3.天井のない空の下に咲く
1.容疑
「ごきげんだね。昨日いいことでもあったのかい」
おととい一緒に作業していた時、佐々木さんに私語を注意されたおじさんが、性懲りもなく話しかけてきた。
今日も空調管理課での作業だ。例の汚染物質が、S区以外でも検出されたらしい。
きりがない。これ、根本的な原因はなんだろう。
「いえ。どっちかというと悪いことがありました」
若林さんとのおしゃべりのせいで両頬を殴られ脇腹を蹴飛ばされた。だが「男性総合職との勤務時間中の私語」というのは、普通は個人的暴力以外の厳しい処罰があるらしい。
けれどもじゃあなんでそれがなかったのか、の話をするとちょっと面倒なので、あたしは笑ってごまかすことにした。
「ふーんそう? あ、こっちもお願い。ちょっと力いるけど」
「あー、ごめんなさい、あたし右腕機械入ってないんで、全然力ないんですよ。こんななんで」
あたしは貧相な右腕で力こぶポーズを取ってみせた。上腕部の筋肉は、一ミリも盛り上がらなかった。
おじさんは、じゃあしょうがない、と別の人に声をかけに行った。
やっぱり機嫌よく見えるんだ。そりゃそうだろう。昼間は散々な目にあったが、そんなものを吹き飛ばすくらい、昨日はあたしにとって人生最良の日だ。
欲を言えば人づてじゃなく本人の口から聞きたかったが、そこまで望むのは贅沢というものだ。それに本人から聞いたところで、これから先どうにもならない、という現実に変わりはない。
――私が一生愛し続ける人
……あああもうどうしよう。話したのはマサキさんなのに、いつの間にかコウの低い声にすり替わっている。どうしようってどうにもならないんだけどどうしよう。
じゃああの時の「恋に『堕ちる』」も、あたしのことだよね? 無駄な嫉妬心のせいで却って鮮明に覚えているんだよセリフの一つ一つ。
うわわじゃあ髪の毛を編んでくれた時のあの表情も、あたしに向けてくれていたんだ。
どうしよう、あんな表情してくれた。やだもうどうしよう。嬉しくてこの場で回転しながらジャンプしたいくらいだ。
あたしどうしようもないな。ゆうべから同じことを何度も何度も繰り返し思い出しては舞い上がっている。だって嬉しいんだもん。
でも。
だとしたら同時にあたしはとんでもなくひどい奴だ。
あたしに向けてくれた気持ちを、存在しない人に向けているものだと、ずっと思い込んでいた。それこそついこの間まで。
そういえばコウ、あたしが「アイさん」のことを言ったとき、失神していたな。あれはああいう話に免疫がないからだと思っていたが、それだけじゃなかったのかもしれない。
あたしがしょうもない思い込みをしていたと知って、彼の純粋な純粋な心がショックを受けたのかもしれない。
あの十八年間で一度しか風邪をひいたことのないような、頑健な体を倒すほどに。
あたし、なんてことを。
「そこ。にやにやしていないで作業に集中しろ」
気がつくと、背後に佐々木さんが立っていた。口調は高圧的だが目が笑っている。
やばい。
「仕事中、何をにやにやしている」
「申し訳ないです。ホントなんでもありませんので以後気を付けます」
そう、何でもないからね。だからにやにやの原因とか探り出さないでよ。
「なるほど。本件の原因については私からじっっくりマサキリーダーに確認することにする。作業に戻れ」
満面の邪悪な笑みを浮かべた佐々木さんは、そう言って去って行った。
佐々木さん、鋭いなー。それともあたしが分かりやすいのか。いずれにせよ今日またマサキさんの部屋に呼び出されるのは確定だ。
しかし、なんで皆、忙しい仕事の合間にこんなにあたしに構うんだろう。というか、なんでコウとあたしの間に入ろうとするんだろう。これ、小野さんは知っているのかな。
そんなことを考えながら昼食――これ、内心びくびくしていたが三食普通の食事だった――を摂りにだらだらと食堂に向かっていた時、マサキさんが駆け寄ってきてあたしの腕を掴んだ。
「急いで空調管理課へ。こっちから来て」
今まで使ったことのない階段を降り、その後また別の階段を上がる。ドアの向こうがざわついているのが分かる。
「普通ここには立ち入らないんだけどな」
マサキさんがそう呟いて舌打ちした。
「何かあったんですか」
「警察」
鋭い声で囁いた。
「管理品の居住棟を調べている」
警察? どうして?
あたしがわざわざ「会社」に潜り込んだ理由。それは、国家機能のない東京において、絶大な権力を持つ「会社」には、基本警察が立ち入ることがないからだ。
特に「管理品」に関しては、それこそ企業秘密を体内に埋め込んでいたりするので、警察の方でも遠慮してしまっているらしいのだ。
「私達の誰かが社外で市民に危害を加えた、とかなら別だろうけど、皆『外』が怖いから社外なんか出ないし。まあ今一人出ているけれど、そいつは『外』どころか『地上』だしねぇ」
「どういう理由で警察が入っているんでしょう」
「それを今、小野さんに訊きに行く」
そう言って電話を掛ける。小野さんの電話番号、知っているんだ。
薄暗い階段を昇ったり降りたりしているうちに、空調管理課の「オフィス」前に着いた。
着くなりスーツ姿の女性社員が飛び出してきた。彼女に引っ張られ、「女子更衣室」と書かれた部屋に放り込まれる。
「下手に隠れていて見つかると面倒だから、うちの社員に紛れるから。急いで。これ私のだから大きいかもしれないけど着て」
そう言ってあたしに服を手渡した。
明るいベージュのジャケットにふわふわのワンピース。こんなの着たことない。うわ着心地いいな、随分いいものだ。
靴まで履き替えさせられた。生まれて初めてのハイヒール。ぐらぐらする。親指が痛い。皆よくこんなの履いて仕事出来るな。
「もう時間ないからこれだけつけよう」
お花のような明るいピンクの口紅をつけられ、今度は「オフィス」の中に放り込まれた。その直後、警察官が二名入ってくる。
「設備係の責任者はいますか」
「はい、私です」
小野さんはあたしの方をちらりと見てから立ち上がった。
「あなたの前任者が傷害の容疑をかけられています。現在、脱走と傷害の二件で追っていますが、彼には協力者として市民の女が関与している可能性があり、それもあわせて追跡しており……」
傷害?
ばかな。なんで。だってあたし、コウが地上への入り口前に立ったところまで見ているもん。ありえない。
「成程。脱走は勿論知っていますが傷害ですか……」
小野さんは少し考え、ふと何かに気がついたように顔を上げた。警察官に質問する。
「その、被害者の方のお名前を教えてもらえますか」
「え? まあ。えーと」
警察官は何かを見てから答えた。
「K地区の竹田ケイトですが」
竹田さんだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます