7.人間に決まっている
ぼろぼろの建物と薄暗い路地は相変わらずだが、前に来た時と比べ、S区の空気は別物のように改善されていた。あのひどい臭いの空気を改善するために、小野さんが顔を緑色にして指揮をとる姿が目に浮かぶ。
「ここ、随分空気良くなったね」
息を思い切り吸い込もうとしたあたしを見て、コウはこわばった表情で制した。
「深呼吸しないで。この程度の改善じゃ甘い」
あーあ、鬼係長モードだ。
「アンタ、今、小野さんを斬り倒す気満々でしょう。やめなよもう。ちょっとだけお父さんなんでしょ。親には敬意を払わなきゃ」
「えー、そういうもん?」
唇を尖らせる八歳児係長を見て、ため息をつく。
「そうだよ。それより、あたしたちがこれからどうするかを考えよう。あのさ、地上の安全性って、二、三日で分かるもんなの?」
「え、地上の安全性? ああ、そのくらいかかるなあ。でもそれは」
「なんだ。じゃあせっかくだし今から調べてきたら? 二、三日なら、あたし一人でその辺転々として逃げきれるでしょ、多分」
こんな状況で一人になるのなんか怖いに決まっている。だけど、ここまで彼が積み上げてきたもの、しかも下手をしたら東京の未来を変えかねないものを、あたしがいることで壊したくない。
「一人で逃げ回るのって、すごくきついよ。心配でそんな事させられない」
かつて「会社」から一人で逃げてきた人の言う事は重みがある。
「うーん、そっかあ……。ああ、数日でいいから、絶対見つからない隠れ家とかないかなあ。ホテルで連泊したら通報されそうだし、知り合いの家もなあ」
早くも自分がお荷物になっているみたいで、なんだか落ち込む。
「……一箇所、そういう所、知っている。二、三日であればある意味でどこよりも安全だと思う。でもさすがに」
「へえ、いいじゃん。どこ?」
「会社」
は……?
あまりにも意外な場所に、あたしは頭が一瞬ストップした。だが続く彼の話を聞き、あたしはその方法がいいと思った。
そこで、コウが受け入れの打診をすることになった。
「突然のお電話失礼致します。……はい、お陰様で元気にしております。この度はご迷惑をおかけいたしまして申し訳ないことでございます。実はマサキリーダーに折り入ってお願いがございまして……」
マサキさん? なんか、どこかで聞いたな、その名前。
それよりその板電話、S区であんまり堂々と使うもんじゃないよ。さあ盗って下さいって言っているようなもんだもん。
「……ああ、やはり明日になりますか。かしこまりました。突然のお願いにご対応頂きましてありがとうございます。では明日九時に伺うよう伝えますので恐れ入りますがロビーでお待ち頂けますか。どうぞ、くれぐれもよろしくお願いいたします。失礼いたします」
あたしの人生で聞いたことも使ったこともないような言葉遣いの電話が終わった。
「マサキさんっていうリーダーにお願いしたら、大丈夫だって。でも受け入れが出来るのは明日だから、今日はこの辺で一泊して、明日ミキ一人で向かってくれるかな」
「分かった」
明るい声で返事してみたが、コウはまだ躊躇っているようだった。
「もしかしたら物凄く嫌な思いをするかも知んない」
「そりゃまあね。でもあたしがいいって言ってんだから」
こればっかりは否定しようがない。でも、こうするしかないだろう。
あたしはマサキさんという人の下、しばらくの間『管理品』として匿ってもらえることになった。
「ホテル」や「旅館」と呼ばれるような名の知れた宿だと、多分既に警察から連絡が入っていると思うのだが、無許可の簡易宿なら今日くらいならなんとかなるだろう。こういう所は単身で泊まるのが普通なので、あたし一人でチェックインして、後からコウが入ってきた。
案の定、彼は「チェックイン」のシステム自体を知らなかった。
S区の宿なんだから、これでも上等な方だと思う。でも、湿っぽい室内や、本当に洗濯しているのか謎なベッドリネンや、外の騒音丸聞こえの薄い窓は、お世辞にも快適とは言い難い。
簡易宿なのにシャワーがついていたのには驚いたが、そこのカビの生え具合にも驚いた。もう、こういう柄なんだこれは、と言い聞かせて、半分くらい目をつぶってなんとか済ませた。勿論お湯の出具合は不安定だ。
異常に短い時間でシャワーを済ませた――まあ気持ちは分かるよ――コウは、今晩の自分の寝床と決めたらしい固い椅子に座って「管理品」のルールを教えてくれた。
「実験に回されることはないけど、ばれないように他の管理品と同じように振舞ってね。まず『何人いる』じゃなくて『何体ある』。全員戸籍も苗字もない。女性は原則男性に触れてはいけないし、目が合っても笑いかけない。正社員の業務時間中は仕事の話以外は厳禁。ロビーや窓口にいる一般市民に何を言われても言い返さない。何をされても抵抗しない。あまりにひどい場合は抵抗せずに逃げる。室内や廊下は隅を歩く。そして絶対社外に出ない。自分は『人間と同じ機能を持った人間じゃない物』と認識する」
えーとあと何かあったっけ、と指折り数えて淡々と話すコウの姿に、あたしは心底寒気がした。
誰だよこの制度を最初に考えた奴は。そいつこそ「人間じゃない」だろうが。なんで同じ人間なのに、こんな差を作るんだろう。
「管理品」の大半は、恋愛で産まれた子だって言っていた。でもさ、本来、それが生き物として自然なんじゃないの? そんなこと、つい最近まで思いつきもしなかったけどさ。
「もういいよ。気分悪い。二、三日のことだからそういうふうにするけどさ、コウや皆は、生まれたときからそうやって生きてきて、おかしいなって思ったことはないの?」
「ないよ」
当たり前、といった口調で答えられた。言い返そうとあたしが口を開きかけた所に言葉が被さる。
「だって、そんなこと思いついたら、生きていけないでしょ」
その言葉に反論が行き場を失い、口を閉じる。
「俺さ、一応ばかじゃないんだよ、こんなだけど。でも、どうしようもないんだ。いくら逃げても、一般市民のふりをしても、戸籍がないからいずれ社会生活で困ることは出てくるし、現行制度では仕事にも就けない。右腕を見られればそれでおしまいだ。分かっていたけれど、逃げた。第二第三のアイを生ませないために。でも、結局はどうしようもないんだ。『人間』じゃないんだから」
そう言って微笑んだ。
この人は、苦しい時によく笑う。
夜中、目を覚ますと、ベッドの脇でコウが突っ伏して寝ていた。
片手はあたしの手を握っている。寝るとき、怖いからそうしていてくれと言った。
勿論怖いからなんてただの言い訳だ。
人形みたいに端整な顔に長い前髪がかかっている。邪魔そうなのに、なんで伸ばしているのかと思っていたが、多分あのかっちり頭を作るのに必要なんだろう。
つまり、本人が気づいているかは別として、いずれもといた場所に帰ることを前提にしているんだ。
「行かないで」
前髪にそっと手を触れる。
「ずっと一緒にいて」
決して届かない言葉が湿った暗闇に溶ける。
「あなたが好き」
外の喧騒はまだ続いている。
これだけたくさんの人がいるこの東京で、偶然出会ったあたしのもう半分。いずれ離されてしまうであろうその彼の手を握り返し、あたしは再び眠りについた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます