4.光に向かうために

1.仕事はまだある

 小さな灯りを頼りに、地下へと続く通路を降りていく。

 昨日いたはずの怪物が今日はどこにもいない。今ここにいるのは、あたしたち二人だけ。

 滑りやすい通路を手をつないで歩く。地下へ続く通路のはずなのに、あたしの心は上へ上へと昇っていく。


「ねえ」


 自分でもどうなんだと思うような甘えた口調で話しかける。


「あたしの気持ちは知っていたんでしょ。ならさ、なんで昨日のうちに結婚の話をしてくれなかったの?」

「うーん」


 こちらはいつもと変わらない、間の抜けたガキ口調だ。


「その話、実は言わない方が良かったかなーと思っているんだ」

「なにおうぅぅぅ!?」

「痛たたたたたあっっ! 違う違う聞いてよ!」


 髪の毛を掴んで振り回すあたしの手を押さえてコウは絶叫した。叫び声は通路の中にぐわんぐわんと響き渡った。


「だって申請が通る保証はないし! もっと下準備や根回しをして、ある程度目処がついてからにした方が良かったかなって!」


 ……あー、それはそうだなぁ。ぬか喜びで終わる可能性もなくはないんだ。


「じゃあそれを先に言えばいいんだよ。あんたはいつも、インパクトの強い誤解を招きやすい言葉を先に持ってくるから」

「……はい。ごめんなさい」


 鬼係長はあたしに叱り飛ばされて素直に謝った。


「でも……どうしても、伝えたくなって」


 そう言ってあたしの手を強く握る。その力強さに免じて、今回はこれで許してやろう。




「このあたり、昨日滑ったところかな」


 少し立ち止まって足元を確認している。そう言われても覚えていない。暗くて怖かったし。

 しかしコウって、いつも色々なことによく気がつくな。間抜けのくせに。


「ちょっといい?」


 何が? と聞く前に、あたしの体がふわりと宙に浮かんだ。

 転んだんじゃない。コウの両腕に抱きかかえられたのだ。


「わっ」


 赤ちゃんみたいにあたしのことを抱えて通路を降りる。

 ちょっと大丈夫なの? いくらあたしが貧相でコウに力があるっていっても、大量の機器類だの小道具だのを抱えて、その上あたしじゃ大変だよ!


 けれどもあたしの懸念をよそに、びっくりするくらい大股の速足で進んでいく。

 こんなに速く歩く人だとは知らなかった。あたしの手を引き先を歩いているときも、いつもあたしに合わせてくれていたんだな。


 靴の音と、かすかな息遣いだけが聞こえる。

 あたたかい。

 あたしに触れることを禁忌としていた時には考えられなかったような、今の状態。

 本当はずっとこうしていたいけれど、困ったことにあたしは人に甘える習慣がない。だんだん居心地が悪くなってきた。


「足元かえって危ないんじゃない? それに重いでしょう」


 そう言って降ろしてもらおうとする。


「大丈夫。ミキ軽いし」


 悪意がないとはいえ、あたしが密かに気にしていることをずばり言われ、抱きかかえてもらっていながら不機嫌になった。


「悪かったね。どうせ貧相だよ」

「え。俺、貧相とかふくよかとかどうでもいいんだけど」


 昼間の街中を歩いているかのような足取りで暗闇の中をどんどん進む。


「ミキはミキであれば、どんな姿だろうと俺は世界で一番きれいだと思うもん」


 ……だからさ、それを言われるともう、あたしの話は続かないんだよ。




 地下に帰ってきて改めて空を見上げると、なんだかとても悲しくなる。

 刻々と移り変わる空の色や強烈な輝きに比べ、偽物の空はなんて暗く、薄っぺらなんだろう。

 今通ってきた通路を使って地下に潜った最初の人達は、どんな思いでこの偽物の空を眺めたんだろう。


 家に食材もないし、あたしも疲れているので、朝食は店で済ませた。どこにでもあるような店だが、コウにとっては人生初の食堂だ。


「……ミキのごはんの方がおいしい」


 こういうことを小声で言うくらいの社会性は身についているらしい。


「そうだ。今度、前にあたしが新人さんたちと食べに行ったような『レストラン』に行ってみようよ。そこならおいしいよ。多分高いけど」


 あの時は緊張していて、実はそれほど味が分からなかったが、とにかくコウと色々な所へ行きたいんだ。あたしの提案を聞いて、彼は手を軽く振った。


「お金は気にしなくていいよ。ミキもたまには息抜きして。いつもおいしいごはんをありがとう」


 口に合わなかったらしいのに、おかわりを注文しながらそう言って微笑んだ。




  家に帰ってすぐにコウが言った言葉に、あたしは心底がっかりした。


「結婚申請が受理されて、市民権を得て正社員に採用されるまでは、俺は『鈴木ヒカル』だから」

「えええーー!」


 正社員採用まで? それって絶対今日明日の話じゃないよね。

 じゃあ何、地上の夜明けとともに「プロポーズ」を受けておきながら、当分「家主と居候」のままなわけ!?


