第27話 ドルチェ
俺と藻原さん……いや、小菜が家に戻った時には、羽田さんはもう家を発っていた。
突然ご迷惑をおかけして本当に申し訳ありませんでした。会社に何もかも置きっぱなしにしているので、その回収がてら少し仕事をします。お先に失礼します。正さんによろしくお伝えください。お袋にそう言い残して。
若いのに本当によく出来た人だねえと、お袋がすごく感心していた。そりゃあ、おぽんちな俺らとは次元が違うよ。なんだかんだ言っても、やっぱり羽田さんは羽田さんなんだよな。でも、俺らに弱みを見せた……いや見せることが出来た羽田さんは、これから無理をしなくなると思う。俺が『いい人地獄』に墜ちたのと同じ、『出来る人仮面』が外せなくなる怖さを心底思い知っただろうから。
俺らは等身大の生き方しかこなせない。事実としてこなせない。それを嫌というほど自分に言い聞かせておかないと、追い込まれた途端にまた自分を切り刻もうとしてしまうだろう。羽田さんの抱えている業は俺にも共通だ。だから俺も、それをしっかり肝に銘じておかなければならない。
俺と小菜は、今日はオフ日だ。実家に来た経緯が羽田さんのアクシデントだったから、俺らはすぐ帰ってもよかったんだけどさ。久しぶりに実家に帰ったんだし、帰るのは夕方にして、それまでのんびり過ごすことにした。
お袋は俺らが突然来た経緯を知ってるし、親父は夜釣りの疲れですぐ寝室へ。あんたらで好きにしなさいって放置された。もっとも、その言葉が額面通りかどうかは微妙だったけどね。Xデーのことを絶対に考えたくなかった俺の両親は、どうしても今朝のような修羅場に立ち会いたくなくて逃げたんだろう。でも、それを責めることなんか出来ないよ。そもそも俺が生き延びるチャンスを作ってくれたのは、両親なんだからさ。
俺も小菜も眠くて眠くてしょうがなかったから、午前中は爆睡。昼過ぎにもそもそ起き出して、冷蔵庫の中のものを適当に漁って。すぐに二人で浜に出た。
夜の海と違って、真昼間の海はちょっと間が抜けてる。のんびりするっていうより、脱力感満点だ。
「はあああっ」
砂浜で仰向けに大の字になった俺がでかい溜息をついたら、隣に座った小菜がこそっと探りを入れてきた。
「あの……」
「うん?」
「今朝のって……夢……じゃないの?」
「さあね」
俺は、むっくり上半身を起こして何度も首を振る。夢だったならどんなに良かっただろう。でも、間違いなくあれは現実だ。
「てっきり、魚地さんの作り話だと」
「魚地さんはやめようや。俺も小菜って呼ぶから」
「う」
小菜が照れて、あっと言う間に真っ赤っ赤に茹だった。うっひー。かわいいー。かわいすぎるー。
「た……タダシ?」
「それは、いや」
「え?」
「俺は、名前みたいなイメージを持たれたくない。嘘つきじゃないと思うけど、公明正大四角四面のかっちんこっちんでもないし、そうなりたくもない」
「うん」
「
「あ、いいかも」
「でね」
「うん」
「その呼び方は、小菜にしか許さない。これからずーっと小菜専用」
その途端。これまで二重三重に封じ込められてた小菜の喜びの表現が、一気に爆発した。
「うわあああいっ! やったああああっ!」
靴をぽんぽんと脱ぎ散らかした小菜は、まるで鎖から解き放たれた子犬みたいに、ぱたぱたと砂浜を走り回った。これ以上楽しいことはないというように、何度も飛び跳ね、両腕を突き上げ、きゃあきゃあ声を上げて笑いながら。
ああ。やっと百ぱーの笑顔が。 隠そうとしない素のままの笑顔が見られたよ。今まで泣き顔しかこびりついていなかった俺の記憶の中の小菜も、笑顔で塗り替えることが出来る。
思う存分砂浜を走り回った小菜は、はあはあ息を切らしながら駆け戻ってきて、いきなり俺の首っ玉にかじりついた。
「おおっとお!」
「うふふふふ。わたしのよ。わたしの正ちゃん。誰にも渡さない。わたしだけの正ちゃん」
泣き声が混じりそうになったから、慌てて引っぱがす。
「こらこら。泣かない泣かない」
「う……ん」
小菜が落ち着くのを待って、さっきの続きを話す。
「あのじいさんの言ってたことが事実であっても、ただのアタマのおかしいやつの作り話であっても」
「うん」
「そんなのどうでもいいこと。俺は自分の生き方を人に決めつけられたくない。それだけさ。んで、小菜もそうだろ?」
「うん!」
「それで、いいじゃん」
日差しを浴びてきらめく海面を指差す。
「ただね」
「うん」
「一週間ていう期限。それに意味があったのは小菜じゃない。俺の方。そういうこと」
「……?」
「小菜と出会ってからの一週間。そこに、俺にとっての大事な
「そうなの?」
「間違いなくそう。ちっとも走ろうとしなかった小菜には、ちゃんと走って欲しかったけどさ。でも俺は逆に、どっかで足を留めないとならなかったんだ。立ち止まるチャンスを小菜がくれたこと。俺はそれに、ありがとうって言いたい。心から」
足元の砂を掴んで、それを波打ち際に放り投げる。
「俺はね、運命なんか信じない。運不運ていうのはあるだろうけど、最初から決まってるなんてのは信じない。いや、信じたくない」
「そだね」
「あのじいさんが言ってたみたいに俺か小菜が食われる運命だったら、俺らのどちらか、いや二人とも、今ここにはいられなかったでしょ」
「あ、あああ……」
腰が抜けたみたいに。小菜がその場に屈んだ。
「自分の人生なんだ。絶対に人になんか渡すもんか。小菜がずっと貫いてきた意地。生き方が窮屈になっても、結局最後はそれが物を言うんだよね。俺は、土壇場で自分の意思を貫けた。やっと、小菜みたいに力いっぱい意地が張れたんだよ」
涙目にはなったけど、小菜は笑った。
「ふふ。そっかあ」
屈んでいる小菜の横に、ゆっくり腰を下ろす。
「でもさ。生き方が窮屈すぎてもしんどいよ。小菜はもう少しガードを下げた方がいい」
「うん……」
「手伝うからさ。これからずっと」
ぱっと顔を上げた小菜が、真正面から突っ込んできた。
「ねえ、それってプロポーズ!?」
「さあね」
ぷうっと膨れっ面になった小菜の頭にぽんと手を置いて、ぐりぐりと撫で回す。
「ご想像にお任せしまーす」
「ちぇー!」
「わはははははっ!」
心配いらないって。俺はもう小菜の食卓の上に乗っかってる。あとは。
……いただきますを言うだけだよ。
◇ ◇ ◇
月曜日。キセロスに告げられていた刻限が来たけど、何も起こらなかった。でも、それは結果論に過ぎない。
昨日突然襲来した嵐は俺らの心を激しく揺さぶり、その後俺ら二人だけを波打ち際に打ち捨てていった。まるで、俺らを拒絶するかのように。だけど。過去という奴隷船から振り落とされた俺と小菜は、これまでの全てを荒れ狂う海に投げ捨て、これからを朝日とともに思い描けるようになったんだろう。
俺らは、週末に起こったことはこれっぽっちも口に出さずに普通に出社した。でも、仕事の意味はこれまでとは全く違うよ。それは、これから俺たちが新しい生き方のレールを敷くためさ。
そして目標っていうのは、そんなに遠くに置かなくてもいいよね。目の前においしそうなドルチェがあれば、それを食べてみたいって思うじゃん。もうちょいがんばろっかなって思うじゃん。そんな風に、きっと俺も小菜もこれまでよりずっと気持ちよく仕事に向き合えるようになるだろう。
いつものようにばたばたと慌ただしく、でもこれまでとは全く違う一日が。
……始まった。
(ドルチェは、イタリア語で食後のスイーツのこと)
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