第21話 オッソブーコ

 とほほ。カードでタクシー代が支払えるからいいものの、それでなくても貧相なお財布事情がぼろぼろだ。俺は決して無駄使いはしてないつもりなんだけど、あんまりカネが残んないんだよなあ。天引きで積み立ててる社内預金くらいしか財産がない。そろそろまじめに先を考えないとなあ。


「ふう」


 いつの間にか逆になっちまったなあ。俺が請けたミッションは、藻原さんの悪癖矯正。俺は彼女の鬼教官であり、出来の悪い生徒を徹底的にしごくはずだった。

 でも……。心配そうに羽田さんの顔を覗き込んでる彼女の横顔を見て、俺はがっくり来る。そうなんだよ。この数日間で彼女はかなりまともになった。でも、俺は逆に沈没してる。いや、自分が沈みつつあるってことに気付いちまった。


 俺の人当たりの良さと彼女の不器用な自己表現。見かけは正反対に見えるそれらは、根っこの部分が実は同じなんだ。自己防衛なんだよね。

 親の傘の下にいる彼女は、それを乗り越えて侵入しようとする強力な敵から逃れるために石になるしかないんだろう。そして顔色のことでいつも迫害されるリスクを抱えてる俺は、どうしても『いい人』にならざるを得ないんだよ。彼女はともかく、俺の防御手段も決してほめられたものじゃないんだ。あの岩瀬さんて子に、そのままじゃ潰れるよって言ったけど。事情は俺も藻原さんも同じさ。俺らも、このままじゃきっと潰れちまう。どうすっかだよなあ。


 後部座席でもんもんと考え込んでいる間に、実家に到着した。カードで二万円を超えるタクシー代を支払って、お姫様抱っこの体勢で、羽田さんを実家に運び込む。羽田さんは、最初の赤ら顔から、顔色が青く変わっていた。アルコールに対して病的に弱いのかもしれない。心配だ。


 客間に敷いた二組の布団。その片方に羽田さんを横たえて、藻原さんに世話を頼んだ。枕元に洗面器とペットボトルのスポーツ飲料を置き、トイレとバスの位置だけ藻原さんに教えておけばなんとか対応出来るだろう。さすがに男の俺には、対応不能だからな。


「ふうー」


 ぐったり疲れて、リビングでのたくる。


「久しぶりに帰るのが、これじゃなあ」


 俺のぼやきを、お袋が苦笑混じりに聞き流した。


「二人ともハイレベルじゃない。この色男」

「色は悪いよ。ガキの頃からずっと」


 どてっ。お袋がずっこける。


「まあ、お酒に絡む失敗は誰にでもあるわよ。あんたにないのが不思議なくらい」

「俺は酒飲まないからなあ。あ、親父は夜釣り?」

「そ。桑名さんと船で沖に出るって言ってたから、あんたとはすれ違いになるかもね」

「相変わらず好きだよなあ」

「まあね。釣りしたいからって、ここに家建てた人だから」


 お茶をいれてくれたお袋が、いきなりど真ん中直球の突っ込みを入れてきた。


「どっちが本命?」

「どっちも違うって。今日は、うちの課の下っ端四人で食事してたんだ。実質職場の飲み、だよ」

「ふうん」

「隣の河岸ってやつがいきなり離脱しやがって、こうなっちまったわけ」

「両手に花じゃない。いいなー」

「んなわきゃねー。潰れてる羽田さんは、うちの課のメインエンジン。彼女の働きでトップ業績を叩き出してるからね。恐れ多い」

「へー。才媛なのね」

「間違いなくそう」


 その出来過ぎのところが、ちぃとなあ。


「もう一人のちんまい方。藻原さんは、専務の娘さんさ。まだ入ったばっかのぴよぴよ」

「へー、お偉いさんの子かあ。腰掛け?」

「いや、仕事にはすごくまじめに取り組んでる。ただなあ」

「うん?」

「マナー系全滅なんだ。俺はお目付役なの」

「ありゃりゃ。押し付けられた?」

「そ」


 お袋が、呆れ顔で俺をじろじろ見回した。


「あんた、お人好しも大概にしないと」

「ほんとにそう思う。正直、ちょいしんどいんだ」

「でしょ? 我慢しすぎてびょーきにならないでよ?」

「へいへい」

「そんなんじゃ、いつ孫の顔を見せてもらえるか分かんないわね」

「ううー、突っ込まんでくれー」


 さすがに今日は、そっち系のイジリはしんどい。


「俺も、何もしてないわけじゃないよ。街コン行ってみたり、社の若手社員企画の合コンに行ったり。でもさあ」

「脈なし?」

「まあね。俺は地味だから、いつもその他大勢。枯れ木も山の賑わい」

「なによ、それ」


 さすがに、お袋の前で顔色のせいだとは言えない。そこは微妙にぼかした。


 でも。なんかおかしい。お袋は、俺の顔色が彼女探しのハンデになってることはよく分かってる。だから、これまでこの手の突っ込みを慎重に回避してきたんだ。アクシデントがあって俺が女性を連れて帰ってきたって言っても、それで即浮かれるってことはないはずなんだよな。


