……凄く、苦しい」
それは、あたしだって同じだ。
どうやったらいいのかよく分からないが、あたしも彼の体に腕を回した。
早く、あなたがあなたになってほしい。
あたしだって、家主のふりをするのは苦しいんだ。
やがて、コウはあたしから腕を離し、照れたように笑った。
「さ、ごはん行こう。予約はね、『北山』で入っているよ。苗字じゃないと予約できないから」
何気なく言ったのであろう彼の言葉で思い出す。
そうだ、この人には戸籍も苗字もないんだ。
「そういや、コウって市民権得たら苗字どうすんの? 自分で決めるの?」
「どうなんだろうね。でも自分で決められるなら『北山』がいいな。そのほうがミキもいろいろ面倒がないでしょ」
……おおう、そうだった! コウが市民権を得るイコール、あたしと結婚する、ってことなんだ。
北山コウ、漢字で書くと北山洸、か。いいんじゃない? なんて、いつまでも同じことを考えていた時、コウの電話が鳴った。
「――それはそうでしょう。このままで受理されるわけがありません」
誰と話しているんだろう。「会社」の時の口調だが、いつも以上にこわばった話し方だ。
「汚染物質の件だけで話を進めても駒として弱いに決まっています。研究所の担当チームが違うんですから」
こわばった……というか、あれ、珍しいな。この話し方、多分イライラしているんだ。
「お気持ちは本当にありがたく存じております。ですが研究所を納得させる方が先です。私のことは気になさらないで下さい。このような言い方をしてしまい申し訳ないのですが」
こんなやりとりがしばらく続いたあと、コウは電話を切った。
イライラがおさまらないのか、しばらく怖い顔をして電話を見つめていた。
「……大丈夫?」
あたしの声を聞いて、コウははっとしたように顔を上げた。
「あっ、ごめん。ちょっとうまくいかなくてイライラしちゃった。誰も悪くないのにいけないいけない」
そう言って自分の頬を両手でぱちぱちと叩いた後、いつものにこにこ顔を見せた。
「イライラしたら消化に悪いよね。よし、もうおしまい。ごはん行こう」
この「もうおしまい」は、「話題としておしまいにしたいから何も訊くな」ということなのだろう。
それであればあたしから訊くことはできない。
レストランは、評判のことだけあるおいしさだった。
気取った店で失敗したらお店の人に笑われやしないかと心配していたが、店に入るなりコウが「私達はこのような場所には不慣れです。こちらのお店のご迷惑にならないよう楽しみたいのですが、分からないことがありましたら教えていただけますか」と素直に言ったおかげなのか、それとも予約の段階で「会社」の気配をちらつかせていたからなのかは分からないが、お店の人は皆親切だった。
コウは始終笑顔で、ちょっとしたことでもあたしのことを気遣ってくれた。
そうか、「守る」って、何も強大な敵を力でやっつけることばかりじゃないんだな、なんて思った。
それでも、ふっと不安になる。
さっきの電話。コウはすっかり電話なんかなかったかのようにふるまっているけど。
コウは表情が豊かだ。でも、どうしても隠したいと思っている感情は、決して表に出さない。
かつて隠していた、あたしへの想いや、今の電話のことや。
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