第9話 ペコリーノロマーノ

「ふう……」


 昼飯後の後半戦。残念ながらこれといった成果はなかった。そういつも追い風ばっかは吹かないよな。


 知らず知らずのうちに、仕事の手詰まりはあいつのせいだと藻原さんを責めそうになって、慌てて自分を戒める。

 違う違う、そうじゃない。俺は細貝課長になんでもかんでも押し付けられて、藻原さんが来る前から結構キてたんだ。ぎりぎりこなせてたから、ぼかあんと爆発しなかっただけ。そのぎりぎりの状態だったところに藻原さんのケアが重なって、すごくヘビーに感じてしまった。それだけさ。


 さっきイルマーレのご主人に言われたみたいに、本来俺が彼女の面倒を見なければならない義理はどこにもないんだよね。何せ、俺に対応を丸投げした課長自身がもうコースアウトしちゃってる。ケアしろっていう出処が分からない命令だけが、ぽかんと宙に浮いて残ってるんだ。

 それならどんなに俺ががんばって彼女を世話しても、誰も喜ばないし努力を認めてもくれない。あんな出来損ないの女にかまうのか、物好きなやつだなって嘲笑されるだけだろう。それは、ものっそばかばかしい。


 ばかばかしいから、俺も放置プレイしちゃうってのもありなんだろうけどさ。さすがにそこまで冷血にはなりたくない。だって俺は……いや、俺だけじゃなく社内の誰も、そして藻原さんの親父ですら、タメ口っていう欠点だけに引っかかっていてそこから先に一歩も進んでない。彼女のポテンシャルを確かめて、それを活かそうっていう発想がどこにもないんだ。


 確かに、あのしょうもないタメ口をなんとかしないとならないのは事実。でも、だからって藻原さんの長所を何から何までタメ口と相殺してしまうってのもおかしな話なんだよな。


 社屋の入り口で一度立ち止まって、雑踏を振り返る。


「最初からやり直すかあ」


 そう。最初があまりにがさがさ過ぎたんだよ。社内の誰一人としてプラス評価しないトンデモ新人。その汚い伝聞情報だけが俺にインプットされて、どうしても真っ白な状態から彼女と向き合えなかった。もちろんそういう状況になったのは彼女が数々の黒実績を作ってしまったからで、俺のせいではない。藻原さんには全く弁解の余地がないと思う。

 でも、少なくとも藻原さんは白旗を上げてない。それが天然だからなのか、意地があるからなのかは分からないけど、逃げたりふてくされてるってわけじゃないんだ。それなら、少なくとも原点まで巻き戻して考えないとならないだろう。


 ただ、それをどうやってやるかなんだよなあ。


◇ ◇ ◇


 昨日の今日だ。どんなに脅しをくれてやっても、いつもの調子がひょいと一つ出ただけで、もうゲームオーバー。相手が羽田さんだからね。それなら、俺はもうかばいようがない。俺は課室のドアの前で何度も十字を切って、目をつぶってドアを開けた。


 ばんっ! 二、三歩踏み込んで、恐る恐る薄眼を開けた。


「お?」


 俺の隣の席に座って、藻原さんが手帳にせっせと何か書き留めている。羽田さんは電話でお客さんと忙しそうにやり取りしてるけど、ものすごく不機嫌ということもなさそうだな。なんとかしのげたか……。


 俺はものすごくほっとして、自分の机の上にカバンと背広をどさっと放った。


「ふうううっ」

「どうだった?」


 それが藻原さんの口から出たら、速攻張り倒してやるところだけど、俺に話し掛けてきたのは羽田さん。俺は席を立って、羽田さんのすぐ側まで移動した。小声で話出来るようにね。


「今日はダメな日でした。サンデンは、南光産業に持ってかれました」

「あだだ。トンビに油揚げかあ」


 羽田さんが頭を抱え込む。


「あそこはうちが総力上げてプッシュしてたから、絶対に落ちると思ったんだけどなあ」

「僕も楽観してたんですけど、南光産業の新しい営業さんがすごいやり手みたいで。うちと漁場がばっちり被りますし、引き締めて行かないと」

「へえー、ベテラン?」

「いえ、若い女の子だそうです。僕は直接顔合わせてないから、どんな雰囲気の人かは分からないですけど」

「ふうん、色仕掛けとか?」

「いや、多分そっち系じゃないですね。相当業界の諸事情に詳しいみたいで。正攻法だと思います」

「うぬぬっ!」


 羽田さんのプライドが許さないんだろう。額にみりみりみりっとぶっとい血管が浮いた。


「相手にとって不足はなし! おのれ、目にもの見せてくれるわ!」


 そうそう。羽田さんのエネルギーはそっちで使って欲しい。藻原さんのことなんかで気を散らしてるばやいちゃいますがな。


「あ、そうそう、羽田さん。彼女はどうでした?」


 じろっ! ものすごく険しい視線を藻原さんに向けて、羽田さんがゆっくり口を開いた。


「ねえ、魚地くん。彼女の口塞いだんでしょ?」


 羽田さんが、藻原さんの手帳を指差す。


「そうです。ただ……」

「うん」

「今日限定ですよ」

「なぜ?」

「羽田さんから見捨てられたら、この社では生きていけないからです」


 いつもはもう少し丸めた言い方にするんだけど、俺はあえて直球を放った。


「いきなりマイナスをプラスには出来ませんよ。僕だって、入社したばかりの時にはぴよぴよでしたから。今だってまだぴよぴよですけど」

「うん」

「それでも、ゼロのところまでは持って行かないと何も始まりません」

「そういうことか……」

「少なくとも今日僕が外を回ってる間は、羽田さんとの関係を中立にキープしておかないとならない。それだけです」

「じゃあ、明日から?」

「一緒に回ります。もちろん、根回しはしますけどね」

「課長もいないのに突っ込むね」


 呆れたように、ぽんと突き放される。


「ねえ、羽田さん」

「なに?」

「僕は温厚でお人好しだと思ってますけど、最初から『出来ません』て言うのだけは大嫌いなんです」


 にやっ! 羽田さんが不敵に笑った。


「ほう?」

「入社したての時に、目一杯叩き込まれたPDCA。でも、彼女に関しては計画も、実行も、検証も、改善も出来る段階じゃない。それ以前。そして、それは必ずしも彼女の責任じゃない」

「そう?」

「だって、僕らは彼女に関してまだ何も分かりませんから。あの、しょうもないタメ口以外はね」

「ふん」


 羽田さん的には不満なんだろう。そんな、構ってやるほどの価値があるのかよって感じで。まあ、今の時点では確かにそう。『話す』というツールが壊れてて、しかもその行使を禁止されていたら、何も出せない。マイナスが出てこないのはいいけど、プラスも出てこないんだ。


 藻原さんの中身を確かめるには、口を封じたままじゃどうにもならない。タメ口をある程度許容して、彼女の本音や能力を引っ張り出さないとならないんだ。そして、今そういう対応が可能なのは俺しかいない。

 そりゃそうさ。俺以外の全ての社員は、藻原さんの親父も含めて彼女を敵視するか無視してる。誰もが絶対に関わりたくないと思ってるだろう。それじゃあ、もし藻原さんが少しましになったって、いつまでもコミュニケーションが成立しないよ。


 俺も、あのクソ生意気なタメ口はものすごく頭に来たけどさ。でも冷静に考えてみたら、何をどうしても悪癖が直らないってのはおかしいんだ。あれは、どう考えても天然だからっていうレベルじゃない。その謎を解くことが鍵なのに、誰一人そこに突っ込まないってのが……。


 もちろん会社ってのは、練成道場でも精神科の病院でもない。たんまりある業務をざばざばこなさなければならない以上、現時点ではお荷物そのものの彼女にかまってられないっていうみんなの意識は理解できる。そして、俺もその意識が強い。だからいきなり深いところまで突っ込むんじゃなく、まず原点に戻すところからやろう。


 丸かじりしたって、ただしょっぱいだけのペコリーノロマーノ。むしゃむしゃ食べたいって人はいないだろう。だけど削ったり粉にしたりして料理に加えたら、相乗効果で料理もチーズもおいしく感じるんだ。藻原さんについても俺らが工夫して、そこまで持っていければいいけどな。さて……。


「それじゃ」

「あ、ちょっと待って」


 ちらっと藻原さんに目をやった羽田さんが、ぐいっと顔を突き出してきた。


「ねえ、魚地くん。ほんとに大明テックと西田興産、彼女に任すの?」

「最終的には、です。今はまだ全然無理ですよ」

「うん」

「コミュニケーションの問題だけじゃない。技術的な説明がきちんと出来るようになるまで勉強してもらわないと、先方のリクエストが理解出来ないと思うんで」

「当然よ!」

「逆に言えば、そっちで先に営業への適性が分かるんじゃないかな」


 もう一度藻原さんに鋭い視線を飛ばした羽田さんが、ふんと鼻を鳴らした。


「手取り足取りじゃないのね?」

「そんな余裕ないですよ。僕は一番下っ端ですから。でも、専門知識を求められる営業が彼女にこなせるかどうかは、誰かが付いて見てないと分からないかと」

「うん。確かにね」

「もし、そういう仕事に適性がないって分かったら、それは正直に申告するしかないです」

「誰に?」

「部長に、です。後任の課長がまだ来てませんから」

「一週間ていうデッドリミットは、そういう意味で生きてるってことね」

「そうです。適性検査期間。だから期限は延ばしません」

「おけー。わあた」


 不機嫌そうにパンフを膝に叩きつけた羽田さんが、それをぽんと机の上に放り出す。


「もうちょいまともなやつを上に付けて欲しいなー」

「ですよね。細貝さんの後釜は特に」

「期待薄だよ」


 いつでも強気の表情を崩さない羽田さんにしては珍しく、はあっと溜息をついて背もたれにぐったり体を預けた。


「現場をよく知ってる人は、地味で昇進出来ない。売り上げの数字しか見えないやつが上に来るんだから、誰がやっても結局同じよ。勘弁して欲しいわ」


 ぎん! 羽田さんが、目を釣り上げて藻原さんをにらんだ。おー、こわこわ。


 俺も心情的には羽田さんと全く同じ意見だ。でも、それとこれとはごっちゃにしないようにせんとさ。




(ペコリーノロマーノは、羊の乳を原料にしたハードタイプのイタリアのチーズ。塩気が強いので、すり下ろしたり削ったりしたものを料理に加えて使用することが多い)



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