第26話 チーマ
水平線の向こう。海と空の境にうっすらと切り取り線が浮かんで、夜明けが近いことを告げている。それを眺めながらゆっくり立ち上がったら、一人のじいさんが波打ち際を行きつ戻りつしながら俺らの方に近付いてくるのが見えた。
漁師さん? それにしては……風貌が変だ。髪の毛は真っ白で、長くてぼさぼさ。下半分が分厚い白ひげに覆われている顔には幾重にも深いしわが刻まれていて、鷲鼻や輪郭、彫りの深さが日本人離れしてる。着ている服も、とても奇妙だ。まるで、ちぎったぼろ布を張り合わせたスモックみたい。そして、靴を履いていない。裸足。青緑色の布が螺旋状に巻きついた長い杖を持っているんだけど、それを地面につきながら歩いているわけじゃない。とても不思議な雰囲気の人だ。
声を掛けてみようか。
「おはようございます」
「おはよう。タダシ」
えっ? いきなり名前を呼ばれて、思い切りとまどう。
「あ……の?」
「刻限は明日だ。
「はあー!?」
声が裏返ってしまった。何言ってるんだ、このじいさん。アタマおかしいんちゃうの……って言おうと思って。体が凍りついた。
「ま、まさか」
「おぬしが直接告げておったじゃろう。一週間と。その娘か?」
老人は、手にしていた杖で藻原さんを指し示した。杖? 違う! あれは
「キセ……ロス」
藻原さんに最初に会った時から、いやそのずっと前から、どうしても拭い去れなかった数々の違和感。それが最悪の形で次々と繋がり、確信に変わり始めた。
俺は子供の頃に『溺れかけた』ことがある。本当か? 俺は本当は『溺れ死んだ』んじゃないのか? 子供の頃の写真。俺の顔色の悪さは、その海での事故があってから、だ。つまり、俺は単に顔色が悪いんじゃなく、本当に『死んでいた』んじゃないのか?
今俺が得ている肉体は借り物。俺の中にいる魚に生かされている死人。そして、すでにこの世に存在しないものであることを忘れさせないため、死人の証しとして極端な顔色の悪さが刻印されている。俺の度外れた風呂好きは、俺の中の魚が命脈を保つために必要だから。同族を傷つける海産物の摂食は、論外……。
俺は半魚人の末裔なんかじゃない。俺そのものが本来供物だったんだ。たぶん俺の親が、必死に猶予を頼み込んだんだろう。期限までに息子に代わる供物を差し上げますので、どうかそれまで猶予をって。俺が羽田さんと藻原さんを連れ帰った時のお袋の喜びよう。あれは……。
ぞっとする。
俺の召喚能力。あれも俺の能力なんかじゃない。俺の監視のためだ。おまえの側にはいつも
慎重なはずの羽田さんが酒をあおってしまったのも、あの場でグラスの中身のすり替えが行われたのかもしれない。俺と供物の候補を、約束の地に刻限までに集めるために。さっき、藻原さんが迷わずここにたどり着いたのも……。
キセロスの表情は穏やかで、絶えず笑みをたたえていたけど。その口から出てくる言葉はどこまでも冷徹だった。
「タダシ。おぬしが決めるがよい。わしらはどちらが供物でもかまわぬ。おぬし自身でも、この娘でもかまわぬ。饗宴に間に合わぬゆえ、すぐに返事が欲しい」
俺が脅しのためにでっち上げた作り話。それはでっち上げではなくて、きちんと仕組まれていたんだ。俺が召喚の能力を藻原さんに見せたことも含め、全てがこの
底なしの恐怖に駆られた藻原さんは、泣き叫びたかったんだろう。でも、その声と動きはキセロスによって封じられていた。俺は動けたし、声も出せたけど。俺が逃げれば、藻原さんがそのまま供物になるだけだ。キセロスにとっては、本当にどちらでもかまわないんだろうな。
「ふう……」
だけど変な話、俺の肝はもう座っていた。恐怖心も完全に麻痺していた。もし俺が、顔色のトラウマから逃れるために全ての感情を押さえつけたままだったら。俺は黙ってこの場から立ち去っただろう。わけのわからない女のために、自分の生命を捧げるなんてまっぴらだと。俺のど真ん中でとぐろを巻いていた真っ黒な感情、その赴くままに行動していたと思う。
でもさ、俺はやっと心の中を全部さらけ出したんだよ。積もりに積もった、くっさい汚泥の大掃除が終わったんだよ。空っぽになった中身を、これからどうやって充実させようかって超前向きに考えてる最中に! くだらんことを言わんでくれやっ!
俺の心中を埋め尽くしていたのは恐怖じゃない。理不尽な取り決めに対する猛烈な怒りだった。
「キセロス。まず答えから」
「ああ」
「どちらも拒否します。僕の供物としての扱い。それを決めたのは僕じゃない。僕はそんなことは何も知らない」
「ふむ」
「僕に何か大きな
「確かに。それは事実じゃな」
俺は、まるで石像のように固まってしまっていた藻原さんを指差した。
「そして、彼女」
「ああ」
「彼女をここに連れてきたのは、供物にするためなんかじゃありませんよ。逆です」
「逆?」
「彼女にかかっている、深くて忌まわしい呪いを解くためです」
俺は退くんじゃなく、立ちはだかるようにキセロスの前に出た。
「キセロス。全てを生み出してくれるはずの慈悲深い海が、なぜ彼女から何もかも奪い取るんでしょう?」
日の出の気配が色濃く漂い始めた海原に指を突きつけて、俺は全力で吠えた。
「母親を奪い、兄弟を奪い、感情を奪い、愛情を奪い! その代わりのものを何も与えなかった! その上、命まで差し出せっていうんですか? そんな理不尽な仕打ちがありますかっ!」
「むぅ」
穏やかな表情を崩さなかったキセロスの顔が、ぐにゃりと歪んだ。
「僕は命乞いをするつもりなんかありませんよ。僕か彼女かなら、迷わず僕が供物になります。でもね」
思い切り顔を突き出す。
「彼女は、やっと呪いが解けそうになってる。だけど呪いを解く鍵が僕である以上、僕がいなくなれば彼女は壊れてしまいます。ねえ、海神の一族はそんなに欲張りなんですか? 供物をいくつもいくつも捧げなければ満足出来ないんですかっ?」
差し込み始めた朝日のせいではなく。底なしの怒りで、青白いはずの俺の顔は真っ赤になっていただろう。
「拒否します。どっちもね。もし、あなたが強制的に供物を得ようとするなら、そうすればよろしい! でも、それは僕らの意思を無理やりねじ曲げる行為。必ずどこかに深い恨みを残します。それが……」
どん! 力いっぱい足元を踏みつけた。
「いつか恐ろしい海魔と化して暴れ回っても、僕らの知ったことじゃありませんから!」
俺の説得は難しいと判断したのか、キセロスは藻原さんの縛めを緩めたようだ。その上で、藻原さんに話し掛けた。
「おぬしは……どうじゃ」
絶対に拒絶するだろうと思っていた藻原さんは、次の瞬間激しく泣きながら砂浜に体を投げ出し、両手に砂を握り締めて声を絞り出した。
「こんなわたしなんか要らない! 誰にも必要とされない、役立たずの、クズみたいなわたしなんか要らない! 要らないっ! 要らないーっ!」
這いつくばった砂の上に自分自身を吐き捨てるようにして、要らないを何度も絶叫する藻原さん。もう半狂乱だった。俺は。藻原さんが長年抱えてきた疎外感、飢餓感、焦燥感、孤独、絶望の真っ黒なミックスジュースを目の前に突きつけられた気分になった。
これは時間がかかるね。何もないところからは修理なんか出来ないよ。ゆっくりやろうぜ。これからずーっと付き合ってやるからさ。
俺はキセロスに背を向けると、四つん這いになって泣き崩れていた藻原さんを抱き上げた。
俺らは
「さよなら。真っ黒で毒だらけの僕らを食卓に上げるなら、どうぞご勝手に」
それから。最初で最後になるかもしれないことは覚悟の上で、彼女の口を口で塞いだ。藻原さんはおずおずと、でもその後しっかりと両腕を俺の首に回した。もう二度と離さない、そんな風にぎゅうっと。
「ふう」
俺らのキスシーンから目を逸らしたキセロスは、どうしようもないという表情でゆるゆると首を何度か揺らし、ぽつりと呟いた。
「契約は失効じゃな。供物がなければ婚儀は行えぬ。アイフェの婚儀は延期しよう。なに、一生のことじゃ。少しばかり遅れてもどうということはあるまい」
それから、枯れ枝のような皺だらけの指を俺に向かってすうっと伸ばした。
「タダシ。おぬしがここで溺れた時、連れて行こうとしたわしらをおぬしの父母が必死に引き止めた。こんな優しい子をもう黄泉に連れて行くのかと。まだ年端もいかぬ子が、優しいもなにもなかろう。そんなのは口から出任せ。時間稼ぎの方便じゃろうと。わしはそう思うた。じゃが……」
キセロスの頬が緩んだ。
「確かにおぬしは優しいな。決して折れぬ鋼のように優しいな。そうじゃな。きっとその娘の呪いも、いつかおぬしの力で解けることじゃろう。解けるまで、添い遂げてくれ」
「はい」
「実はな。供物はすでに受け取っておる。それも、三体もな」
寂しそうにぽつりと漏らしたキセロスは、俺に向かってすうっと杖をかざした。
ぽちゃっ。俺の中で小さな水音がして。俺は……渇いた。
すぐに俺らに背を向けたキセロスは、来た時と同じく波打ち際を歩きながらゆっくり遠ざかっていった。その後ろ姿を覆い隠すかのように、海の束縛から抜け出そうとしている太陽が海原を赤々と焦がし始めた。
俺は、抱き上げていた藻原さんをそっと砂浜に下ろした。
藻原さんの顔。涙の流れた跡に砂がついて、ちょっと変な顔になってる。でも、目を細めてじっと輝く海原を見つめている彼女は、とてもきれいだなと……思った。
「朝になっちゃったよ」
「うん……」
(チーマは、子牛の胸肉に切れ目を入れて袋状にし、そこに詰め物をして煮上げたイタリア・リグーリア地方の郷土料理)
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