第10話 グリッシーニ

 明日回る得意先と飛び込み営業のエリアを決めて、手帳と卓上メモ、ノートパソコンのトゥドゥリストに記録する。


 細貝課長に押し付けられたとんでもない雑用って言っても、しょせんは雑用でしかない。はんぱないプレッシャーをかけられてる藻原さんにとっては大ごとでも、俺までそのプレッシャーを背負う必要はないわけで。それなら、まず俺の方から少しトーンを下げよう。イルマーレのご主人が言ってたみたいに、どこかに避難場所がないと身が保たないよな。今は、自分の家ですら針のむしろ状態だろうから。


 何かに取り憑かれていたみたいに手帳にびっしり書き込みをしていた藻原さんに、話しかける。


「明日の外回りの打ち合わせをしたいんだ。引けたらエントランスで待ってて」


 彼女が、こわごわ顔を上げた。


「あ、あの……」


 こそこそと手帳に何かを書いて、彼女がそれをゆっくり読みあげる。


「まだ、外回りに、出たく、ない、んです」


 まあ、そうだろね。


「だめ。一週間しかないから」


 藻原さんが、くったりとうなだれた。


「いきなり君一人で全部やれなんて言わないよ。でも、座学だけじゃ肝心なところがなにも分かんない。初日は、僕とお客さんのやり取りを完全スルーしてたでしょ? 違う?」

「う……ん」

「僕がお客さんとどういうやり取りをしたか。覚えてる?」


 藻原さんが、ゆっくり首を横に振った。


「だよね。そこからだよ」


 書き書き書き……。シャーペンをせわしなく動かしていた藻原さんが、それをゆっくり読み上げた。


「打ち合わせは、社内で、やらないの……じゃない、やらないんですか?」


 まだ取りこぼしがある。ということは、羽田さんは少し手加減してくれたってことだな。羽田さんが一番嫌うのは、だらけた態度と非生産的な感情の垂れ流し。でもレクチャーの間には、藻原さんからそういう面が見えなかったということなんだろう。最悪のネガティブ評価からは、少しだけ上げたんだ。うん。それを一つずつ積み上げていくしかないな。


「社内ではやらない。中でやると、悪い意味で監視の目があるからね」


 分かんないんだろう。首を傾げてる。


 最低最悪の評価を受けていれば、一挙一動が全部嘲笑のネタになっちゃうんだよ。俺らがオープンにやろうが、どっか閉め切ったとこでやろうが同じことさ。結局、誰かの目に付いたところでネタにされる。

 地味な俺は、もの好きなやつだなーで済んでも、藻原さんはそうは行かない。噂にもっと尾ひれが付いて、悪評がひどくなるだけだ。打ち合わせは、どうしても社員のいなさそうなところでやらんとさ。


「とりあえず、メシ食いながらやろう。おごるよ」


 ぽかん。藻原さんは口をまん丸に開いたまま、視線がしばらく俺の顔にピン留めになっていた。


「いやかい?」

「う……」


 次の『うん』が出る前に、慌てて両手で口を塞いだ藻原さんは、ほっとしたように答えた。


「うれしい」


 すかさず、手帳を指差してチェックを入れる。


「です!」

「う」


 まだ、全然ダメ。


◇ ◇ ◇


 グリッシーニ。細い棒のような形のパン。それが食卓に乗っていれば、木の棒と間違えることはないだろう。でも、それが路上に落ちていたら、木の枝と区別が付かないよ。

 藻原さんがおいしいグリッシーニなのか食えない木の枝なのか、俺にはまだ分からない。でも、少なくとも食卓に上げてみないことには確かめようがないんだよ。そして社内は、食卓じゃなく雑踏なんだ。藻原さんを木の枝として踏みつけようとするやつしかいない。だから、場所を変えないとどうにもならない。


 俺が藻原さんを引っ張っていったのは、イルマーレ。そう、俺が召喚術を見せて藻原さんを屈服させたあの店だ。当然、彼女も前と同じ店だってことが分かってて、怯えてる。思い出したくない、あの時の嫌な記憶が蘇るんだろう。だけど、俺は頓着しなかった。


「いらっしゃいませ。ご予約は?」

「取ってないです。二人」

「かしこまりました。こちらにどうぞ」


 俺を案内してくれたのは、オーナーの奥さん。俺が連れてきた藻原さんを見て、くすっと笑った。そうか、この子なのねって感じで。


「ご注文はいかがなさいます?」

「ミニコースを二つ」

「かしこまりました。メインはお肉とお魚、どちらになさいますか?」


 俺は藻原さんに先に決めさせた。


「選べるの? あ……選べる……んですか?」

「選べるよ」


 自分が魚にされるかもっていう恐怖。それが足を引っ張ったんだろう。本当は魚にしたかったのをあえて肉に変えたって感じで、藻原さんは肉をチョイス。俺も当然肉の方だ。オーダーを書き控えた奥さんは、丁寧にお辞儀をして下がった。


