最終話 エスプレッソ
もぞっ。俺の隣で寝返りを打った小菜が、いきなり金切り声を上げた。
「ええーっ? うそおっ! ちょっ、正ちゃん、時間っ! ヤバいーっ!」
「げげえっ!」
いつまでも甘ったるくいちゃついていたかったけど、朝はそんなに甘くなかった。まるで火事になったラブホから焼け出されたみたいに、素っ裸の俺たちはベッドから転がり落ちて、そのままトイレとドレッサーに直行。
「小菜っ! 俺のことはいいから先行けっ! 先ーっ!」
「分かったっ! ありがとーっ!」
とりあえず服だけは着たーみたいな勢いで、ドアを蹴破るようにして小菜が飛び出していった。俺も超特急で身繕いして、同じ勢いで部屋を飛び出す。飯なんか後でいい。どうせ外回りの時に補充しないと、昼まで保たないし。
「うおおおりゃあああっ!」
髪を振り乱しながら、駅まで全速力で走る。朝っぱらから無駄なエネルギー使って、なにやってんだか。自分でもバカみたいだと思いながら。それでも顔はにやけてくる。
「へへへっ」
◇ ◇ ◇
人生の分岐点になった、あの海岸での宣言。俺はキセロスの同情を買うつもりであんな宣言をしたんじゃない。まだ何も始まっていないのに、一方的に終わりにされてしまうこと。他のことは何とか許容出来ても、それだけは絶対に我慢ならなかったんだ。
俺は、自分の身にかけられた呪いを知らなかった。だから、それが自力で解けないことは仕方ないと思えるさ。でも小菜は違う! あいつの呪いは、あいつが自分でかけたんだ。それを解くのは小菜自身にしか出来ないんだよ。そして、あいつが俺に呪いを解くのを手伝ってくれって言うなら。それなら俺にも出来るんだよ。俺があいつの身代わりにならなくてもね。すぐそこに、すぐ目の前に可能性っていうすげえ宝石が転がってるのに、それをぶん投げてくたばるやつがいるか? いないだろうが! 冗談じゃないっ!
命懸けで掴み取ったチャンスは、絶対に逃がしたくない。俺は小菜の新しいスタートをサポートするため、即座に行動を起こした。それは拙速で違和感まみれに見えるかもしれないけど、俺は周りの雑音を一切気にしなかった。
まず。俺は小菜との交際をすぐオープンにした。なぜか。小菜の訓練が進んでタメ口がましになった途端に、男どもがわらわら群がってくるのが見え見えだったからだ。まだ悪評ふんぷんで、あんなゲテものに手を出すのか物好きなと思われているうちにさっさと既成事実にしちまった方が、あとあと楽なんだよ。
理由はもう一つある。羽田さんに対してきちんとけじめを付けたかったからだ。いくら仕事の重圧で追い詰められていたからって、逃げ込むためだけに俺にアプローチしたってことじゃないと思う。だから俺がきちんとピリオドを打つことで、羽田さんに気持ちを切り替えて欲しかったんだ。
最初のうちは奇異の目で見られていた俺たちだったけど、小菜の配属から一ヶ月経って俺があいつの世話役から外された頃には、誰も俺たちに突っ込みを入れなくなった。そらそうさ。俺や小菜も含めて、与太を飛ばすような余裕が全くなくなったんだ。人事が激しく動いたからね。
結局羽田さんは、まだまだ未熟ですからと主任の打診をやんわり断った。それを受けて、海老原部長は次善の策として温めていたらしい人事を決行した。お飾りだった浜田主任を管理課付けに動かし、ベテランの恵比寿さんを主任に据えた。そして、新しい課長は親会社から
プロパーのポストが
着任した
課長と主任の交代は喜ばしいことだと思うんだけど。新課長就任とほぼ同時に、河岸が突然社を辞めてしまった。あいつのすちゃらかにはとことん手を焼いたけど、同期で三年一緒にやってきたやつが、何の相談も挨拶もなしに突然消えたのは本当に寂しかった。
あいつのリタイアは、羽田さんの脅しのせいじゃないね。それ以前にもう自分への強い逆風を感じ取っていたんだろう。羽田さんの爆撃はそれを確定しただけ。皮肉なことだと思うけど、河岸にとっては出来の悪い小菜が安全柵になってたと思う。俺はあいつよりずっとマシだってね。でも、がんばった小菜がぐんぐん評価を上げたから、あいつは小菜に代わって崖っぷちに立っちまったんだ。
