4.あなたがいれば一人でいい

 複雑に編み込まれた、長く豊かなアッシュブラウンの髪。儚げでたおやかで、あたしとは正反対の上品で美しい女性が、こちらを見て柔らかに微笑んでいる。


 ――アイさん。


 やっぱり、そうだったんだ。

 彼女こそ、「魂を奪われる程の美しさ」という言葉が相応しい。あれは、彼女への言葉だったんだ。


 ――クローンなんて、そりゃ嘘ですよね。


 あたしの問い掛けに軽く頷く。

 華奢な体に合わない、ふっくらとしたお腹を愛おしげにさすりながら。


 ――いやー、参りました。すみません。お幸せに。


 そう言うしかない。完敗だ。

 あたしにはあたしに相応しい人がいる。

 戦後科学の粋だの、十代で整備医や係長になっちゃうだの、そんなふざけた奴はあたしには相応しくない。

 生活水準と知力が同じくらいで、遺伝子の相性が標準以上の……。


 ――ミキちゃん。


 貼りついたような穏やかな笑顔。


 ――ミキちゃん。


 ぎしぎしと軋みながら低い唸り声をあげる銀色の背骨。


 ――君は僕だけを見ていればいいんだ。


 あたしの体を締め上げる腕。

 苦しい。痛い。息が出来ない。腕の力はどんどん増す。

 殺される。助けて。あたし苦しいよ。痛いよ。お願い助けて。

 助け……。


 あぁ、そうか。

 あたしを守ってくれていた人は、もう、行ってしまったんだ……。




 声にならない叫び声を上げてあたしは目を覚ました。

 まだ夜中だ。全身ぐっしょりと汗をかいている。

 まただ。またこの夢。あの日から何回見ただろう。

 同じ夢を。あたしが恐れることを凝縮した夢を。


「ミキ」


 壁越しに、優しい低い声が聞こえる。


「どうしたの。また夢?」

「うん……」


 もうやだ。なにもかもうまくいかない。


 あたしの婚約解消の申請は受理されなかった。竹田さんが不服の申し立てをしたからだ。

 彼は機械使用時の記憶がない。違法改造をしただけというなら、たいした罪じゃない。だから状況は何一つ変わらない。


 コウも含め、「会社」の人達が何を企んでいるのかも分からない。あたしの血を採り、あたしの家でわけのわからない機械をいじって、何をしようというの。


 でもなによりもいちばん嫌なのは、コウの考えていることが分からない事だ。

 あれだけ竹田さんに罵倒され大立ち回りを演じたというのに、婚約解消の話をしたとき、ちょっとびっくりするくらい強硬に反対された。

 あれは錯乱していたんだ、もうちょっと考えようと。これはかなりショックだった。


 誰かに強く想いを寄せていることは知っているが、その人の話も一切出てこない。小野さんの予想――想い人があたしだというもの――は多分違う。これだけ同居が続いているのに、そんなそぶりは全く見せない。そのくせきれいだ女神だなどという歯の浮くような台詞は毎日言う。