「ごゆっくり」


 最初はびくびくしてた藻原さんだったけど、昼に来た時と雰囲気が違うことに気付いたんだろう。こそっと店内を見回してる。


「あの……」

「なに?」

「ランチの時と……違う」

「違い」

「あ……違い……ますね」

「そ」


 俺も藻原さんと同じように、ゆっくりと店内を見回した。グラスエリアが大きいから、昼は明るく開放的な店内。でも夜は、通りに面した窓にブラインドが下ろされて内外が切り離され、包まれ感が強くなる。照明も輝度が下がって少し薄暗くなり、減った光量を各テーブル上にセットされている落射照明が補うっていう感じになる。そう、ムーディになるんだ。実際、昼は俺らのようなリーマンがメインだけど、夜はカップルが多くなる。俺らも着ているのがスーツじゃなければそう見えるかも知れないね。


「ここは気取った店じゃないよ。ランチは安くてボリューミーだし、ディナーも気楽に食べられるような感じ。なんと言っても、値段が安いもん」

「へー」

「さっき、ミニコースって頼んだでしょ?」

「うん……あ!」

「いいよ、うんで」


 俺は、はあっとでかい溜息をテーブルに転がして。もう一回店内を見回した。


「ミニコースは、品数を抑えてあるから2500円なの」

「わ! コース安ーい!」

「お酒やドリンク類は別会計になるけどね」

「ふうん」

「それなら、複数で来た時に会食費用が安く上がる。お客さんの接待なんかでも時々使ってるんだ」

「あ、そうか」

「呼ばれる方も、気兼ねなくごちそうさまって言える金額でしょ?」

「うん」


 くるっと店内を見回した藻原さんが、うんと頷いた。


「それで、学生カップルっぽい人が多いのかー」

「そ。夜は若いカップルで混むんだよね。団体さんも入るから、カップル専用って感じでもないけどさ」

「うん」


 ふう……。


「アンティパストが来る前に、ちょっと仕事の話をしとこうか」

「う……はい」

「ええとね。ここは会社じゃないから、ついうっかりはいいよ。ただ、意識はして欲しい。藻原さんは、今お客さんを相手に話をしている。そう考えて欲しいな」


 返事の代わりに頷いた藻原さん。


「ふううっ」


 もう一度、大きな溜息を吐き出してから、出来るだけ抑えたトーンで話を始める。


「あのね、僕や羽田さんのプレッシャー以前に、君はずっと前から崖っぷちに立ってる。もう後がないの。君が入社してから今までみんなに示してきた態度は、もし親のコネがない他の会社なら即日出社停止かクビのレベルなんだよ」


 藻原さんの目が泳いだ。僕だけでなく、羽田さんからも容赦ない強制指導があったんだろう。


「うちでそうなってなかったのは、親父さんの七光りがあったからじゃないよ。親父さんが君の盾になって、必死に君への逆風を防いでたからさ。でもね、親父さんが先回りして君を庇えば庇うほど、君も親父さんも立場が悪くなる。限界に来てると思う」


 かくん。頷いたっていうより意気消沈した感じで、藻原さんの首が折れた。


「今日顔腫らしてたのは、殴られたんでしょ? 親父さんに」


 もう隠しきれないと思ったんだろう。小さく頷いた。


「やっぱりね」


 ふううっ。ほんと、溜息しか出んわ。


「でもさ。僕は君の上司でもないし、君に何か命令出来る立場でもない。本当は、何かプレッシャーをかけて、君の言動をまともにする義理なんかどこにもないんだよ。だから冷たい言い方だけど。君に自分を直すつもりがないんなら勝手にすればって思う。君を魚にして食う気すら起こらない」

「どして……ですか?」

「君には食べられるところがどこにもないからさ。今の君は究極の猫またぎ。ちっともおいしくないから、誰も見向きもしない」


 藻原さんが、ぐっと詰まった。


「普通はさ。自分がそう見られてるって分かったら、ものっそ辛いんだよ。どっかにそれが出るんだ。態度とか、会話の中身とか。でも、君からは反発とか屈折した感情がちっとも見えないんだ。そしたら蟹江さんみたいな温厚で親切な人でも、君の真意を推し量れなくなる。君の一方的で乱暴な口調しか耳に残らない。だって、それしか判断材料がないんだもん」


 ぽたぽたと。藻原さんが涙をこぼし始めた。俺は静かにそれを指差した。


「ねえ。今君が泣いていること。それがね、無理解が悲しいからか、本当はそうじゃないのにって悔しいからなのか、僕には分かんないの」


 ふう。現状をきっちり理解させといて、と。本論はここからだよな。


「でね。まず最初に確認したい」

「は……い」

「君は、意地とかそんなんじゃなく、本当に心の底から今の仕事をしたい? 食らいつきたい?」


 俯いたまま、藻原さんが長考モードに入った。


「なにより先に、それが一番大事なんだ。仕事って、やってみないと分かんないとこがあってさ。やってみておもしろいなと思ったら突っ込めるし、こらああかん自分に合ってないと思ったら撤退するしかない」

「あの……魚地さんは?」

「僕かい?」

「うん」


 その返事をする前に、奥さんがアンティパストを持ってきてしまった。


「本日の前菜でございます」

「お! うまそう」

「グリッシーニが籠に入っておりますので、足りないようでしたらお申し付けください」

「ありがとうございます」


 一礼した奥さんがゆっくり卓を離れるのを待って、食事のスタートを宣言した。


「まあ、食べながら話しようや」

「うん」


 結局、うん、かい。まあ、しゃあないな。




(グリッシーニは、クラッカーのような食感を持った細長い棒状のパン)


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