第25話 アクアパッツァ
俺のげろと涙は、二人にとって猛烈にでかいインパクトだったらしい。
リビングは明るいのに。全ての言葉は俺たちの重苦しい雰囲気に恐れをなしてみんなどこかに隠れてしまった。三人が三人。これ以上崩壊することはなさそうだったけど、だからと言って立ち直りのきっかけを掴むことも出来なかった。残されていたのは休むこと。眠ることだけだった。
そっと席を立った羽田さんが、黙って一礼して客間に消え。完全に意気消沈していた藻原さんも目を伏せたまま客間に下がった。
俺は。ソファーに体を投げ出して何度も頭をかきむしった。自分を壊して作り直す。言うのは簡単だけどさ。こんなにでかい衝撃と痛みを伴うとは思わなかったな。
ショック? そりゃそうさ。俺は、自分がこんなところでつまずくなんて思ってもいなかったんだ。大きな失敗をしたわけじゃない。下っ端の役割をきちんと果たして、右往左往しないで自分で自分の仕事を仕切れるようになって。営業職員として、三年という年月を無駄にしたってことは絶対にないと思う。
でもね、あまりに順調過ぎたんだ。上司や先輩を激怒させるような大失敗を、一度はした方がよかったのかもしれない。そうすれば、自分のポジションを高くし過ぎないで済んだ。あいつに任せるとなんか不安だよなあって。実態以上に買いかぶられた俺は、仕事にものすごい息苦しさを覚えるようになった。魚地くんならこなせるよなって言葉がどうしようもなく苦痛になってきて。いくら羽田さんのサポートがあったとしても、そろそろオーバーフローしそうだったんだ。そして、藻原さんの件で本当にオーバーフローしてしまった。
彼女には本当に気の毒なことをしたかもしれない。とんでもない脅しをかましちゃったのは、俺の八つ当たりだ。そんなことをしなくても、彼女を制御することは出来たはず。俺が冷静に彼女のことを見てあげればね。
雑用が、雑用のレンジをはみ出しつつあった。俺にはとても全部はこなせない。でも先輩たちはみんな、俺が独り立ちしたと見てる。上司は無責任。誰が見ても業務量が処理能力いっぱいになってる羽田さんには頼れない。河岸は逃げてばかりでちっともあてにならない。俺も孤立してたんだよ。どうしようもなく。その鬱憤が、彼女に直に向いちゃった。申し訳ない。どっかで謝らないとね。
「ふう……」
それでも。このげろは絶対に必要だった。俺らは三人とも、ずっと溜め込んでいたガラクタをどこかにぶん投げて空きスペースを作んないともう保たなかったんだよ。お互いのことを理解するより先に、自分の心に正直になること。どうしてもそれが必要だったんだ。次をどうするかには、決まったやり方はないと思う。ただ、これまでの処世術だけは手直ししないとさ。
「海を……見に行くかな」
小さい頃に海で溺れそうになってから、俺は海があまり好きでなくなった。海沿いの家に住んでいるのに、海で遊ぼうって気にならなかったんだ。でも無性に海が見たくなった。光を失った、夜の真っ暗な海を。
俺は、ゆっくりソファーから立ち上がって一つ伸びをした。それから、親父のウインドブレーカーをハンガーラックから外して手に持ち、家を……出た。
◇ ◇ ◇
「アクアパッツァ、か」
まだ全ての具材は深い闇の鍋の中でぐつぐつ煮込まれていて、味も出来も分からない。日の出が近くなれば煮上がりかな。トマトの鮮やかな赤とオリーブオイルの芳しい匂いが漆黒の海から浮かび上がってくるようになれば、人生のメインディッシュの完成。
「ははは……」
そんな風に、さくっと仕上がればいいけどね。出来損ないの俺を作り直すのは大変だろうなと思う。真っ黒に焦げ付いちゃった鍋の中身を捨てて、ごしごしと銅鍋を洗うところからやり直しだ。
月星のない深い闇の中では、海と浜の区別が付かない。穏やかな波音の遠近だけが、海との距離を測る目安になってる。目を開けてもつぶっても、俺の浸っている世界は変わらない。自分がどこにいるのか。いるべきなのかが……分からない。
ふと。その静寂が破られた。
「魚地……さん?」
「ありゃ。藻原さん。眠れんかった?」
「うん。隣、いい……ですか?」
