8.あなたは誰を想っているの
この間とは事情が違う。あたしは「会社」に匿ってもらうために、「会社」から逃げた人の指示で「会社」に向かう。
ロビーの隅に、いらいらした様子で電話をしている、背の高い中年の女性がいた。
「……だから分かったよ! ちゃんと面倒見るから信用してよ! しつこいなー。そんなに好きなら地上なんか忘れていっそ駆け落ちでもしちゃいなよ!」
彼女は電話を切り、舌打ちをした。
「あれっ」
ようやくあたしに気づいたらしい。
「もしかして……あなたが北山さん?」
「はい。ご迷惑おかけします。よろしくお願いします」
半袖の黒い服を着た管理品二班リーダーのマサキさんは、あたしのことを上から下までじろじろ見た挙げ句に呟いた。
「中の上だな……」
「え?」
「あ、いやごめん。普通に見たらかわいいほうなんだろうけど、この世のものとは思えない絶世の美女が来ると思っていたから」
またか。なんであたしの事そんな風に言うんだろう。面白がっているのかな。
いかにもリーダーといった雰囲気のマサキさんは、挨拶もそこそこにあたしを引っ張って薄暗い部屋に入った。そこで、半袖の灰色の制服を手渡される。
「アンタは仕事をなくして食いつめてここに来たことにするから。実験には回さないけど、作業は普通にやってもらうからね。さ、右腕出して」
まさか彫るわけにいかないからね、と言いながら、あたしの腕に識別コードを書き込んだ。
ただペンで書かれただけの記号なのに、その瞬間からあたしは「人」ではないものとして社会から認識されるモノになった。
「表面上は特別扱い出来ないから、ちゃんとルールには従ってね。アンタには出来るだけ空調管理課の作業を回してあげるけれど、くれぐれも知った顔の社員に会っても喋ったり笑いかけたりしちゃだめだよ」
あたしが空調管理課の社員と顔見知りなのを知っているんだ。コウ、あたしのこと、なんて説明しているんだろう。
「あの、マサキさん。あたしのどんなことをご存知なんですか?」
「ん? ああ」
こともなげに言い放つ。
「コウ君の恋人でしょ」
……はい?
「このクソ忙しい時期に脱走してなんのつもりだと思っていたら、こんなことになっていたんだね。私が気にしてもしょうがないけど、アンタ将来どうするつもりよ」
……はい?
「しかしこういう感じが好みだったんだ。いやね、前にロビーでロケしていた女優……まあ木本サキなんだけど、彼女がコウ君に目をつけてさ、ちょっかい出そうとしたんだけど、そん時アイツなんて言ったと思う?」
「えっ? ……木本サキならえーと、きれいだよ、女神だよみたいな?」
「『世間の評価は存じ上げませんが、私にはあなたの魅力が理解できません』」
……まじか。
えーと、えーと、訊きたいことが山盛りだ。言いたいことも山盛りだ。
「コウ……さんって、誰にでもきれいだよって言ったりするんじゃないんですか」
あ、訊きたいことの中でも重要度の低い事を。
「言わないよー! 何言ってんの。木本サキにあの言い様だよ。私アイツが生まれる前から知っているけど、誰が言い寄っても同じ調子だったよ。もっともアイツ、言い寄られていること自体理解していなかったけれど」
言い寄られたりしていたんだ。だろうね。じゃなくて。
まじか……。
「あと、これははっきりさせときます。あたし、コウさんの、こっ恋人じゃありません。匿ってはいましたが、それだけです。どんな説明があったか分からないですけど、多分コウさんも、こっ恋人とは言っていないと思います」
マサキさんが眉をひそめ、でも、と言いかけた時に、彼女の電話が鳴った。
「二班マサキです。はい。S区の。かしこまりました。丁度機械に強い新入りが一体ありますので向かわせます」
電話を切ったマサキさんはあたしを見た。
「無駄話はおしまい。アンタの仕事だよ」
あ、新入りが「一体ある」って、あたしか。
そうだ、あたしはモノなんだ。
つい今朝までいたS区の大気中から、問題のある汚染物質が検出されたらしい。その除去システムの整備が初仕事だ。
東京中の空調が一括管理されている部屋は、広さの割に人が少ない。基本的に自動制御されていて、管理と今回みたいな整備の人間――「人間」って言うよ――しかいない。あたしは一緒に作業しているおじさんに、作業の飲み込みが早いと褒められた。
