第23話 ラクリマ クリスティ ロッソ
「あのね」
「はい」
「私は。就職と同時にさっさとカレシを見つけて、出来るだけ早く退社する予定だったの。だからライバルの少ない営業を希望した」
はあああっ!? と、とんでもなく予想外。
「ま、まじっすか?」
「そうだよ」
それって。専務の言ってた作戦そのものじゃん。でも、それが藻原さんじゃなくて、なんで羽田さん? いや、羽田さんだからか。
俺は、羽田さんが説明を始める前から、なんとなくその理由が見えていた。そして羽田さんのジレンマを察していた野郎は、きっと俺だけではなかったと思う。羽田さんも、それは分かってるんだろう。
いつもはしゃんと背筋を伸ばし、顔を上げて話をする羽田さんが、背を丸め俯いてぼそぼそ話す。それが、羽田さんの危機をくっきり示していた。
「小さい頃から男女って言われててさ。気は強いし、超負けず嫌いだし、すぐ口も手も出るし。友達としてはからっとしてていいけど、おまえを女としては見られないって、これまで何十回言われてきたか分かんない」
「ええーっ!?」
びっくり声を出したのは俺だけじゃなかった。藻原さんも、絶句してる。
「そん……な。ありえない……です」
「ふふ。ありがと。でもね」
羽田さんが、顔を歪ませ、手の甲で目を拭い始めた。
「猫……被れないの。すぐ地が出ちゃう。がさつで、口が悪くて、生意気で、出しゃばりで。どんなに大人しくしてようと思ってても、気が付いたら前に出てる。その度に嫌がられ、怖がられ、逃げられて、私一人」
「う……」
「しかも、みんな私の周りから梯子を外してく。あとはよろしくって。そんなの、あり? ねえ、ありっ!?」
テーブルの上に突っ伏した羽田さんは、大声を上げてわんわん泣きじゃくった。本当は、ずーっと前からそうしたかったんだろう。でも、美人でスタイルよくて才媛で、仕事も気配りも出来るスーパーお姉さんというイメージを外からべたべた貼り続けられて、とうとうそこから出られなくなってしまったんだ。
だけどさ。羽田さんはそれをまだこなせたはずだ。こなせなくなったのは……限界が来てしまったのは……。そうか。
「ねえ、羽田さん。もしかして、部長から主任を打診されたんじゃないですか?」
テーブルの上に突っ伏して爆泣きしてしていた羽田さんが、かすかに頷いた。やっぱりか。
「そりゃあ、とんでもなくしんどいわ」
「あの……どして? ……ですか?」
入ったばかりじゃ分からないか。しかも藻原さん、まだほとんど自分しか見えてないし。なんだかなあ。
「主任はお飾りのポストじゃないよ。今がおかしいんだ」
「そうなの? ……なんですか?」
「課長は全体指揮しかしないよ。それを噛み砕いて、僕らに割り振って調整するのが主任の仕事。本当は、そこが一番大変なんだ」
「わ……」
「今、主任が機能しなくても仕事が順調に動いてるのは、羽田さんが実質主任の仕事を肩代わりしてくれてるから。僕らと同じヒラ社員の羽田さんには、指揮権限がないの。でも、下調べや事前交渉、クレーム処理、そういうしんどいところを羽田さんが馬力でこなしてて、その代わり羽田さんが全体のとりまとめをするっていう暗黙の仕分けになってる」
「うん」
「それはね、羽田さんがヒラだからこなせるの。羽田さんは立場上お願いしか出来ないから、みんなしゃあねえなってやってくれるんだ」
「あ……」
藻原さんにも構図が見えてきたんだろう。さあっと顔が青ざめた。
「それが、主任になってごらん? まだ二十代の羽田さんが、順番待ってる先輩たちを飛び越えていきなり主任。そらあみんなおもしろくないさ」
「う……」
「羽田さん一人にしんどい仕事だけをがんがん押し付けて、しかも羽田さんの指令は微妙にスルーされるようになる。主任のあんたの仕事だろって」
「ひっ」
それは、藻原さんにとっては想像も出来ない恐怖だったようだ。がくがく震え始めた。
「そしてね。課長が誰になっても、必ず羽田さんに丸投げするよ。あとはよろしくなって。さっき羽田さんが言ってたみたいに、まさに梯子を外す、さ。羽田さんだけじゃないよ。僕だって、そう言われたら耐えられない」
いくら羽田さんがタフでも、課の重鎮を敵に回して孤軍奮闘は絶対に無理だよ。涙で顔をぐしゃぐしゃにした羽田さんが、あえぎながら声を絞り出した。
「あ……たし……ね。仕事……辞めよう……と……思ってた……の。でも……なんも……ない。何年も……勤めて……なんも残ん……ない。虚しくて……虚しくて。でも苦しくて……」