 もうやだ。今日も眠れない。


 あたしは隣の部屋のドアをノックして開けた。机に向かって機械――書籍端末に文字盤がついたような機械だ――をいじっていたコウは、驚いたような顔をした。


「どうしたの?」

「眠れないの」


 少し困ったような表情を浮かべる。そりゃそうだよね。そう言われてもどうにもならないもん。あたしはコウがいつも使っているベッドを指さす。


「ここで寝てもいい?」


 嫌がって文句を言われるかと思っていたが、彼は少し首をかしげて、あっさり頷いた。


「いいよ。俺ここで作業しているから、うるさいかも知んないけど」


 そして知らない国の言葉で書かれた資料を読み出す。

 そういえば小さい頃、怖い夢を見たと云って、このお父さんのベッドにもぐり込んだことがあったな。

 あたし、成長しないなあ。




「ねえ、何しているの?」


 答えが聞きたい訳じゃなくて声が聞きたくて言ってみた。


「んー……外に出られるか考えている」


 そうですか。外なんか毎日ふらふらしているじゃない。

 相変わらず何が言いたいのか全く分からない。


「外国じゃ結構出ているんだよね。ほら」


 ほらと言われて外国語の書かれた紙の束を見せられても。


「だから俺、明日から何日か、ここ出ていくから」


 え? 何突然。


 今、何を言われたのか頭の中を整理しようと起き上がった時、枕元に置いていた電話が鳴った。

 前田さんからだ。なんで夜三時にわざわざ。人に電話かける時間じゃないよね。


「はい、北山……」

『北山さん! 君、運命を信じるかい!?』

「……はい?」


 何、夜中にいきなり。仕事がつらくて変な宗教にでもかぶれたんだろうか。


『俺は今さっき信じたよ! こうなる運命だったんだ!』

「えっと……。前田さん、あたし宗教なら間に合っています」

『あ……。ごめん、違うよ。あのさ、どうせ起きていると思うけど、居候さん、今電話出られるかな』

「代わりますね。……コウ、前田さんから電話だよ」


 あたしは深く考えずにそう言って電話を手渡した。


「代わりました。どうしましたか……え」


 コウはあたしの方を見て困ったような顔をした。


「ああ、まあ……呼び捨てですが」


 あ、しまった。小野さんならともかく元部下の前であの電話の渡し方はまずかったな。


「彼女なら大丈夫です。はい。今、私の部屋のベッドで寝ているんです」


 ばばば、ばかー! 

 「アイさん」の時といい、あんたはいつも説明の仕方が悪すぎるんだよ!


 案の定、前田さんに色々追及されているのか、「いえ違います、誤解です。いいですから用件を話してください」と額に汗を浮かべてしどろもどろになっている。鬼係長の威厳形無しだ。


 部屋の外に出て話をしているが、声は丸聞こえだ。話の内容自体は分からないが。


「……なんでそんなこと思いついたんですか。そんな事を言われたらミキだって困りま……あ、ミキじゃない北山さん。無断でそんなことしちゃ……してはいけません。……俺!? 俺のことは言いません。とにかく、こんな話ミキじゃなくて北山さんにしないで下さい」


 電話が終わって部屋に戻ったコウは赤紫色に変色していた。顔から頭から大量の汗を噴き出している。


「ねえ、今口調がおかしかったけど、いいの?」

「えっ」

「背伸びした八歳児みたいだったよ。自分の事だっていつも『わたくし』なのに『俺』になっていたよ」

「……もういいもん」


 電話をあたしに返し、機械と資料をがたがたと動かして部屋から出ようとしていた。

 さっき電話で何言われたんだろう。


「あ、ちょっと待って、さっき『ここ出て行く』って」

「え、ああ、うん。明日の夕方ごろから。でね、数日したらまたここに戻りたいんだけれど、いいかな」

「勿論だよ」


 あたしの答えに顔を上げ、少しだけ目を合わせて微笑むと、部屋から出て行った。




 あぁ、びっくりした。数日か。ずっと出ていくわけじゃないんだ。

 いなくなるのは寂しいけれど、戻ってくるつもりがあるなら待っていよう。

 そしてその間、捕まらないよう、無事に戻れるよう祈っていよう。

 あたしにはそれしかできない。


  そうだ、婚約解消、やっぱり裁判にかけよう。

 結婚なんかしたくない。どんなに世間の目が変わろうと、将来が不安だろうと、やっぱり無理。

 たとえ叶わない片思いでも、あたしにはコウがいる。


 彼がいれば、彼への想いがあれば、それだけであたしは一生一人でいい。


 布団にもぐりこみ目をつぶる。

 布団には、少しだけコウの気配が残っている。その微かな気配に包まれているだけで、あたしはなんだか安心して、久しぶりに深い眠りについた。




 あまりにぐっすり眠っていたものだから、前田さんの電話に気づかなかった。

 前田さんは電話にメッセージを残していた。


 ――こんな時間にすみません。今日の昼休みの時間に電話下さい。昼休みは十二時十五分から十三時です。運命です。では待っています。

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