「なんかね、この汚染物質、じわじわ精神をやられるらしいよ。S区って治安が悪いらしいんだけど、その原因の一つなんだって。以前ここに在籍していた係長が発見して」
おしゃべりなおじさんが、自慢気に鼻を膨らませた。
「なんとその係長っていうのが総合職じゃなくて俺らと同じ管理品でさ、しかも若いの。アンタ位だったよ。いや本当、嘘じゃないよ、信じてよ」
勿論信じますとも。あたしも一緒に鼻を膨らませた時、黒ずくめが後ろに立っているのに気がついた。
「そこ。私語を慎め」
研修で習ったりすんのか、その高圧的な話し方。素の時はやべーとか言うの知っているぞ、あたしは、と思いながらも一応謝るために振り向いたら。
……あはは、やべーとか言っちゃう佐々木さんじゃない。
佐々木さんは一瞬ぎょっとしたような表情をしたが、すぐに元の冷酷な総合職面に戻って言った。
「そこの。新入りか。班と名前は」
「二班ミキです」
「ミキ。今日二十時以降、マサキリーダーの部屋へ行け。連絡事項がある」
佐々木さんもプロだなぁ、と思いながらも深々と頭を下げた。
おじさんは、それ以降一切私語を発しなかった。
初日から結構こきつかわれたが、市民の立ち入る場所には行かなかったので、あの蔑むような視線にはさらされていない。とりあえず初日はまずまずだ。この調子なら楽勝かも。
夜、大部屋からマサキさんの部屋に行くと、ほどなく電話が鳴った。佐々木さんだ。
『北山さん! 昼間はまじごめん! 呼び捨てとか、あれああしないといけないの! 仕方なかったの! だからこのことはコウさんには』
「……いやあの、別にコウさんに告げ口したりしませんって。悪かったのはあたし達ですし」
前から思っていたんだけど、どうして皆、脱走した人の顔色を伺っているんだろう。
あたしが管理品のふりをしている経緯を簡単に説明すると、佐々木さんは「いよいよか」と呟いた。
「地上の話とか、皆さん知っていたんですか」
『まあね。俺らこれから大変だ。でもまあ、とりあえず小野さんなんかにはこっちから色々伝えとく。じゃあね』
まだ仕事中だったのか、すぐに電話を切られた。
マサキさんの部屋から大部屋に戻ろうとした時、肩を強く掴んで呼び止められた。
「ねえアンタ、コウ君とは本当になんでもないんだよね?」
咎めるような、鋭い声。
「ないです……」
そう言うしかない。
「じゃあ、離れてあげて」
「えっ」
「あの子があまりにも可哀想だ。あんなにアンタの事が好きなのに、アンタの多分将来のためにその事を伝えないでいる。なのに肝心のアンタがその気もないのに離れなくて。本当、残酷な事するね。私はコウ君に恩があるからアンタを放り出すことはしないけど、さっさと離れて会社指定の婚約者と結婚してしまえっていうのが本音だよ」
何十人も密集して寝ているのに、大部屋は異様に静かだ。あたしが新しく入って来ても、誰も話しかけようとしない。
狭いながらも清潔なベッドの上で今日起きた事を考える。
佐々木さん、いつも告げ口を怖がっている。あれはきっと、いずれコウが戻って来ると思っているからだろう。
また自分の上司になって、一緒に仕事をすると。それを怖がりながら望んでいる。
そしてマサキさん。どうしてコウがあたしを好きだと思ったのか、迫力に押されて聞きそびれてしまった。
木本サキとあたしが並んだとき、あたしの方がきれいだと言う奴は世界中どこを探してもいないだろう。なのに。
あの、露骨過ぎて嘘くさい誉め言葉、まさか本心だったの? だとしたらあたしはそれを毎回、無視したり鼻で笑って受け流していた。だって普通に考えてあり得ないもん。
だけど「普通」が分からない人の言葉だとしたら?
あたしを守ると言ってくれた。
最初に一緒に地上の空を見たいと言ってくれた。
あれは、まさか。
考えるだけじゃ答えなんか出てこない。一体、あなたは誰を想っているの?
考えなきゃいけないことは沢山ある。でも、とりあえず今日は早く寝よう。
今日が比較的平和に過ぎたからって、明日もそうとは限らないし。
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