9.研究所での会話
朝、ロビーを歩くと、嫌でも視線を感じる。
蔑むような視線、憐れむような視線、見ないようにと視線を外す視線。
「ほら、見てごらん」
身なりのいい母親が子供に向かって話しかけている。
あたしを指差して。
「ちゃんとお勉強して良い上級学校に入らないと、あんな風になっちゃうわよ」
子供は母親の陰で、まるで怖いもののようにあたしのことを見つめて頷いた。
山の手ではそういう風にしつけるんだ。下町とは言い回しが違うらしい。
不思議と腹が立たないし、何言われても気にならない。
自分の仕事の事だけを考えて、自分の身の安全だけを願う。管理品は皆こうやって、社会を目の前に見ながら、社会と隔絶されて生きているんだろう。
今日は午前中、研究所の掃除だ。
研究所の奥の部屋に、脚に金属のリングをつけた人たちが消えていく。あのリングは実験サンプルの印なのだそうだ。
ひとりで黙々と作業していると、若林さんが近寄ってきた。
「うわ、本当にいた」
研究所って結構広いのに、あたしのことを探して来たのかな。今日は黒ずくめの上に白衣を着ている。
「おはようございます。若林さん、白衣お似合いですね」
研究所に異動してさほど日が経っていないはずなのに、白衣姿が板についていたので、ついそんなことを口にした。
「そう? ありがとう。大学でずっと着ていたからかな」
白衣をつまんでさらっとそう言ったが、ちょっと待て、今、「大学」と……。
大学! ひゃー! 総合職ってやっぱりエリートなんだ!
もしかして前田さんも佐々木さんも大卒なのか。皆あたしより明らかに年上なのに、なんで新人なんだと思っていたら、そういう事かい!
「凄い。大卒なんか初めて見ました」
それを聞いた若林さんは笑った。
「そんな事ないでしょ。総合職全員大学出ているし、ホラ、北山さんのもう半分は確か十二歳で大卒資格取っているよ」
あたしの「もう半分」。
そうだ、今頃どうしているかな。地上は電話が通じない。まだ一日とちょっとしか経っていないのに、随分声を聞いていないような気がする。
逢いたい。声を聞きたい。
もう空は見たんだろうか。天井のない空から降る星は見たんだろうか。本当に危険はないんだろうか。
そんなことを考えていた時、いきなり目から火花が散った。
「てめえ!」
頬を拳骨で殴られたのに気がついたのは一瞬後だった。
気がつくと同時に頬と口の中が激しく痛む。唇を切ったのか、口の中に嫌な味が広がった。
「口をきくんじゃねぇ!」
殴ってきたのはスーツ姿の社員だ。制裁を名目にあたしを殴れるのを楽しんでいる様子がありありと分かる。
「黙って働け! 薄汚ねえ奴め」
立て続けに反対側の頬を殴られ、倒れたところに脇腹を蹴り上げられる。
これが効いた。内臓が潰れたんじゃないかと思うような衝撃と痛みに立ち上がることができず、その場に
吐き気までこみ上げてくる。気持ち悪い。苦しい。
「藤田、もういいだろう」
「何言っているんですか。私語は厳禁じゃないすか。しかも女のくせに偉そうに」
「もういいと言っている」
「甘い! 甘いですね。そんなんじゃ周りに示しつかないすよ。こいつらには厳しくしなきゃ」
そこまで言った後、藤田と呼ばれたその男は喉の奥でくっと嗤った。
「……あぁ、もしかしてあれですか。若林さんはやっぱり前の上司の『お仲間』には強く出ないっつうか、甘くなっちゃうんですかねぇ」
……なんだこいつ。
「前の上司」って、コウのことだろう。若林さんは新人だけど総合職だからか、こいつも口ではこれ以上言わなかったけれど、態度や声で分かる。
コウと、
助け起こそうとする若林さんの手を制し、あたしを蹴り上げた藤田の右足を指差す。
勤務中、正社員と話したのは私が悪い。でもコウと若林さんをばかにするのは許せない。
「あなたの、右足……」
こいつ、今まで誰にも気づかれなかったのかな。まあ、この位なら普通気づかないか。
でも、今のあたしの目はごまかせない。
「それ、出力、違法ですね……」
もっといろいろ言いたかったが、ここがあたしの体力の限界だった。
すとん、と目の前が真っ暗になった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます