第18話 ディアボロ

 父親である専務も含めて、これまで藻原さんのタメ口や態度を矯正出来た人は誰もいなかった。本人が矯正を拒絶してるならもう退場させるしかないんだろうけど、地合いとして粗雑な部分がすぐむき出しになってしまうんじゃ……ね。そして藻原さん自身が、自分はこうだからしょうがないって開き直ってたんだ。俺や羽田さんが、これでもかと脅しをくれてやっても、ね。


 それは、藻原さん自身の確固たる意思でやってるわけじゃない。悪い意味での天然爆裂。細貝課長が言ってたそれが、表現としては一番ぴったりなんだ。しかも専務の過去がトラウマになってて、直そうとどんなに努力していても、上から目線を意識した途端にすぐ地合いに落ちちゃう。俺も、正直もう手詰まりかなあと思ってた。


 でも。明らかに潮目が変わった。きっかけはいくつかあると思う。手帳に書くことで緩衝帯を確保するという俺のアイデアは、かなりうまく行ってる。すぐに口から出すんじゃなく、間が取れるようになった。功罪それぞれあるけど、俺が設定した一週間という期限も、とりあえず彼女の真剣さを引き出すきっかけになってると思う。


 だけど、一番の契機は今回の成功だ。いや、成功っていうにはあまりに小さいことなんだけどね。でもお客さんが必要としてることを汲みあげるには、意識がちゃんとお客さんに向いてないとだめなんだ。それが出来ていたからこそ、あの質問が出た。そして、それに重要な回答をもらえた。

 売ってナンボの営業。でも売るために何がどれだけ必要なのかは、自分の目と耳と口を使って実体験してみないとなかなか分からない。体験で染み込んだことが彼女の意識を変えたんだ。それと、成果を出したことをみんながちゃんと評価してくれた。彼女の承認願望が満たされたこと。それは、すごく大きな推進力になったと思う。


 引けになるまでの間に。藻原さんは自分で明日の行動予定を立て、求められたアイデアのタマを清書した。そして、先輩たちにきちんと挨拶をしてから退室した。まだ言葉の端々にタメ口の名残があるけど、仕事に対する前向きさがきちんと見えるようになってる。まさに大進歩。


 ただ。一番厄介なところがまるっきりダメなままなんだよね。


 そう。実は、一番改善して欲しいところは言葉遣いや態度じゃない。彼女はそれに全く気付いてないから、一番厄介な欠点には改善の兆しが見られないんだ。残る二、三日でそこまで突っ込めるかどうかが極めて微妙なんだよなあ。


「まあ明日様子を見て、もうちょい突っ込むか」


◇ ◇ ◇


 そして、五日目の今日。彼女のこととは別に、どうにも厄介な問題が俺に降りかかっていた。


「ううー」


 行動予定を書いた手帳を睨みながらうなっていたら。河岸が突っ込んできた。


「おい、魚地。どうした? ベンピか?」

「あほ。ノジマのたこ親父から呼び出しさ」


 ぴゅん。俺がその名を口に出した途端、河岸が全速力で逃げた。あいつはいっつもそうだ。くそったれ! まあ、気持ちは分かるけどな。俺は十年に一度……いや一生に一度でいいな。あのたこ親父に会うのは。


 雑用が下っ端に落ちて来るのはしょうがないけど、雑用ってのは恐ろしく生産性が低いんだよな。その中でも、今日の訪問先の親父とのやり取りは地獄レベルに生産性が低いんだ。さしずめディアボロ……悪魔風か。激辛でもうまくて栄養があるなら我慢するさ。でも腹下すしかないような代物だったら、最初から食う気がしないよ。


「ふうっ」


 それでも、うちの取引先としては大きな方だから、へまは出来ない。ひたすら我慢するしかない。


「あの……」


 俺の溜息を聞きつけたのか、藻原さんがこそっとこっちを向いた。


「なに?」

「わたしのこと……ですか?」

「いや、違う。取引先から呼び出しがかかっててね。これからそこに行かないとならないんだ」

「魚地さんを指名なの、いや……指名ですか?」

「違うよ。うちの誰かを寄越せ、そう言ってきてる」


 きょろっと課室内を見回した藻原さんが、不思議そうに首を傾げた。


「こういうのも下っ端の仕事さ。しょうがない」

「クレーム?」

「似たようなもんだな」

「じゃあ、わたしも」

「絶対に無理」

「え?」

「ノジマの調達部長、半経なかみちさんていう人は、恐ろしいほどマナーにうるさいんだ。そのチェックの厳しさははんぱじゃない。そして、それしかない。他には何もない」

「うわ……」

「仕事の話なんか、とても出来ないよ」

「で、でも」

「きっと嫌な思いするよ?」


 俺は事務机の上に置いてあった背広を羽織りながら、でかい溜息をついた。


「はああっ。たとえばさ。今日出社する前にノジマからの呼び出しが分かってたら、俺はこれをぱりっぱりになるまでプレスしてから出社した。客先に来るのに、皺の寄ったスーツを着てくるのかおまえは! ……っていうレベルなんだ」

「ひ……」


 それにびびって引っ込んでくれればよかったんだけど。藻原さんには、昨日出たアドレナリンが中途半端に余ってたんだろう。けなげにもチャレンジすると言った。


「だって、楽なお客さんばっかじゃないって思う」

「まあね。その意欲は評価するけど、そもそもあれは客かなあ」


 まともに商談が出来ない相手はちょっと、ね。


 だいぶ迷ったんだけど、とりあえずたこ親父には会わさないで外で待たせればいいかと思って、一緒に行くことにした。


 正直、俺でもたこ親父はこなせない。難易度で言えばC、Dを通り越して、E難度だ。うちの社でも、出来ればあそこは切りたいと思ってるだろう。だって俺らが売っているのはあくまでも商品やサービスであって、媚びじゃないからね。お互いに気持ちのいい付き合いをしたい。それが本音。だから、そう出来ないところとは正直付き合いたくないんだ。はあ……。


◇ ◇ ◇


「お世話になります! 加直テクノスの魚地です。半経部長にお取り次ぎいただけますでしょうか?」


 社屋の受付で名刺を出して、挨拶をする。俺は藻原さんを中に上げずに、外で待たせておくつもりだったんだ。でもそういう時に限って、悪魔がにやりとほくそ笑む。


「そっちは、なんだ?」


 げ……部長御自ら、わざわざ入り口までお出迎えっすか。こらあ、手ぐすね引いて待ち構えてた感じだなあ。とほほ。今さら藻原さんを幽霊に変えるわけにはいかないし。しょうがない。


「当社営業一課に今週初に配属になった藻原です。まだ不慣れな新人ですのでいろいろとご迷惑をおかけすると思いますが、何卒ご容赦ください」

「そういう奴を連れてくるな! 邪魔だ」


 いきなり全開だよ。ううう。


「申し訳ございません」


 たこ部長の態度にあっけに取られていた藻原さんが、慌てて挨拶をした。


「加直テクノス営業一課の藻原小魚です。どうぞよろしくお願いいたします」


 その挨拶はシンプルだったけど、どこにも不備はなかったと思う。でも、たこ部長はいきなり真っ赤に茹だった。激怒モード発動。


「客に頭も下げんでつらっとしやがって! 出て行けーっ!!」


 しまったあ! 言葉遣いの方にばかり頭が言ってて、お辞儀させるのを忘れていた。や、やばい! たこの怒りに一度火がつくと、鎮火するのはもう無理だ。ひたすら謝り倒しながら即時撤退するしかない。俺は玄関先で這いつくばって、頭を床に擦り付けた。


「申し訳有りません! 私どもの教育不行き届きで、お客様に不愉快な思いをさせてしまい、本当に申し訳ありません! お詫びのしようもありません!」


 俺の土下座に慌てふためいていた藻原さんも、まずいと思ったんだろう。俺の横に同じように土下座して頭を下げた。


「ごめんなさい」


 あほんだらーっ! ごめんじゃだめだって! 友達に謝るんじゃないんだからさ! 最低でも申し訳ありませんだって! あーあ、だめだこりゃ。


「ごめんだと? この無礼者ーっ!!」


 やっぱり。たこ大噴火。


「誠に申し訳ありません。後ほど、改めてお詫びに伺います」


 俺は泣きじゃくっていた藻原さんを引きずるようにして、何度も頭を下げながら撤退した。昨日が吉日だとしたら、今日は厄日……いや天中殺だよ。とほほほほ。


◇ ◇ ◇


 とりあえず、ノジマのすぐ近くにある小さな児童公園に逃げ込んで、そこのベンチで一息つく。


「はあ」


 もう溜息しか出ない。


「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」


 まだ泣きじゃくっている藻原さんが、ひたすらごめんなさいを連呼している。


「だから言ったでしょ。あそこは無理だって」

「うん……」

「あそこは……藻原さんだけじゃなくて、誰でも無理なんだよ。あのたこは、仕事の話なんかしたことない。僕らを呼びつけていびるのが目的なんだ」

「ひ……どい」

「でもね。ああいう人もいるっていうのが、この世界さ。みんながみんないい人ってわけじゃない。君自身がそう言ってたじゃん。その最悪の例だよ」


 ノジマの玄関を指差す。


「ああいうところで話をしなければならない時には、ひたすら申し訳ありませんを連呼するしかないの。ありがとうございますや、よろしくお願いしますが役に立たないこともあるんだ」

