6.別れよう

 もしかして、竹田さんが通報した? いや、今はそんなことはどうでもいい。


「コウ」


 キッチンにはもういない。食器は全て棚の中に収納されていた。


「来たか……。せっかく、もう少しだったのに」


 振り返ると、コウが立っていた。


「仕方ない。ミキ、俺の事引き渡して」


 ……はい?


「前も話したよね。俺が脅迫して居座ったってことにして、警察に引き渡して」


 全く、こいつは……。


「アンタがそこまでばかだとは思わなかった」


 思い切りコウを睨み付ける。


 何考えているの? あたしがそんなことするわけないじゃない。あたしの何を見てそんなことを言うの?

 あたしは、あなたがこんなに好きなのに。


 ひっぱたいて語ってやろうかと思ったが時間がない。あたしはお父さんの部屋からコウの荷物を引っ張り出し、続いてあたしの部屋から鞄を持ってきた。


「逃げるよ。裏口から」


 コウは自分の荷物を手に取り、あたしの鞄に目をとめた。


「ミキ何その鞄」

「お父さんの形見」


 そんなことを訊いているわけじゃないのは知っている。あたしはコウの腕を強引に引っ張って裏口に向かった。


「ミキ、ちょ……」

「あたし、空を見たい」


 裏口には誰もいなかった。そのままそっと抜け出し、路地裏に入る。玄関の方では警察と上野君のやりとりがまだ続いていた。


「これ以上罪を重ねたら」

「あたしも一緒に逃げる」


 握った手に力を入れる。


「あたしはね、自分の『運命のもう半分』の手を離したりしないんだから」




 平日の昼下がり。路地裏にはあまり人が通らない。あたしは自分の家から充分離れた事を確認すると、コウの手を離した。


「ミキ」


 コウの話し方は静かだったが、声の裏に激しい感情の揺れが見える。


「こんなことしたら、もう言い訳出来なくなるよ」

「知っているよ」


 コウは黙ってあたしに背を向けた。


「運命の、って……前田さん達から、話、聞いたんだね」

「それは、うん、まあ。だからどう、っていうのは正直よく分かんなかったけれど。途中で警察が来たし」


 そう答えたあたしに背を向けたまま、話しかける。

 こわばった、冷たい声で。


「そうだよ。だからどうっていうものじゃないんだ。いくら相性が良くたって、どうにもならない。元部下が変なこと調べたのは俺の方から謝ります。あんなもの、忘れて」


 少しこちらを振り向き、寂しげな笑みを浮かべる。


「もし俺が捕まるのが嫌だって思ってくれているんなら、こうしてもらおうかな。放浪癖のある『ヒカル』は家を出ていった。ミキは今、散歩から帰ってきた。部屋の中の機械は『会社』のものだから何も知らない、って。ね。そうしよう」


 頭を下げる。


「今まで本当にありがとう。感謝してもしきれない。でもさ、もうここで別れよう」


 別れよう。

 それはこれから先永遠に、ってこと?

 ふざけんな。あたしの気持ちはどうなるのよ。


「やだ。あたしが帰ったらそのまま戻らないつもりでしょ。あのね、前田さん達の話は関係ないの。あたしはただコウを離したくないし、一緒に空が見たいの」


 ああ、どうしよう。別れたくないあまり、口を滑らせそうだ。

 好きだって。ずっと一緒にいたいんだって。

 でもそんなことを言ったら、彼の心を縛ってしまう。あたし以外のところにある、彼の心を。

 どうやって、気持ちを隠して気持ちを伝えられる?


「あたしね、前に『俺を頼って欲しい』って云われたとき、凄く嬉しかったの」


 誰もいないが、念のため声をひそめながら話しかける。


「お父さんはいないし、竹田さんはあんなだし、一人で立って生きるのに、本当は疲れていたの。コウが誰かを好きなのは知ってる。でもさ、せめて、あたしと一緒に空を見て。天井のない空を見て不安にならないように、あたしと一緒にいて」


 ああだめだ。気持ちが溢れそうだ。冷静に。冷静に。


「もし、コウが前に言っていた、一生愛し続けるって言っていた人に気持ちが伝わったら、それはしょうがないけどさ。でも、せめてそれまでは、頼らせて。何して欲しいわけじゃない。そばにいて」


 どうかな。これなら縛り過ぎないかな。好き言わずに、好きだと伝わったかな。

 本心じゃないけど。本当は、コウの好きな人と真っ向勝負を挑んででも離さないつもりなんだけれど、今はそんなことを言っている場合じゃない。


 コウは何かを考えているようだった。しばらく下を向いて黙り込み、呟く。


「気持ちが伝わる……」


 そして少し乾いた笑いを漏らした後、あたしを見据えた。


「そうだね。逃げて責任取った気になっちゃいけないよね。ごめん……。できうる限りの手段を使ってミキを守るよ」


 何かに耐えるように唇を噛む。


「でも、嫌な思いとか、させるかもしれないけど。今までの生活を壊しちゃうけど」

「今までの生活が大事だったら、そもそもこんな得体の知れないガキを匿ったりしないよ」


 あたしの言葉にコウは少し笑った。


「得体は知れなかったかもしんないけどガキじゃないもん。俺十八だもん」


 え、ちょっと待て。何アンタいつの間に歳食ってんのよ。




 何かが吹っ切れたのか、コウはあたしの手を握って歩き出した。


「コウ、行くあてあるの?」

「ううん。このまま『外』に出る計画を続行しようと思っていたんだけど、さすがにミキをすぐには連れていけないし……」

「地上。いいじゃん。あたしがいちゃ何が問題なの?」

「大丈夫だとは思うけど、一応大気汚染とか心配だもん」


 こんな状況になってまで、地上に出る気だったのか。

 地下は、そんなに深刻な状態なのか。

 もしそうならば、あたしにできることはなんだろう。


「とりあえずS区に行ってみようと思う。そこに出口があるから」

「分かった……あ、ちょっと待って」


 あたしは最近持ち歩くようになった護身用の小さなナイフを取り出した。警察から逃げるならこのくらいの覚悟は必要だよね。


「……あたし、本当に取り柄ゼロになっちゃうな」


 ここまで伸ばすのに三年かかったけど。

 あたしの唯一の自慢だけど。

 もうコウに、触れてもらえなくなるけど。

 ひっつめていた長い黒髪をほどき、ぐっと掴む。そして一度息を吸い、ナイフで髪を一気に切り落とした。


「ミキ、何を……!」


 目を見開き息を呑むコウに向かって、自慢だった髪の束を突きだし、にっこり笑ってみせる。


「こんな、いいとこなしのあたしだけど、よろしくね」


 彼は髪の束とあたしの顔をしばらく交互に見た。


「ごめんね……。でも、いいとこなしなんかじゃないよ」


 ばさばさの短い髪に触れる。

 抱き締めて髪を撫でるような優しさで。


「ミキは、きれいだよ」

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