あいつが、逆風を押し返そうと考えられなかったことはとても残念だ。でも事実として、それぞれのキャパに見合う分しか仕事は出来ないと思う。重圧に押し潰される前に逃げたあいつの選択を責めるのは酷かもしれない。あの羽田さんですら、プレッシャーに耐えかねて辞めると口走ったんだから。
俺の隣に突然ぽっかりと空いてしまった席。でも、そこは別のピースですぐに埋まった。そう、なんと小菜が岩瀬さんを直接口説いて、うちに引っ張ってきたんだ。意欲が空回りして孤立無援だった岩瀬さんにとっては、女性の営業職員が活躍しているうちへの転職は渡りに船。うちの社にとっても、すでに実績がある若い人材の獲得はコスパ抜群だ。羽田さんは、小菜の説得手腕を大いに褒め称えた。
もっとも、小菜にはちゃんと計算があったと思う。岩瀬さんはすごくパワフルだけど、緻密さや気配りが足りない。大雑把で、まだまだ穴がいっぱいあるんだ。その欠点はみんなにちゃんと見えるから、小菜だけがスーパーウーマンの羽田さんと比較される息苦しさをうんと減らせる。俺と河岸がそうだったように、ぴよぴよ同士一緒にがんばろうよって言えるだろうし。
きちんと段取りを仕切ってくれる恵比寿さんが主任に就き、仕事がてきぱきこなせる岩瀬さんがスタッフに加わったことで、羽田さん一人が何もかも背負い込む必要がなくなった。
羽田さんは相変わらずばりばり仕事してるけど、オンオフの切り替えがはっきりしてきた。定時に帰る日が増えて、普段の会話にも婚活のネタがばんばん出てくる。なんか、ずいぶんこなれたなあと思う。元々もてて当たり前の人なんだ。心の余裕さえゲット出来れば、すぐにお相手が見つかるだろう。いや、もういるのかもしれないな。ここんとこ、妙に機嫌がいいからね。
そして、小菜。
仕事に慣れて表情がすごく明るくなった小菜だけど、未だにタメ口のぽかがぽろぽろ出て、羽田さんや恵比寿さんに怒られてる。それでも、外回りの時にはお客さん相手に手帳のガードなしでしっかり受け答えしているし、まだぎごちないけど笑顔で応対出来るようになった。配属当初のことを考えれば別人だと言ってもいいだろう。感情が見えにくいところはあまり変わってないけど、昼は羽田さんや岩瀬さんと賑やかに女子メシを展開してる。その光景を見て、心底ほっとする。
俺は、小菜の全面サポートをするつもりだよ。でも、俺に逃げ込んで扉を閉めちまうのはまずいんだよ。それじゃあ呪いが解けない。小菜自身の力で、きちんと自分を解き放って欲しいからね。
◇ ◇ ◇
職場の雰囲気ががらっと変わって、俺も小菜もやる気を真っ当に使えるようになった。もっとも、新体制で全てが快適になったってことでもないんだけどね。だって、課長も主任もちゃんと成果を求めてくる。今まで全部自己申告に任されていたノルマの設定は課全体としての数値目標になり、進捗を逐次チェックされるようになった。細貝課長の頃がうすーく淹れただぶだぶのインスタントコーヒーだったとすれば、安食課長の方針は本格エスプレッソ。おいしいけど、かーなり苦い。
でもさ、もともとそれが当たり前なんだよ。今までうやむやになっていたところが、クリアになったっていうだけ。少なくとも俺には、新体制になって負担が増えたというげんなり感はない。むしろ逆。俺にだけ恐ろしい勢いで落ちてきていた雑用は、他の人にもちゃんと振り分けてもらえるようになった。羽田さんだけでなく俺にも、いろいろなプランを考えたり試したりする余裕が出来たんだ。本当にほっとする。
一連の人事絡みのごたごたが収まって、俺と小菜の仕事が軌道に乗ったところで、俺たちは同棲を始めた。俺たちとしては、もう籍を入れてもいいかなーと思ったんだけどさ。でも、それを少しだけ待つことにしたんだ。
入籍をペンディングにした理由は、二つある。
