第22話 ペパロニ
俺が苛立っていることを気にした藻原さんが、こそっと探りを入れてくる。
「あの……わたし……やっぱりだめ……ですか?」
「は?」
「迷惑なのかな……と思って」
「違う。君のことじゃないよ。僕が寸足らずなんだ。もうちょっと実力があればね」
「ううん。あ、いいえ。わたし……すごくよかったと思う……思ってます」
「そう?」
「だって、わたしを見捨てなかったの、魚地さんが初めてで」
「ははは」
思わず全力で苦笑いしてしまう。
「それは違う」
「え?」
「いつか言おうと思ってたから、今言っとくね。君が最初に配属された総務二課の課長。蟹江さん。本当に温厚な人だよ。いくら君の見せてる態度が変わってても、その表面だけ見て判断するってことはない」
「そう?」
その乾いた返事。元に戻ったなと思った。全てを信じられない。何もかもを自分より下に置いて、突き放してしまう。
「もし君が蟹江さんの態度に不信感を持っているなら、その出処が蟹江さんじゃなくて自分にあるって考えないとだめさ」
藻原さんの顔がみるみるこわばった。
「君のタメ口やマナーの欠如。どうして、それがいつまでたっても直らないのか。普通はね、それは反抗から来てるって考える。君は、誰にも従うつもりがない。だーれがあんたの言うことなんか聞くものかって。だとしたら、仕事なんかまともにやんないさ。わたしは専務の娘よ。文句があるならパパに言って。そういう態度になる」
「う」
「それなら、蟹江さんが仕事は出来るなんて言うはずがない。違うよ。君は指示された仕事はきちんとこなしてるんだ。それはうちに配属されてからも同じ。壊れてるのはコミュニケーションツールだけで、仕事の意味を理解して着実にこなすのは最初から水準以上に出来てるんだ。入ったばかりの時の僕より、ずっと優秀だよ」
嫌味じゃなく、本当にね。
「じゃあ、なんで蟹江さんが仕事はこなせる君を早々に見切るの? 普通はそんなのありえないよ」
「ど……して……ですか?」
ああ……やっぱり分かってなかったか。
ピザの上に何がトッピングしてあっても、それだけ剥がして食べない限り意識はしない。藻原さんは、自分の上に乗っかってるトッピングが何かをきちんと検証したことがないんだろう。それが、単独で食べるのはしんどい、辛いペパロニだってことをね。
「誰も、君から感情を読み取れないから。タメ口やマナー欠如は、二の次なの。君がどう思ってるのか、何を考えてるのか、それが外からまるっきり見えないの」
絶句した藻原さんは、そのままがっくりうなだれてしまった。
「あのね、君が怒らせたのは蟹江さんじゃないよ」
「……え?」
「総務の先輩たちなの。こいつ、何考えてるのかちっとも分からない。あたしらをナメてるの? やなやつー。みぃんなにそう思われちゃった」
「う……」
「そしたら、蟹江さんは君だけを庇うことは出来ない。だって、他の人たちはちゃんとルールを守ってるんだもの。蟹江さんがルールを守れない君を庇う理由は、誰にも理解してもらえない。君を擁護しようとすると、他の人たちが反発して課の仕事が止まっちゃう。職場が壊れちゃうんだ。蟹江さんが怒ったっていうのは口実さ。そうしないと、長として示しがつかないからなの」
ふう。心配そうだった蟹江さんの表情が、目の前に浮かぶ。
「気にしてたよ。ちゃんとやってるのかってね」
ぐす……ぐす……。藻原さんが泣き出した。まただ。泣くことでしか感情を漏らせない。そこだけが全然改善されてない。根が深い。
「あのね。僕は、最初から君をなんとかしようとがんばってたわけじゃないの。申し訳ないけど、最初はぶん投げるつもりだった」
「う……」
「僕だって、総務の人たちと同じように感じたんだよ。こいつ、ものすごく態度悪い。人を人とも思ってないなって。もちろん羽田さん含め、営業の職員は全員ね。君が何をしでかしたって、誰もフォローするつもりはなかった。やっぱ無理ですー。部長にそう報告するだけさ。だから僕は、君の態度に呆れることはあっても、怒るつもりなんかなかったんだ」
拳を固めて、テーブルをとんと叩く。その音にびくっとした藻原さんがはっと顔を上げた。
「でも、僕はすごく怒ったでしょ?」
テーブルの上に丸まって転がってるレシート。それをつまみ上げて、湯飲みの上でぎゅっと握って、ぽとんと落とす。藻原さんの顔からさっと血の気が引いた。ははは。それは海産物じゃないから、何も起きないよ。
「僕が怒ったのは、君の失礼なタメ口やけーわいの態度に対してじゃない。それは最初から分かってたことだから、僕が備えればいいだけ。違うんだ。僕が本気でアタマに来たのは、君が僕のプライベートにずかずか踏み込んで来たからさ」
「あ……」
「顔色が悪いとか、ちゃんと飯食ってるのかとか、なんで同席の人に気を使わないんだとか。あのさ、君はそういうのを他の人に言ったこと、ある?」
ぷるぷるぷる。藻原さんが首を振って否定した。
「でしょ? つまり、君が僕に対して示した姿勢だけが他の人と違う。ほとんどの人をスルーしてしまう君が、僕に対してだけはほんの少し自分の意志や感情を出したの。最初の話と全然違うじゃん! 僕は、そのズレにものすごくイライラしたの。君の失礼な態度に対してだけじゃないんだ」
「う……」
「でもね。感情をどこにも誰にも出さないはずの君が、なぜ僕に対してだけは感情を漏らすの? それを考えれば、君が示してる態度の解釈が変わってくるんだよ」
藻原さんの顔の前に、ひょいと人差し指を突き出した。
「君は、僕に興味を持った。違う?」
「う……はい」
それは、渋々白状するという感じではなかった。ずっと言いたかったけど、やっと言えたって感じで。
「やっぱ、か」
「あの」
「うん」
「わたしみたいのは……だめ……ですか?」
「なにが?」
真っ赤になって、俯いてしまった。
あーあ。これがさ、飲み会で盛り上がってその勢いでコクるーとかのシチュエーションなら、まだ喜べるよ。ニンゲンのオスとして、オンナの子と付き合いたい、あわよくばその先までっていう本能的な欲求がないと言ったらウソになる。ハンデ持ちの俺には、そうそうチャンスがないんだからさ。でも、お互いのイタいところばっか見えてしまったあとで、どうですかって微妙なアプローチ寄越されてもなあ。
「付き合うとか、そっち系の話?」
こくっ。藻原さんは、はっきりと頷いた。
「うーん」
どう返事しようか苦慮している間に。ぎっ! 少し大きな音がして、羽田さんが真っ青な顔でよろよろとリビングに倒れ込んできた。
「こ、こ、ここどこっ!」
「あ、意識戻りました?」
そこに居たのが俺だけなら、大騒ぎになっただろう。でも、ダイニングテーブルのところに、スーツ姿の俺と藻原さんがいるのを見て、状況がなんとなく分かったんだろう。羽田さんは、すぐに落ち着きを取り戻した。
「酒、大丈夫ですか?」
「ううー、大失敗。ちょっとぼーっとしてた。ねえ、ここって魚地くんの実家?」
「そうです。羽田さんの家は分かんないし、他にはどこにも連れて行けそうになかったから」
「ごめんね、迷惑かけちゃった」
「いや、それはいいですけど、気分が悪いとか、ありません?」
「まだむかむかする感じはあるけど、大丈夫そう」
「お茶、飲みます?」
「あ、助かる」
乱入してきた羽田さんと俺が、職場でするのと変わらない会話をすんなり交わしたのを見て、藻原さんの機嫌が明らかに悪くなった。なるほどね。南光産業の岩瀬さんと話した時、彼女に敵意をむき出しにしたのはジェラシーだったのか。
藻原さんにとって、俺は好意の対象っていうより現実世界との唯一の接点に近いんだろう。そして、それが分かってしまった俺は自分の素直な感情にものすごくブレーキをかけてしまってる。はあ、めんどくさ。藻原さんが、ではなく。そういうのをうまくさばけない、鈍臭い俺自身がね。はあ。
真夜中に熱い緑茶をたっぷり湯飲みに注いで、三人でふうふう飲む。ああ、年寄りくせー。
ああ、そうだ。藻原さんに
「ねえ、羽田さん」
「うん?」
ぼやっとリビングを見回してた羽田さんが、くるっと俺に向き直った。
「さっきの、ほんとですか?」
「ほんとって?」
「ちょっとぼーっとしてたってやつ」
「んー」
「違いますよね? 最初から、ちょっと変でしたよ?」
むきになって反論するかと思った羽田さんは、残り少なくなったお茶でやっと心を温めるみたいに両手で湯飲みを包み、その中に小さな吐息を落とし込んだ。
「ふ。魚地くんも、変な時に勘が良くなるよね」
「何言ってんですか。いつもの羽田さんなら、僕の食事の誘いになんか乗りませんよ。絶対にね」
「ちっ」
苦笑いした羽田さんが、湯飲みをことんとテーブルに置いた。
「やっぱ、小細工はよくないか」
「小細工?」
「そう。どこかでこういうチャンスを作ろうと思ってたんだけどさ」
は? なんのチャンスだろう?
「なんのですか?」
「魚地くんと、サシで話せるチャンス」
「はあ!?」
「藻原さんのことでやり取りが増えたから、どこかで行けると思ったんだけど」
ちらっと藻原さんを見た羽田さんが、でっかい溜息をつく。
「はあっ。藻原さんがここまで密着しちゃうってのは予想外だったなー」
かちん。羽田さんと藻原さんの間で視線がぶつかって、小さな音を立てたような気がした。
「ちょ、ちょっと……」
「年上は、いや?」
「そういう問題じゃなくて、なんで僕ですか?」
「こういうのって、理由なんかないじゃん」
慌てたのは藻原さんだった。血相を変えて羽田さんに食ってかかった。
「そ、そんな! そんなの絶対にダメ! ダメですっ!」
「どうして?」
「う……」
冗談抜きに、両手に花になってしまった。そして、俺はそれを素直に喜べるほど単純に出来てない。すでに修羅場になりかけているリビングに、まず冷水をぶっかけよう。
「二人とも。なんで、僕を置きっぱで先行っちゃうの?」
しゅん。一瞬で鎮火。
「あのね。僕は『現時点では』誰のアプローチを受けるつもりもありません。藻原さんと羽田さんだけでなく、ね」
「どして?」
羽田さんが真っ直ぐ切り込んできた。
「僕が壊れかけてるからです」
「はあ?」
「そしてね。僕の目には、藻原さんも羽田さんも同じように壊れかけてるように見える。とてもじゃないけど、そんな甘ったるい話が出来る状況じゃない」
「ちぇ」
レスポンスが早かったのは、やはり羽田さんの方だった。
「魚地くん。今のうちに言っとく。そういう突っ込みは女の子に嫌われるよ」
「何言ってるんですか。嫌われる以前に、アプローチすらされたことがないですから。一度もね」
「ほん……と?」
おずおずと、藻原さんに確かめられる。
「ない」
「そっか」
観念したように。羽田さんがすぱっと核心の話を切り出し始めた。
(ペパロニは、ピザのトッピングなどに使われる辛いサラミソーセージ)
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