わあっ! 再び、テーブルに突っ伏して泣き出した。
キリストの涙、か。神様だから泣かないなんてことは絶対にないね。ましてや、俺らは神様どころか、人としてもはんぱもんだ。しんどかったら、それをどこかにぶちまけないと生きていけない。羽田さんが流している涙は、まさに吹き出す鮮血のような痛々しい涙だった。
羽田さんはぶちまけた。藻原さんは、どうするかな? 俺は腕組みしたまま、じっと藻原さんを見据えていた。
「みんな……しんどいんだね。……ですね」
「当たり前だよ。いっちゃん最初に羽田さんが藻原さんをどやした時、偉そうにって思わなかった?」
「う……」
「たった一日でいい。羽田さんのポジションを代わりにやってみなよ。絶対に反論なんか出来なくなるから。そういうのをさ、ちゃんと見て欲しかったんだ。自分ばっか見てるんじゃなく」
「う……ん」
かちこちに封じ込まれたまま出てこない藻原さんの感情。言葉遣いやマナーがうんと改善しても、感情が出せない限り営業は出来ない。感情を出せないと、その調整も出来なくなるから。
クロダの親父さんのトリガーでおかしくなっちゃったみたいに、いきなり不機嫌になったり、突然泣き出したり。もしそれにちゃんとした理由があっても、感情の揺れが外から分かりやすく見えないと、お客さんは気味悪がるだけだ。セールストークを故意にスルーされてしまう。営業だけじゃないよ。社内に自分の置き場を作るのも難しくなる。総務を干された時の繰り返しだと、社にいようが、転職しようが、どんどん条件が悪くなっちゃう。
でも、羽田さんの姉御肌と同じで、藻原さんの能面は年季が入ってる。鍵があれば開きますっていう単純なものじゃないんだろう。
「ふう」
焦ることはない。本当はじっくり時間をかけて、藻原さんの装甲が緩むのを待った方がいいんだ。でも……それじゃ、俺が保たない。
羽田さんは、たった今仮面をむしり取った。俺もそうしないと、もうこれ以上は保ちそうにない。三人同時にナマを曝すこと。社員という立場を離れて、生身の個人としてこの三人で話をする機会は、もう二度とないと思う。だから俺は、どうしてもこのチャンスを逃したくないんだ。
羽田さんは、溜め込んでいた鬱憤を一気に吐き出して、少し気持ちが楽になったんだろう。しゃくり上げながらゆっくり体を起こした。
「ご……めん……ね」
「いえ。今までがおかしかったんです。そして、うちの課の誰もそれを上に言えなかった。筋を通す羽田さんが浮いちゃうことの方がおかしい。羽田さんの性格のせいじゃないです」
ほっとしたように、羽田さんが小さく頷く。
「ねえ、藻原さん」
「え?」
俺が、羽田さんにではなく自分に話しかけたことが意外だったんだろう。
「げろするなら、今しかないよ。僕もこれからそうする」
「?? げろ……って?」
俺は、目をつぶって何度も首を横に振った。
「さっき羽田さんが入ってきた時に言ったでしょ。みんな、壊れかけてる。このままじゃ、本当に壊れちまう。修理するなら今のうちだよ」
黙っちゃった藻原さんの代わりに、俺が突破口を開くことにする。少し乱暴なやり方でも、どこかにきっかけを作らないと何も変わらない。俺が藻原さんのレクチャーを引き受けた時点で、いつかはきっとこうなっただろう。その時が来ただけさ。
「ねえ、羽田さん。さっきの店で、藻原さんが努力してずいぶんマシになったって言いましたよね?」
「う……ん」
「僕もそう思うんですけど、一番肝心なところはちっとも直ってないんですよ」
「言葉遣いやマナーの問題じゃないって……言ってたやつ?」
「そうです」
「うーん……」
「僕が言わなかった答え。分かります?」
目を擦りながら首を傾げた羽田さんが、俯いてしまった藻原さんをじっと見据える。
「うーん……分かんないなあ」
「それは、羽田さんが藻原さんの対極にいるから。ねえ、羽田さん。羽田さんは、なんで最初藻原さんに腹を立てたんですか?」
「んー」
ぴんと来ないか。じゃあ、言い方を変えよう。
「羽田さんが、気難しいお客さんのところで営業をしなければならない時。どうします?」
「そりゃあ、落ち着いて慎重に……」
「それはね、羽田さんが普段全部の感情を出せるから出来るんです。お客さんの前でだけ調整すればいいんだもん」
「あっ」
羽田さんの背が反り返って、椅子ががたんと音を立てた。