一つ目。うちの社は社内恋愛禁止じゃないけど、歓迎もされてない。技術畑の人が多くて総じて地味だから、不倫だなんだっていうトラブルは少ないみたいだけど、社員同士の結婚は公私混同の温床になりやすいと思われてる。だから同じ課の社員同士で夫婦になった場合は、どちらかが別の課や営業所に異動しないとならないんだよね。でも俺は、小菜がもう少し落ち着くまでは同室にいて、あいつの精神安定剤になってやりたかったんだ。
二つ目。小菜には今でもまだ専務の娘という前置詞が付いてて、そいつが本人とは関係のないところで厄介事をばらまいてる。結婚すれば、そのとばっちりが俺にまで飛んでくるんだよ。おまえ、逆玉狙ったんだろってね。そんなのは百害あって一利なし。だから、専務が退職して社内での影響力が消えるまでは入籍を我慢しよう。小菜と話し合って、そう決めた。
それでも、単なる恋人同士の域を超えて同棲にまで踏み込んだのは、小菜を実家から引っ張り出して親父さんとの距離を強制的に空けるため。父親の顔を見るたびに心に蓋が被さってしまう状況を一刻も早く解消しないと、いつまで経っても呪いが解けない。すごく悲しいことだとは思うけど、ずっと娘への
お試しではなくゴールを見据えての同棲だから、そこには『婚約』の文字がくっ付いてる。ちょっとやってみて、だめだったら別れようっていう生半可なものじゃないんだ。だから、最初はすっごい緊張した。平然とカレシカノジョのことをのろけられるやつの心臓には、ふさふさ毛が生えてるんじゃないかって思うくらいにね。
それでも、一昨日よりは昨日、昨日よりは今日。俺の目の前で小菜の扉が少しずつ開いて、きらきら光る中身が見えてくる。俺はそれを毎日確かめるのが、楽しくて楽しくて仕方なかったんだ。
「へへへっ」
ああ、いかん。顔がにやけちまう。遅刻しそうだってのに、ひぃはぁひぃ。
◇ ◇ ◇
年が明けて、四月初旬。俺の実家に向かう電車の中。肩を落とした小菜が、何度もでっかい溜息をついていた。
「はーあああ」
「ははは。しゃあないさ。こればっかはね」
「うん」
レギュラーの人事異動がオープンになった。藻原専務は加直テクノスを退社し、親会社である加直工機の関西支社顧問として大阪に出向することになった。それに合わせて俺らも正式に籍を入れたから、当然同室ってわけには行かなくなる。俺は営業一課から、階下の営業二課に配置換えになった。
「年回りを考えたら、普通でも異動がありうるんだよね。通うのが大変になる遠くの営業所に行かされるよりは、ずっとマシさ」
「うー、そうだよね」
不器用な小菜らしく気持ちの整理には時間がかかったけど、同じ社屋内には居るんだし割り切るしかないかあと、なんとか変化を受け入れることが出来たみたい。
「さて、行くか」
「うん!」
電車を降りた俺らは、潮の匂いを胸いっぱい吸い込みながら、浜沿いにある俺の実家に向かって駆け出した。
俺らは籍を入れたけど、式は挙げなかった。記念写真を撮っただけ。ウエディングドレスも白無垢も小菜によく似合ってて、撮影の時に見惚れちまった。だから本当は、結婚式を挙げて小菜の晴れ姿を専務にも見せてあげたかった。でも小菜は、式で父親が隣に立つことを絶対に許さないだろう。小菜と専務の間の心の溝は、たぶん生涯埋まることはないと思う。それなら、互いの心に汚い波風が立たない距離まで静かに遠ざかるしかない。傷が癒えていない小菜の心情は、俺が察してあげないとさ。
俺の実家には二人でもう何度も来てたから、改めて挨拶っていう必要もないし、籍入れたよーっていう報告だけするつもりだった。そして親との雑談をさらっと切り上げた俺らは、揃って海岸に出た。
まだ冬の気配をどこかに残している浅葱色の海。俺たちは波打ち際まで歩み寄って、持っていった三つの花束を寄せ返す波に浮かべた。
「……」
「……」
小菜を置いて海に身を投じてしまった小菜の母親。その道連れになったお兄さんたちは、本当に無念だったろうなと思う。キセロスがすでに受け取ったと言った三体の供物は、きっと小菜の母親と二人のお兄さんのことなんだろう。
専務にひどく裏切られたお母さんの怒りや悲しみは、すごく理解出来るよ。でも、心の亀裂は修理出来るんだ。自分や家族の命であがなわなくてもね。だから理解は出来るけど、同情は出来ない。絶対に出来ない。俺はその
