3.印象と立場
昼になっても四人は帰って来なかった。
随分長い。途中、コウから電話があって、昼食は四人で食べる、夕方には戻る、と言われた。
電話の後ろからは、がやがやとたくさんの人の声が聞こえた。街の中心部まで行っているらしい。
電話のコウの声は、随分と楽しそうだった。
そうだよね。今まで社会との接点っていうと、あたし、近所のおばさん、ちびっこだけだったもん。自分と同じような年代の男性と「外」で話す機会ってなかったから。
あたしはたまっていた事務処理やらお客さんへの電話やらを片付け、明日からの仕事に備えた。
コウが「プロポーズ」してくれたとはいえ、その結果は不透明だ。もし、このまま脱走状態がずっと続く場合、彼の貯金を頼りにするわけにはいかない。あたしが二人で食べていけるよう働かなければ。
仕事は正直そんなに好きじゃない。だけどせっかくお父さんが、自分がなくなっても一人で生きていけるよう取得させてくれた資格だ。がんばらなきゃ。
あたしが二人分働く、と考えると、大変だ、とは思う。でも不思議と、嫌だ、とは思わなかった。
女性は決して「守られる」だけの生き物じゃない。
そう。もしもの場合は、あたしがコウを守る。
そんな肩ひじ張ったことを考えていたら、うっかり昼食を摂るのを忘れてしまった。
もういいや、面倒くさいし。コウがいると昼前から「ごはんは? 今日のごはんは?」と始まるので、忘れることはないんだけれど。
あーあ、だからあたし、いつまでたっても貧相なんだ。
……あたし、コウと並んだ時、きっと不釣り合いだよね。地味で貧相なのに態度ばっかり大きくて。
こんなあたしで、いいのかな……。
遠くからがやがやと低い声が聞こえている。
……あれ、あたし、寝ちゃった?
「ミキ」
あたしの短い髪に、そっと触れる手の感触で目が覚めた。
慌てて飛び起きる。やだ、何やってんだあたし。お客さん、しかも新人とはいえ「会社」の総合職がいるっていうのに、態度大きすぎだろ。
「やだ寝ちゃって。ごめんなさい。あ、おかえりコ……」
……コウ?
「北山さん、時間長くなっちゃってごめんね。なんか一度始めたら面白くなっちゃってあれもこれもって」
前田さんがそう言って笑う。
「やっぱ素材が俺らとはケタ違いだから。あのさ、変装って別にださくしなくても正体が分からなければいいんだよ。今日からこの方向の変装にしなよ」
佐々木さんが頷きながらそう言う。
「どう? 北山さん、惚れ直した?」
若林さんが言う。
あたしの目の前にいる人を指差して。
あたしの目の前にいるのは。
「……誰、あんた」
長い前髪を上手に流してすっきりとカットした、アッシュブラウンの髪。
一目で流行のものと分かる垢抜けた服装。
服は、健やかで均整の取れた体型をさりげなく強調している。
もちろんちょうちょ結びやださい眼鏡なんかない。
雑誌から抜け出たような前田さんとはまた違う、見る人が気圧されるような、そのくせずっと目で追ってしまうような、そんな……。
「……ええええええーーー!」
「北山さん、期待以上の反応をありがとう」
絶叫して腰を抜かしたあたしを見て、三人は満足げに笑った。
「俺そんなに変わった?」
「変わったなんてもんじゃないよあんた、さっきと今じゃもはや別の星の生き物くらい違うよ! やだもう凄いよ皆さんが! コウちゃんとお礼言った?」
「言ったよー」
若林さんがぽつりと呟く。
「コウさんと北山さんって、そういう力関係なんだ……」
しまった……。
あたしの焦りをよそに、前田さんはコウにべたべたとまとわりつきながらあたしに話しかけてきた。どうもあたしと違う意味でコウに惚れ直したみたいだ。
「やー、面白かったー。コウさん『会社』と全然違うんだもん。今の環境だから云えるけど、こんな素直で可愛い弟がいたら楽しいだろうなー。今日はここ来て良かったよ」
「だよな。じゃあ前田、若林、帰ろっか。お邪魔しましたー」
爽やかに頭を下げる佐々木さんの肩を、コウは軽く叩いてにっこり笑った。
「これ。忘れないで下さい」
手渡された機械と大量の紙を見て、佐々木さんと若林さんは一瞬にして凍りついた。