「でも、藻原さんからはほとんど感情が見えない。だから藻原さんが敵視も反抗もしていないのに、話し相手の印象が全部悪くなるんです。ノジマのたこ親父のところでの大失敗。それですよ。つらっとしやがってって。羽田さんも、最初そう思ったんでしょ?」
「あ……ああ……そっか」
ぐったり。藻原さんから、全ての生気が消し飛んだ。
「羽田さんがリビングに来る前に、それを説教してたんですよ。蟹江さんが心配してること。恵比寿さんに指摘されたこと。みぃんな同じ。でもね、それっておかしくありません?」
俺は、覚悟を決めてしっかり突っ込むことにしよう。
「さっき言ったはずです。みんな、壊れかけてるって。羽田さんは外から押し付けられたイメージの重さで潰されそうになってる。私は、そんなニンゲンじゃないのにって」
「……うん」
「じゃあ、藻原さんは? 藻原さんは、なぜ自分を出せないの? がんじがらめにガードをかけて感情を隠してしまうの?」
藻原さんの肩が小刻みに揺れ始めた。
「昨日今日そうなったっていう生易しいもんじゃないですよ。羽田さんが男女って言われてきたみたいに、藻原さんも小さな頃から感情がちっとも出せてないんじゃない? きっと、友達から気味悪いやつって言われてきたんじゃない?」
べそべそ泣き始めていた藻原さんが、こくりと頷く。
「そういう自分のネガティブイメージを少しでも改善するには、使う言葉をがさつにしておくのが有効。自分を支配しようとする権威者をそれで遠ざけ、自分と友達になってくれそうな人には親近感をイメージさせられるから」
「あああっ! そうっかあ!」
羽田さんが、ぽんと椅子から飛び上がった。今までどうしても分からなかった部分、その薄気味悪さが一瞬で吹き飛んだと思う。
「そんなの、どっかにでっかいトラウマが出来ちゃうアクシデントがないと、発生しませんよ」
ふうっ。専務が絡む以上、俺の方でオープンに出来る藻原さんのプライベートはそこまで。でも、それは異変の起点ではあっても今さらどうにも出来ないこと。そっちをいじる意味なんか何もないんだ。
「藻原さんは、自分の出来損ない部分を放置してきたんじゃない。それをカバー出来る方法を自力で工夫してきた。タメ口は処世術なんです。でも」
「うん」
羽田さんが、ぐいっと身を乗り出した。
「それは学生の時までの、有効期限付き手段だったんですよ。社会人になったらアウト」
羽田さん、呆然。どすんと椅子にへたり込む。
「あだだだだ」
「ですよね。でもね、機能しているように見えた藻原さんの処世術は、結局それまでも全然うまく行ってなかった。だって、藻原さんが調整したのは言葉や態度。見せかけの部分だけだもの。それじゃ友達が出来ない。心を見せない人には友達は出来ないです」
さっきまでは互いにライバル視するような尖った空気だったのが、一変した。心配そうに、羽田さんが俯いたままの藻原さんを見つめる。
「誰でもいい。私を助けて。誰か私の心に触って。全部とは言わない。ほんの少しでいいから私を理解して」
俺は身を乗り出して、藻原さんの顔の真ん前で確かめた。
「そうだよね?」
こくこくと二回頷いた藻原さんが、さっきの羽田さんと同じようにテーブルに突っ伏して号泣し始めた。
「ふうっ。藻原さんが僕に好意を持ったんじゃない。自分に対して露骨な無視や敵意を示す態度を取らなかったのが、お人好しの僕だけだった。そういうこと。僕は、救命ブイです」
羽田さんも、じっと黙り込んだ。
「そしてね。羽田さんもそうでしょ? 僕に逃げ込もうとした。お人好しで性格に角がない僕なら、きっと受け入れてもらえる。甘えさせてくれる。違います?」
羽田さんの口からはイエスもノーも出なかったけど。俺はこれ以上突っ込むつもりはない。
「ふうっ」
俺はね、そんなお人好しじゃないよ。俺のも羽田さんや藻原さんと同じで処世術なんだ。でも、それを見抜けないほどみんなが壊れかけてる。誰か助けてくれって言ってる。そして、それは俺も同じなんだよ。
女を二人も泣かして。あとでお袋にそう言われるんだろうな。でも、泣くのは二人だけじゃないよ。俺もこれから泣く。俺のはキリストの涙なんてきれいなものにはなりそうもない。黒い涙だ。真っ黒で毒だらけのイカスミ。きっとそうなるだろう。
(ラクリマ・クリスティは、和訳すればキリストの涙。イタリアワインの銘柄の一つ。ロッソは赤)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます