2.疑われる
家に帰ったが、コウはいない。彼は今日、上野君の家で近所のちびっこ達に勉強を教えるそうだ。
この辺の子供は義務教育すら受けないことも多いのに、何をどう教えているんだろう。
一人だけだと、この家は案外広い。そして静かだ。
この感覚、随分久しぶりのような気がする。次のお客さんが来るまで少し時間があるから、何しようかな。
そうだ、化粧でもしてみるか。
あたしくらいの歳で素顔でうろうろしている女性は珍しい。分かってはいるけれど、面倒だし、不器用だし、描いてどうなる顔でもないので、いつもほったらかしだ。
でも今日はスカートも穿いているし、髪も編んでいるし、多少はきれいになるかもしれない……。
「……だよね」
あたしの淡い期待は、鏡の映す現実の前に打ち砕かれた。
大きすぎる目に地味な鼻と口。貧相な体型に棒みたいな脚。腕は左右で太さが全然違う。
少なくとも「魂を奪われる程の美しさ」では、決して、ない。
どうしてコウは、あたしの事をあんなに誉めまくるんだろう。きれいで優しくて聡明なんて、それ全部自分の事じゃないか。あんなのに言われたって、信じられる訳がないし。
やっぱり女性全てにあの調子なのかな。きっとそうだよね。だってあたしなんか、どうせ……。
「あ、ごめんなさい、今開けますね!」
ぐだぐだくだらない事を考えていたので、呼鈴の音に気付かなかった。あたし本当に最低だ。無意味な嫉妬の次は
「小山さん、予約の時間まだだけど……」
だが、そこに立っていたのは予約のお客さんではなかった。
「やあミキちゃん。君の家に来るのは初めてだよね」
杖をつき、襟の高いぶかぶかのシャツを着た、痩せた姿。
穏やかそうな笑顔。
しかしその顔に貼りついた笑顔は偽物だ。
「今日、ミキちゃんが会社の近くにいるのを偶然見かけてね。せっかくだから少しお邪魔するよ」
そう言いながら、あたしの返事も聞かずに家の中に入って来た。
「女性の一人暮らしの割には随分と殺風景だね」
そんなことを言いながら勝手に部屋のドアを開ける。
何しに来たのかは嫌というほど分かっている。「管理品」や「会社の人」の痕跡を漁っているのだ。
心臓がどくどくと嫌な音を立て、掌が冷たくなる。
痕跡なんて、いくらでもある。だってここに住んでいるんだもん。
ただの同居だが、そんな言い訳通用するわけがないし、同居だけでも立派な犯罪だ。
もうすぐあたしは、管理品蔵匿罪と不貞で裁かれ、世間から糾弾される。
そうだ、コウ。帰ってきたらまずい。
今見つかったらどうにもならない。あたしはともかく、コウにはなんとしても逃げてもらわなきゃ。
何か伝える手段はないか、なにか……。
その時、ポケットの中の電話に気がついた。
そうだこれ!
あたしは竹田さんの背後に回ってコウに発信する。
気がつくかな、うまくいくかな、帰って来ないで、お願い……。
「竹田さん、そこはあたしの部屋です。何もないです。さっきからなんで家の中見て回っているんですか」
ポケットの中で電話がコウにつながった気配がしたので、あたしは少し大きな声で言ってみた。
今、竹田さんが家にいるよ。早く逃げて。捕まらないで。
「『管理品』を匿ったり、『会社』の若い男達と食事をしたりする婚約者のことが心配だからだよ。なんだい今日は、随分とめかしこんで。誰が目当てだ。あの偉そうな背の高い男か。あいつも見た目はいいもんね。ミキちゃんは随分と面食いだね」
心配、じゃなくて信用していない、でしょ。偉そうな背の高い男って、多分前田さんの事を言っているんだろうけど、めかしこんでいるのは、普段着じゃああいう店は入れてくれないからってだけだ。しかも面食いって。誰が前田さん目当てって言ったよ。
ふざけるな。あたしが好きなのは一人だけだ。
竹田さんはあたしの部屋にずかずかと入り込む。
自分の部屋をいきなり見られるのなんか嫌だよ。恥ずかしい。なんて奴だ、こいつは。
「本当に殺風景だね」
うるさいな、ほっとけよ。
「次はここ」
あたしの部屋を見渡して何もないことを確認し、隣のお父さんの部屋のドアを開けた。
「やだ、そこは……」
そこはコウが使っている。痕跡どころの騒ぎじゃない。
どうしよう、もうだめだ。
こっそりポケットの中の電話を覗いてみる。通話は切れていた。さっきの声、ちゃんと届いていたか分からない。
あたしはもうおしまいだ。だからお願い、せめて、あなたはここへ帰って来ないで……。
「お父さんの部屋か」
竹田さんは杖を持ち替え、入り込んだ。
お父さんの部屋には、例の機器類や資料が机の上に載っている。何の機械なのか見当もつかない。識別コードは全て削り取られていた。
「これ、この間ミキちゃんが持っていた荷物だね。この紙も?」
「そうです……」
竹田さんは紙の束に目をやったが、すぐに見るのをやめた。