「そんなあ。じゃあ正社員になるまでは今までと同じい?」

「そうだよ。それで正社員になったらこの家を出て、どこかに部屋借りて一人で住む」


 ――えええええええええーーー!?


「なんでよ! このままうちにいちゃだめなの!?」

「だめだよ。当たり前じゃないか」

「あんたに『当たり前』を説かれたくない!」


 分かっている。コウはあたしを取り巻く「世間の目」を気にしてくれていることを。

 親戚とかならともかく、結婚前の男女が一緒に暮らす、なんて、許されないことだ。だからあたしだってそうしなきゃいけないのは分かっているよ。

  もうちょっと騒いだらあたしの方が折れるから。


  だからさ、一瞬でも離れたくない、もっともっと一緒にいたいと叫ぶあたしの心が収まるまで、しばらく駄々をこねさせて。




 ひとしきり騒いであたしが落ち着くと、コウはさっさとお父さんの部屋に籠ってしまった。

 そうだ。あたしは地上を見て「プロポーズ」を受けて、なんだか一段落した気分でいたけれど、コウにとってはこれからが勝負だ。


「先程戻りました。ご連絡が遅くなり申し訳ないことでございます。早速ですが、収集いたしましたデータの受け渡しですが」


 何日かぶりに聞いたコウの会社口調。そういやなんでこんな話し方するんだろう。


「――そうですか。では明日お待ちしています。休日の所ありがとうございます。では小野さんに代わってもらえますか」


 ん? お待ちしていますって、明日誰か来るのかな。

 そういやもう何日も掃除していない。人が来るなら今からやんなきゃ。


「小野さん、例の若林さんの提案ですが……」


 掃除をしようと歩き出した時に、「若林さんの提案」という言葉が聞こえて、思わずドアの外で聞き耳を立てる。


「――お受けいたします。はい。今朝話をしまして、北山さんから了解を得ました。……あ、ありがとうございます。ですが、これだけではなく交渉材料といたしまして」


 ――北山さんから了解を得ました。


 堅苦しい表現をしながら、今、彼の顔色が赤紫色になっているのを想像し、あたしはなんだかおかしくなって、ドアの外で小さく笑った。




「ミキー、明日ねー、新人三人が揃ってここ来るってー!」


 掃除用機械の轟音に負けないように、コウが大声で叫んだ。


「えー、なんで三人が来るのー?」


 あたしも負けじと大声を張り上げる。別に機械を止めればいいんだけど。


「データの受け渡しにー! 最近まで『管理品』になっていたミキが『会社』に行くのはまずいからー! 明日の休みを使って来てくれるんだってー!」

「まさかあの黒ずくめで来ないでしょうねえー!?」

「休日だから私服だよー!」

「ふーん! でもなんでそんな用事なのにわざわざ三人で来るのー!?」

「知らなーい!」




 掃除の勢いで自分の部屋の片づけをしていた時、ふと、古谷さんからの頂き物を思い出した。

 あーあ、あたしってば。せっかくこれから毎日口紅と香水を使おうと思っていたのに、今日さっそく使い忘れているし。それどころか今日、鏡見ていないし。ダメだなあ。


 頂き物に書いてある言葉の意味を聞いてみようと、お父さんの部屋をノックして中に入った。

 中では、コウが久しぶりにお父さんのワープロを使っていた。映画の早送りもびっくりの速度で、謎の文章が次から次へと吐き出されている。

 これ、めちゃくちゃに指を動かしているわけじゃないんだよなあ、やっぱり。


「どうしたの?」

「うん、ごめん、忙しかった?」

「全然」


 手を止めて、にこにことこちらを見る。

 ああ、今は、「ヒカル」になっているんだな。


「あのね、この間、古谷さんにこれもらって。なんか外国語が書いてあるんだけど、意味はコウに訊けって言われてさ、なんでか知らないけど。だから教えてくれる?」


 書かれている言葉は短いものだから、自分で調べられそうなものなのに。なんでわざわざ訊けって書いてきたんだろう。


「いいよ。これ? じゃあ鏡から」


 鏡を見た途端に、コウは小さな声で「なるほどね」と呟いた。


「これはね、伊語だよ。『私はあなたを心から愛しています』」


 ……なるほどね。

 古谷さん、分かっているな。ここの言葉がもし「私は美しい」みたいなのだったら、あたしはきっと鏡を見るたびに「そんなことないもん」なんて思って、かえって逆効果になったことだろう。

 それが鏡を見るたびに、心の中でコウの声が「私はあなたを心から愛しています」って読み上げれば、きっと調子に乗ってきれいになろうと努力する。


「ん? なにこの壜。何入ってんの? あ、この壜のはね、『私の愛しい人』」


 ……なんでわざわざ教えてもらえって付箋貼って来たのか分かった。

 あたしはこれを使うたびにこの声を思い出すし、この香りをかぐたびに、コウもこの言葉を思い出す。

 じゃあこの口紅も同じ作戦なのかな。


「あとこれね。あ、ここ蓋なんだ。へえ口紅ってこうなっているの。これは」


 字を見るなり、コウの手が一瞬止まった。


「やられた……」

「なにが?」

「……なんでもない。これはね」


 妙な間を置いてから、言った。


「『ここにキスして』」

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