俺は小菜が好きだし、その『好き』っていうのをもっと丁寧に言い表すなら『愛してる』ってことになるんだろう。でも、俺の中では好きよりも愛してるよりも重い言葉がある。
『俺たちが俺たちらしく生きること。互いに支配したりされたりしないこと』
それさえ最期まで守れれば、俺たちの幸福はずっと保証されていると思う。だから小菜は、俺に対してだけは遠慮なくタメ口を利いて欲しい。これから先も、ずーっとずーっと。俺は、あーあしゃあねえなあといつでも笑って受け止めるからさ。
波間に見え隠れしていた花束は、いつの間にか海のどこかに引き取られた。まるでそれが供物であるかのように。広い海原を見回した俺は、手を合わせて心から祈る。母親の道連れになったお兄さんたちが、今度こそ自分の生き方を自分で選べますように、と。
俺の隣で同じように手を合わせていた小菜の顔が、急に強張った。
「ん? どした?」
「あ、あれ……」
小菜が震える手で指差した先には、あの時と同じ格好をした老人が。長い杖を手にして、ゆっくりこっちに近付いてくる。小菜が、慌てて俺の背中に隠れた。
「タダシ。久しいのう」
「ええ」
「婚儀は終わったのか?」
「終わりました。僕らはもう夫婦です」
「ははは。それはよかったのう」
「そちらは?」
「婚儀は無事執り行われた。もっとも」
「ええ」
「パルケロスには浮気癖があるからのう。娘は……アイフェはきっと苦労するじゃろうて」
どてえっ! 俺も小菜も、思いっ切りぶっこけた。
「おぬしらがここへ来た時には、また愚痴らせてもらうでの。ふう……」
キセロスが砂浜に杖を突き立て、出来たくぼみに落とし込むようにして溜息をこぼした。なんだかなあ。
「まあ、わしの愚痴を聞いてもろうて、おぬしの契約と相殺させてくれ。それでよいかの?」
「いいも悪いも……」
「はっはっはっ! 目出度い席で生臭い話はしとうない。末長く、仲良くな」
「はい」
「うん」
キセロスは。俺らの方を振り返ることなく、そのまま静かに歩き去った。その後ろ姿をこわごわ見送っていた小菜が、震え声を出す。
「ううう……や、やっぱり……ゆ、夢じゃなかったのかあ」
「まあね。でも、終わったことさ」
俺は足元にあった小さな貝殻を一つ拾って、それを小菜の目の前でぎゅっと握った。ぱりっ! 小さな破壊音がして。粉々になった貝殻の破片が足元に落ちた。俺の中の魚は、あの時に海に還ったんだろう。顔色だけが半魚人の名残かあ。
「俺の手の中から、生きてる魚や蟹が出てくることはもう二度とないよ」
「うん」
「俺は、新しい俺になってる。この顔色以外はね」
「そっかあ」
苦笑いした小菜が、正面から俺にぎゅっと抱きついた。
「ねえ。もし……もしわたしがあの一週間で何も変わらなかったら。正ちゃんは、わたしを魚にしてた?」
「無理無理。俺は魚嫌いだもん。食べられないからね」
「ええー? そういう理由なのお?」
ぶうっとむくれる小菜。わははっ!
「そりゃそうさ。俺は、おいしいものがおいしいなって思える量だけあればいいの」
ぎゅっと抱き返して、額にちょんとキス。
「小菜だけで十分さ。俺の食卓に乗せるのはね」
「ううー。わたしは料理かよー」
「まあ、いいじゃん。それよか、うちへの挨拶も終わったし、入籍記念にイルマーレで豪勢なフルコース食おうぜ」
「わあい! それ、なあいすっ! 早く行こー!」
砂を蹴散らしながらぴょんぴょん駆け出していく小菜を見て、思わず口元が緩んだ。食卓の上には好きな料理だけ乗せる。たくさんは要らない。大好きなのが一つでいい。
それが、半魚人の食卓さ!
小菜を追って何歩か戻りかけた俺は、海に向かってウインクを一つ。
「ごちそうさま。最後のエスプレッソまでしっかり堪能いたしました」
ざあああっ! ざああああん!
俺の背後で、大きな潮騒の音が何度か響いた。まるでキセロスの高笑いのように。
【半魚人の食卓 完】
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