どうも何故今日ここに来たのか、本来の目的を今の今まで忘れていたらしい。
本来ここに来た目的の時間まるまる気を失っていた前田さんは、呑気に佐々木さんの手元を覗き込む。
「あ、これ例のですね。なんで機械ごと?」
「このメモリ全部と機械丸ごとが容量いっぱいなんだって……」
「…………」
再び気を失いかけた前田さんを引きずって、三人は無言のまま帰って行った。
三人を見送った後、あたし達はどちらからともなく微笑みあった。
「凄い素敵。惚れ直した」
誰もいなくなってやっと、素直にそう言えた。
「ありがとう。ミキがそう言ってくれるのが一番嬉しい」
少し照れたように下を向いて云う。その仕草が、たまらなく愛おしい。
愛おしすぎて、ぎゅっとしたい。
「そうだ。あのね、いっぱい買い物したんだよ。前田さんがいろいろコネあるらしくて、いいものが安く買えているんだって。今お金の残り渡すね」
あ、もう話が切り替わるのかい。結構な量の買い物袋を見て内心びくびくしていたのだが、思いのほかお金は残っていた。
「ミキのも買ってみた。俺から見たミキのイメージで買ったから、気に入るかわかんないけど。靴はね、本人が買った方がいいってお店の人に言われた」
そう言って手渡された紙袋を見て、あたしは仰天した。
この店、知っている! いくらあたしが服に興味がないっていっても、さすがにこの店は知っている。というか東京中の若い女性は多分全員知っている。
流行をほどよく取り入れながらも上品なこの店の服は、それこそ若い女性の憧れの代名詞みたいなもんだ。
まさかこのあたしが、この店の服を手にする日が来るとは思わなかった。だってこれは、山の手地区のお嬢様や、若奥様とかが着るものだから。
袋の中には、淡い桜色の、とろけるようになめらかな素材のワンピースが入っていた。
この間古谷さんに借りたような、ふわふわした可愛らしい感じのものとは違う。清楚な色の割に大人っぽくて、少し艶のある雰囲気。
これが、コウから見たあたしのイメージなんだ。
「……ありがとう。凄く嬉しい。この店の服を貰ったのも嬉しいけど、コウがあたしのことをこう見てくれていたんだっていうのが嬉しい」
少し不安げだった彼の表情がぱっと明るくなった。
「ありがとう。大事に着るね」
……と言いながら気がついた。
あたしの日常の中で、これ、いつ着るんだ? 整備中機械に引っ掛けちゃったりしたら、泣くに泣けない、悔やんでも悔やみきれない。
「気に入ってくれた? じゃあ来週早速着てよ。佐々木さんに教えてもらって『レストラン』の予約をしたから」
「レストラン?」
「うん。昨日行きたいって言っていたでしょ」
あ。そういえば。
店名を聞いてあたしはまた仰天した。
知っている。あたしなんかが立ち入るのも畏れ多いお洒落地区、A区にある超有名店じゃない。
「会社」のそばのレストランでもあんなに緊張したのに、あたし、生きて店から出られるのか?
紙袋を抱えてお父さんの部屋に入ろうとするコウを、思わず呼び止めた。
「あ、あのさ。この服とか、レストランとか、値段のことは怖いから聞かないけど、その、どういう人のものか知っている?」
「勿論。皆さんから聞いているし、店の雰囲気を見れば俺だって大体分かるよ」
「あたし嬉しいよ。嬉しいけど、あたし、こんなんだよ。コウはいつもきれいだって言ってくれるけど、あたしは普通の庶民の、普通の外見の、普通の人間だよ。それを、どこぞのお嬢様や奥様みたいな」
「俺ね、『会社』にいたとき」
唐突に「会社」の言葉を出されて話を折られ、あたしは一瞬止まった。
「一年以内に課長に昇進するの、確実視されていたんだよ。こんなだけど」
そして少し赤くなりながらいたずらっぽく笑い、あたしのおでこをつついた。
「今進んでいる話がうまくいけば、ミキは二十歳になったら、『会社』の管理職の奥様だよ。分かっている?」
特大の爆弾をあたしに落とし、彼は部屋のドアを閉めた。
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