「ああ、タメでいいよ。めんどくさいでしょ。今はオフだし」
「うん!」
嬉しそうに、ぴょんと飛び跳ねるようにして藻原さんが俺の真横に腰を下ろした。両足をぽんぽんと砂浜に投げ出し、小さな子供のようにはあはあと息を弾ませて。
「真っ暗な中を歩くのは危ないよ」
「うん。でも」
藻原さんが、気になることを口にした。
「なんでか知らないけど、まっすぐ来れた」
おかしい。確かに俺んちは海の側にあるけどさ。目の前がすぐ浜ってわけでもない。浜に出るには、ごちゃごちゃした細い道をいくつか抜けて来ないとならないんだ。しかも、この真っ暗な中を。うーん……まあ、いいや。
「落ち着いた?」
「うん。わたしね」
唐突に、藻原さんが何か話し始めた。
「誰かに愛されたかったの。ママもお兄ちゃんたちも、パパも。だあれもわたしを愛してくれなかった。あんたわけわかんない。家族にすらそう言われて。わたしはどうしていいのか分かんなくなった。どうしたらわたしを愛してもらえるのか……分かんなくなったの」
それは、藻原さんの初めてのげろ。リビングで話した時には、俺の口を通してしか出てこなかったほんの少しの感情が、ゆっくりと流れ出し始めた。鍵穴からではなく、細く開いた扉の隙間から。
「どうすれば……どうすれば、愛してもらえるのかな。何をすればいい? どう言えばいいの? ちっともわかんない」
「ストレートに言えない?」
「だめって言われたら……生きていけない。だから、どうしても先に耳を塞いじゃう。答えは聞きたくないって」
「あだだだだ」
思わず頭を抱え込んでしまった。
「それって、僕と同じじゃん。なんだかなあ」
「え? 同じ?」
きょとんとしてる。
「女の子にコクってさ。あんたの顔が不気味で生理的に無理って断られたら。耐えられる?」
「う……そ、そか」
「だから、最初から諦めちゃう。どうせ断られるんだからってね。街コンに行っても合コンに行っても、結局同じだよ。自分に自信がない。誰にもアプローチ出来ない。最初から諦めてる」
ふうっ。
「本当はさ、顔のことを言い訳にしちゃだめなんだよね。ハンデがあるなら、ハンデをちゃらに出来るくらいに自分を魅力的にしないとなんない。もっともっと磨かないとなんない。僕はそれをずっとサボってたんだ。顔のせいにしてね」
自分のど真ん中でぐるぐるとぐろを巻いていた、しょうもないひがみ根性。どうしてもそう考えたくないのに、自分の思考や感情を蝕んでしまう『どうせ』っていうねじけた想い。それにちゃんと向き合わないで顔を背け続けてたから、とうとう首が回らなくなっちゃったんだ。藻原さんも、きっとそうなんだろうな。
「でも、変えないとさ。これでいいって思ってないんだから」
「うん。そう思う。だから……諦めない」
きっぱりそう言い切った藻原さんが、ぴったり体を寄せて俺の顔を覗き込んでくる。うっ。このシチュエーションは、健全な男には辛いっす。
「あのさ……やっぱり……だめ?」
「って、付き合いたいってこと?」
「う、うん」
「物好きな……」
「ううん! 違う! それは違う!」
それは、すごい勢いの否定だった。
「わたしはいつも探してた。ちゃんと心の底を見てくれる人。同情じゃなく。興味だけでもなく。もちろん遊びでもなく。きれいなものも汚いものもきちんと見てくれる人」
「うん」
「わたしは……」
真っ暗な海に向かって、藻原さんがぐいっと腕を突き出した。見えない水平線を指差す。
「自分を小出しにしたくない。いや、したくても出来ない。自分のきれいなとこだけ見せて、後は隠すだなんてこと……無理」
小出しに出来ない。なら感情全部、しまったままにすればいい。それでも仕事は出来るよ。そう考えてたんだろな。
「全部見せたらつけこまれる。全部隠したらはぶられる。どうしようもなかった」
「うん」
「だから訓練は必要だと思ってる。生きてくために」
「そりゃそうだよ」
「でも、その訓練すら……誰もまじめにしてくれない」
「あ。そういうことか」
「うん。わたしにまじめに怒ったの、魚地さんが初めてだったの」
「そうなの?」
「うん!」
真っ直ぐ伸ばしていた腕が。ぱたっと砂の上に落ちた。
「怒りっぱなら他の人と同じ。でも、魚地さんはわたしを投げ出さなかった。いつもどうしたらいいか教えてくれた。ずっとフォローしてくれた。この人なら」
ぐん! 藻原さんが力強く首を縦に振った。
「この人なら、きっとわたしを受け入れてくれる。信じて付いていける。そう……思ったの」
大事なことが言えて、ほっとしたんだろう。藻原さんの顔に初めて笑顔が浮かんだ。
「一緒に外回りしてて。いっぱい話してくれて。わたし、こんな幸せでいいんだろうかって、そう思った」
それは。ごく普通の女の子には決して理解出来ないだろうな。いつも孤独と絶望の崖っぷちにいて、ぎりぎり堪えてた彼女だから感じ取れた幸せ。
「ねえ」
「うん?」
「わたしは……たくさんは望まない。お願い……です。わたしを放り出さないで」
暗闇の中。俺は密かに涙をこぼした。こんな、こんな悲しい愛の告白が世の中にあるんだろうかと。
「そうだね。今は……まだ返事出来ないかな」
藻原さんは、ものすごくがっかりしたんだろう。小さな両肩をだらんと落とした。
「それは好き嫌いの問題じゃなくてね。純粋に僕の方の問題。このくそったれなひがみ根性をなんとかしないと、誰とも向き合えない」
「さっきの?」
「そう」
「気にしなくてもいいのに」
ははは。やっぱ、藻原さんのタメ口とけーわいは、そうそうすぐには治らないってことか。まあ、いい。それこそ、時間が要るよ。その場の雰囲気に流されて出来ない約束をするより、今の不安定な状態に一度きちんとピリオドを打って、ゼロから始めた方がいいよな。
俺はなにげに話を逸らした。
「ねえ、藻原さん。羽田さんとは、あの後話したの?」
「した」
藻原さんは、すっきりしたんだろう。込み入った話を隠さなかった。
「わたしのこれまでのこと。全部話した」
「わ……」
「同情して欲しいからじゃない。これからどうしたらいいか。先輩として教えて欲しかったから」
「ああ! そうだよな」
「ふふ。羽田さんも、同じような苦労したって言ってた」
「え? じゃあ……親と?」
「そう。うまくいってないんだって」
「そっか」
「心をすっかり預けられる人が欲しい。それはわたしと同じだった」
「うん」
「だから、がんばってって、言った」
「あーあ、そらあ……」
「うん。じゃあ、魚地さんを譲ってくれるのって言われちゃった」
ひりひりひりひりひり。
「僕はスーパーの特売品じゃありません!」
ぺろっと舌を出して、藻原さんが首をすくめた。
「ごめん。でもね」
ぐるん。首を回した藻原さんが、まっすぐ俺の目を見る。
「わたしは……諦めない。絶対に諦めない。相手が羽田さんでも」
「それ、羽田さんに言ったの?」
「言った。そしたら」
ごくり。
「苦笑いしてた」
どてっ。
「まあ、そうだろなあ」
「え?」
「僕は寸足らずだよ。羽田さんの前じゃ、僕はどうしても引いちゃう。頭が上がらない。だから、僕には最初から無理なんだ」
「わたしとは?」
「前に、勝ち負けにしないって言ったじゃん」
「あ、そうか。そういうことだったのかー」
「羽田さんは、そんなの分かってるよ。今は、僕に倒れ込まないとならないほどしんどいってことさ」
「うん」
「それなら、業務の方は僕らでフォローすればいい。その代わり、オフの方まではタッチ出来ない。仕事とオフはちゃんと切り分けた方がいいよ」
「うん」
自分自身の状態が不安定だと、それが気になって、どうしても甘ったるい話にはならないね。
「うーん……」
不安と不安定。俺と藻原さん、羽田さん。抱えていた不安を吐き出して、不安定な部分はこれから徐々に解消していくだろう。それなのに。どうしても、不安感がなくなってくれない。逆にどんどん緊張が高まってしまう。
俺はその不安を振り払うかのように、両手でぱんぱんと頬を張った。さあ、そろそろ引き上げよう。
(アクアパッツァは、魚介類をトマトとオリーブ油などで煮込んだイタリア・カンパニア州の郷土料理)
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