うん、だろうね。全て外国語だもん。しかも色んな国の言葉。
「なんでこんなもの預けたんだろうね。邪魔だねぇ」
とりあえず以前預かった荷物は不貞とは無関係だ、ということは納得したらしい。
竹田さんは部屋を見渡し、机やベッドを触ったりした。棚を見上げ、床に目をやる。
あたしはぎゅっと目をつぶる。
「お父さんの思い出があるのかな。じゃあこれ以上いじっちゃいけないか」
そう言ってそのまま部屋を出てリビングに向かった。
あたしは力が一気に抜け、床に座り込みそうになった。
お父さんの部屋には、コウの痕跡が全く見られなかった。
ベッドはずっと使っていないかのようにきちんと整えられ、机の上の機器類以外、余計なものが一切ない。棚や洋服掛けにあるのもお父さんのものだけだ。
そういえばコウは、普段から使ったものは細かく手をかけてしまい込んでいた。歯ブラシや剃刀なんかは使った後丁寧に拭いて棚の奥の取り出しにくそうな所にしまう。あたしはそれを几帳面な性格だからだと思っていたが、もしかしたらこういう状況になったときのためだったのかもしれない。
前に新しい洋服を買おうとした時もいらないと言っていたが、多分理由は同じだろう。
自分がいないことにするために。
そして多分、いつでもいなくなれるように。
「さっきの『会社』の人達、あれ総合職でしょ。若くても凄い給料貰っているんでしょ。いいの捕まえたね。僕なんかつまらないだろ」
あんたがつまらないのは最初からだよ。それに総合職は余計な出費が多い上に一般職と違って残業手当がないから、未だに貯金がゼロだって佐々木さんが言っていた。それでも皆、鬼上司に泣かされながら頑張っている。
そんなことも知らないで、羨んで妬んであたしに嫌味言って、何が楽しいわけ?
もっともあたしだって、勝手に嫉妬して僻んで苦しんでいるんだけどさ。
「でも頭の出来なら僕だってそのうち彼らを追い越すよ。さっきの書類だってすぐ読めるようになる。『会社』の人間の知力くらいすぐさ。なんならミキちゃんの好きな整備医にもなってみせる」
あたしと同じで上級学校に二年しか通っていないあんたが何言ってんの?
どうしちゃったの竹田さん。こんな変な人じゃなかったのに。
「僕は自分を機械で変えることに抵抗がないんだよ。機械さえあれば僕だって強くなれる。頭も良くなれる。顔なんかいくらでも作り直せる。ほら、こんなの見たことないでしょう」
その時、家の前でちびっこ達が「ヒカルまたなー!」と叫んでいるのが聞こえた。
なんで帰ってきたの!?
けれども「じゃあね」の声もドアを開ける音もしない。聞き間違いだったのか。
竹田さんの方に向き直ると、杖を投げ捨て、シャツのボタンに手をかけていた。右手には何かリモコンらしきものを持っている。
「何……?」
シャツを脱ぎ捨てる。土気色をした肋骨の浮いた体が露わになる。竹田さんは貼りついたような穏やかな笑みを浮かべた。
「そんな顔しなくても。見て欲しいのはこっちじゃなくて後ろ」
そう言って自慢げに後ろを向いた。
……何、これ。
こんなの見たことない。だって、前はこんなのなかったじゃない。
どうして。真面目なはずの竹田さんが、どうしてこんなものに手を出したの?
竹田さんの首の後ろから腰までの背骨全体に、まるで巨大な銀色の背骨を張り付けたかのような機械が取り付けられていた。
銀色の背骨から細いコードが飛び出し、首筋に繋がっている。
違法改造だ。しかも……。
「不調な内臓を人並みに動かすだけじゃ強くなれないでしょ。一般用の機械じゃ頭は良くならないでしょ」
前を向き、右手に握ったリモコンを操作する。途端に竹田さんの背中が低い呻り声を上げる。
「だってお前は弱いから。強くて賢い奴に簡単になびくから」
竹田さんの声が高くなる。聞いたことのない早口で。
「僕は弱くない。頭だってすぐ良くなる。痛いよ、痛いよ、だけど僕だって強くなれる」
竹田さんの顔から血色が失われている。
もうやめて。これ絶対危険だ。もう動かしちゃだめ。
「ほらもう杖がなくても歩ける。どうだいすごいだろう! ぼくだってなんだってできるんだからおまえはぼくだけみていればいいんだ!」
腕の筋肉が痙攣している。だめだ、これ、なんでこんなもの!
「竹田さん! 何よこれ、違法改造!? だめだよこんなもの、やめてお願い、今すぐ止めて!」
あたしの叫びを無視して竹田さんは前を向いてこっちに走ってきた。
「ミキちゃん……」
違法改造。
でもこんな機械全体が外についているのなんか見たことない。
それに脳をいじる機械は使っちゃいけないって聞いた。
リスクが高すぎるから。
簡単に脳が破壊され、二度と戻らなくなるから。
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