「うー」

「でね、ごめんなさいは、友達相手の時にだけ使って。社の中でも外でもごめんなさいは絶対アウト」

「あ……」

「最低限が、申し訳ありません、そして、それだけでほとんど間に合うの」

「う……はい」

「覚えといてね」


 まあ、予想通りっちゃ予想通りさ。ここでネガを引きずってもしょうがない。ノジマだけがうちの取引先ってわけじゃないからね。仕切り直そう。


 さてと。一度帰社しようと思って立ち上がったら、ノジマの社屋から女性の営業さんらしき人が泣きながら飛び出して来た。


「あーあ。僕ら以外にも被害者がいたみたいだなあ」


 まだしゃくりあげてた藻原さんも、ゆっくり顔を上げてそっちを見た。で、その人の行動も僕らと同じだったわけで。僕らは泣きながら公園に入ってきた女性をお出迎えする形になってしまった。まだスーツ姿が初々しい新人さんな感じ。でも、抜けまくりの藻原さんと違って、相当気が強そうだ。ものすごく美人というわけではないけど、容姿のレベルは水準以上だと思う。


 んー? もしかして。


「あのー」


 声をかけてみた。悔しそうに泣いていたその女性が、俺の声にびくっと身を縮めて、それからこわごわこっちを見た。


「もしかして、南光産業の営業さんですか?」


 ぎょっとしたように、彼女がのけぞった。やっぱりそうか。


「ど、どうして」

「ああ、僕は加直テクノス営業一課の魚地と言います。彼女は同じ加直テクノス営業一課の新人で藻原です」


 俺は名刺入れから名刺を抜いて、彼女に手渡した。俺のアクションを信じられないって顔で見ていた藻原さんにも、同じように名刺を渡すよう促した。ライバルに手を貸すの? そういう不快感を隠さず、渋々名刺を渡す藻原さん。向こうも、俺らを敵に回してるっていう意識はあるんだろう。出したくない感満載で、のろのろと名刺が手渡された。


 ふうん。岩瀬みゆきさん、か。


「いえね、ノジマの調達部長が、箸にも棒にもかからないとんでもオヤジだってことは、この業界にいる営業さんはみんな知ってるんです。あなたがそれを知らなかったという時点で、新人さんだということが分かる。そして、このあたりのエリアはうちのお得意さんが多いですけど、南光さんにとっては新開地。チャレンジ、でしょ?」


 無言、か。


「あなたの積極性はすごいなと思いますけど、今のやり方じゃいつかあなたが潰れますよ。それだけ警告しておきます」


 俺は、藻原さんを促してベンチから立った。


「それじゃ、お先に」


◇ ◇ ◇


「あの……魚地さん」

「なに?」

「なんでライバルに手を貸すの……んですか?」

「手なんか貸してないよ」


 社に戻る電車の中。俺は、藻原さんの突っ込みをさらっとかわした。


「探りを入れただけさ」

「探り?」

「そう。彼女が社の指示を元に営業戦略を立てて行動しているなら、僕らは最大限備えないとダメ。昨日やったみたいにね」

「う……はい」

「でも、彼女が孤軍奮闘しているだけなら、それは続かない。僕らは警戒し過ぎない方がいい。僕の投げかけは、彼女の反応を見るためなの」


 藻原さんが、じっと考え込む。


「君なら、どっちだと判断する?」

「一人でがんばってる方」

「うん。僕もそう思う。それなら、警告を出して少し引かせた方が双方の損害を小さく出来る」

「あの……どして……ですか?」

「うちも南光さんも、売っているのは耐久性のある工具や機械だよ。食品や文房具みたいな消費材じゃないから、そんなにばかすか売れるもんじゃない。パイがそんなに大きくないのに、ノーガードの消耗戦をやらかす意味ある?」

「……ない」

「正解。元々持ってる販路以外の開拓は確かに必要だけどさ。それを仁義なき戦いにしても意味ないよ」

「そ……っか」


 昨日回った環状線東側。そこが宝の山か、誰かの食べカスかは、回ってみないと分からない。もし他の業者ががっちり抱え込んでる地域だったら、そこに殴り込みをかけるにはこっちに相当の覚悟がいる。飛び込み営業は、そういう斥候の役目もあるんだよね。


「あの、魚地さんは……あの人がどう動くか……分かるの? いや、分かるんですか?」

「さあ。あの接触時間じゃ何も分かんないよ。敵さんの今後の動きで判断するしかない」

「そう……か」

「これからもうちの持ち場にがんがん食い込んでくるようなら、本気で押し返さないとならないし、彼女がエリアを変えてくるようならあえて刺激しない」

「どして? ……ですか?」

「そうしないと、本当に彼女が沈没するからだよ」


 なんとなく不愉快なんだろう。藻原さんは、むすっと黙り込んでしまった。





(ディアボロは悪魔風という意味。開いた鶏肉に唐辛子や胡椒をまぶして焼いた辛いイタリア料理)

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