 藻原さんに設定した一週間という期限。突然帰省することになったこと。お袋のぶしつけな突っ込み。それは本当に偶然なんだろうか? どうにももやもやする。


◇ ◇ ◇


 あんたもさっさと休んだら? いつも早寝するお袋にそう言われて、俺もそうしたかった。でも、なんでかしらん、神経がぴんぴんに張り詰めてしまった。ものすごく疲れてるのに眠くならない。手帳を出してぺらぺらめくり、来週の予定を考える。でも、頭の中に浮かんでくるは仕事のことばかりだ。自分自身のことが何も出てこない。


「俺はこんなキャラじゃなかったのになあ」


 俺は羽田さんのような根っからの仕事人間じゃないよ。求められてるレベルに全然達してないから、ひいこら走り続けているだけ。もう少し余裕を持って仕事をこなせるようになったら、仕事よりもオフをもっと充実させたい。でも、そのきっかけが掴めそうにないんだ。


 少し出来ることが増えると、その分仕事のノルマも重くなる。もちろん、誰かがそうしろって俺に命じてるわけじゃない。俺自身が、自分をどんどん追い込んじまってるんだ。これが俺なんだって、自信を持って胸を張れない。そういうものを何も持ってない。だから、人にポジティブにアプローチ出来ない。いつもどこかに、どうせ俺なんかって背中を向けているネガティブな自分がいて、そいつにとっ捕まらないようにするために息が切れるほど走り続けないとならない。その繰り返しだ。


 今日、羽田さんが河岸をどやしたこと。逃げ癖をなんとかしろ! あれは俺も同じなんだよ。俺は仕事が楽しくてばりばりこなしてるわけじゃない。仕事に逃げ込んでる。それじゃ、どんなに仕事をこなしても俺の身にはならない。


 ぱたっ。手帳を閉じて、ぐるぐると首を回す。


「だめだ」


 藻原さんのことがあって。俺は彼女のことより、自分が抱えてきたいろんなコンプレクスや能力の限界のことを強く意識することになっちまった。入社して無我夢中で仕事をしていた時期が過ぎて、勢いだけで突っ走るやり方の限界が来てる。


「自分を作り直す、か」


 作り直すためには、一度壊さないとならない。お人好しで、頼みごとを断れない何でも屋の俺。そういう自分にも他人にもいいかっこしいの俺をどこかできっぱり解体しないと。もう俺が……保たない。無人のリビングで、俺は電灯をぼやっと見上げながら溜息ばかりついていた。


 かたっ。リビングのドアが小さく開いて、その隙間から藻原さんの顔が覗いた。


「あの……」

「あ、羽田さんは落ち着いた?」

「はい、寝てる……ます」

「そっか。ちょっと安心。度は強いけど、飲んだ量自体はそんなに多くないはずだから」


 こそっとリビングに入ってきた藻原さんは、ソファーじゃなくダイニングテーブルの椅子に座った。俺の真向かいに。


「眠れない?」

「うん」

「そうだよなあ」

「あの」

「なに?」

「ちょっと……聞きたいことが」

「うん」

「最初の……一週間って」

「まだ有効」


 藻原さんは、がっくり首を折った。俺はそれを見て苦笑する。


「大丈夫だって。今のペースなら、必ずクリア出来るから」

「そ……う?」

「そう。僕が予想してたより、ずっとハイペースでレベルアップしてる。ただね」

「う……はい」

「まだ、ぽかが多い。ぽかは許してもらえるって考えるより、一つのぽかで全部だめにするって考えて欲しいの。だから、一週間のリミットは外さない」

「そっか」


 俺は、キッチンカウンターに置かれていたホーロー鍋を指差した。


「煮込みはさ、材料に火が通ればとりあえず食えるよ。でも硬いお肉は、とろっとろになるまでしっかり煮込んだ方がおいしいでしょ」

「うん」

「一週間で煮込める分なんて、たかが知れてるよ。だから一週間過ぎたからもういいやって思って欲しくない。僕だって、全然煮込みが足んないんだから」

「……うん」


 いや、俺の場合は煮込み時間の問題じゃないんだよな。オッソブーコの骨つき肉。煮込んで肉が柔らかくなっても、骨は変わらない。俺にはその骨みたいな、最初からずっと変わらない芯がないんだ。


「そうなんだよね。僕は人のことなんか言ってられない。まだこなしてるってだけで、自分のものにはなってない」

「?」

「ほんとは、君に偉そうなことを言えるレベルじゃないんだ。それがしんどくてしょうがない」


 これまでずっと教わる側、指導される側だった俺は、ずっとそこに止まったままだったんだろう。いや、教わったことはちゃんとこなしてきたよ。でもしかじゃなくて、ちゃんと自分なりにアレンジしてやってきたっていう自負はある。

 だけど、これまでずっと俺には『先』がなかった。仕事のことだけじゃない。自分がどうやってこれから生きてくのか。何を目指し、何を楽しみにして日々を送って行こうとするのか。肝心の芯がぽっかりからのまま。どうしてもその事実を認めたくなくて、がむしゃらに『今』だけを見つめていた。そこしか見えなかった。肉はあっても骨がなかったんだ。


 最初俺と同じ、いやもっと崖っぷちに立っていた藻原さんは、そこから一歩踏み出しただけでもう目線が上がってる。俺はそれが悔しくて、自分が情けなくてしょうがない。


 がん! 自分の頭を拳で殴りつける。





(オッソブーコは、輪切りにした子牛の骨付きスネ肉をトマト、ブイヨンとともにことこと煮込んだイタリア料理)

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