第7話 ピッツァ マルゲリータ

「どう考えたっておかしいよなあ」


 翌、火曜の朝。いつもより二時間早く出社して、がらんどうのオフィスで藻原さんが来るのを待ってる。


 昨日の打ち合わせでも、俺の指導や苦言が全然効いてない。無視してるっていうより、俺に言われて初めて気付くって感じだ。確かに、課長が言ってたみたいな『悪い意味での天然』なんだ。俺に言わせてもらえば悪い意味どころじゃない。最悪の天然だよ。それで今までトラブルがなかったって言うのが不思議なくらいだ。


 いや……待てよ? トラブルがなかった? いや、トラブルはこれまでいっぱいあったんじゃないかな。友達が多いとはとても思えないし、それなりにステータスのある大学でいい成績残してたなら、普通は親のコネを頼ることなんかしないだろう。やる気のないぐだぐだっていうならともかく、仕事はきちんとこなせるんだから。でも、あのタメ口爆裂じゃ採用面接をクリア出来るわけないじゃん。


 だけどそこそこ金持ちの娘なら、トラブルから来る不利益が生活に直結しないんだろう。失敗しても自分に実害がないから、ものすごく鈍感なままなんじゃないかなあ。金持ちにありがちな高びーなところはないにしても、俺ら庶民の苦労を理解しているとはとても思えないんだ。だから常識論が一切通用しないんだろう。俺が今やってるみたいに、生命の危機を意識させて、恐怖で押さえ付けないと自分を手直ししようとしない。


「うー。俺にはきついなー。どうすべ」


 こらあ一週間なんかじゃとても無理だわ。藻原さんがそのタイムリミットに難色を示したのも当然だ。彼女は、頭の中で一度考えて話を調整するってのが出来ないんだろう。どうしても思ったままがすぐ口から出てしまう。出てしまった後で俺にど突かれて、慌てて訂正するのが精一杯。それじゃあ、どんなにがつがつ叩き込んだところで効果なんか最初から期待出来ない。


 俺が命じたことで藻原さんが実行出来るのは、現時点では黙ってるっていうことだけだ。昨日はそれであの禍々しい口を抑え込んだ。今は、黙ってるかタメ口垂れ流すかの二択しかない。

 いや、今はいいよ。今だけならね。でも今のままじゃこの課では生きていけない。この課だけじゃないよ。どの社でも、どの社会でも、どのコミュニティでも無理だろさ。黙ってろってのは、一切の自己主張をするなってこと。死ねっていうのと同じだから。


 かと言って藻原さんの口封鎖を解けば、今度はあのしょうもないタメ口が人の感情を逆なでして、敵意をがんがんぶつけられるようになるだろう。これまでそれが表面化しなかったのは、あくまでも親の七光りがあったから。でも、そんな威光は社内でしか機能しないよ。子会社専務の任期なんか、せいぜい二、三年かしかないんだしさ。


「はあ……」


 細貝課長の無責任にやけがさして、投げやりに世話を飲んじまったけどさ。やっぱ頭に血が上った状態で何かを引き受けたり、決断したりっていうのはまずかったよなあ。

 いや、俺がヘマってどっか飛ばされるとか、クビになるとかならまだいいよ。俺にはリターンマッチのチャンスがあるから。でも、一番条件がいいうちの社で藻原さんが大炎上したら下手すりゃ人生終わりだろ。本人がそれでもいいって開き直ってるならあれだけどさ。天然じゃ……なあ。


 ぐうう。


 腹が鳴って我に返る。そういや、今朝は早出で朝飯食わずに来たんだっけ。事務机の上に置いてある宅配ピザのチラシがやけに恨めしい。


「ああ、一番安いマルゲリータでいいから食いたい」


 ピザ生地に、トッピングはチーズとバジルだけのマルゲリータ。生地やチーズの味わいがストレートに出るシンプルなピザは、素材そのものを味わうって感じなんだろう。じゃあそれを誰もがおいしいと言ってくれるかってーと……微妙だよね。シンプルな分、一切のごまかしが効かないから。


 藻原さんは、そのマルゲリータにちょっと似てるかもしれない。天然素材が全部そのままだからな。でも少なくとも俺には、トッピングで乗っかってるのがバジルじゃなくてパクチーに感じるんだよ。あの、くっさーいカメムシの臭いそっくりのやつ。


「はあ。ほんとに大丈夫なんかなあ」


 藻原さんに対する怒りより、彼女の将来に対する不安の方がどんどんでかくなってしまう俺は、やっぱりどうしようもなくお人好しなんだろなー。


 空きっ腹を抱えてもんもんと考え込んでいるうちに、どんどん時間が過ぎる。


「七時半には来いって言ってあったのに、もう八時になるじゃねーかよ。早く呼びつけた意味ないわ」


 俺のいらいらが頂点に達しようとした時、息急き切って藻原さんが部屋に飛び込んできた。


「ご、ごめん、遅くなって」


 何度言っても分かんない、しょうもないタメ口。かっとなった俺は全力でどやしつけようとして……固まった。


「おい。それ、どした?」


 化粧で隠そうとはしているけど、両方の頬が赤く腫れている。目蓋も腫れ上がった状態だ。誰かに殴られて、そのあと泣いたって感じだな。カレシのDVか? いや、彼女の性格なら、とてもカレシなんか出来やしないだろう。じゃあ……可能性があるのは、親父さんか。


 何でもすぐに口に出す藻原さんが、俺の制止なしに黙ってしまったこと。それは、どうしても言いたくないってことなんだろう。


「言いたくなきゃいいけどさ。でも、それじゃ外回りが出来ない。今日はしょうがないな」

「うん」

「うんじゃない、はい!」

「う……はい」


 ふう。思わず天を仰ぐ。いくら行動や言動をチェックして直させても、次の瞬間にはもう地が出てしまうんじゃどうにもならない。きっと、蟹江さんはそれでぶち切れたんだろう。人の言うことをまじめに聞いてるのかって。

 話を聞いてないわけじゃなく、その補正がかかる前に口からコトバが吐き出されちゃう。それを防ぐ唯一の方法が黙る、なんだ。今みたいにね。


 きっと、羽田さんとの間でも同じやり取りになるなあ。そして、羽田さんは温厚な蟹江さんと違う。一回でもタメ口が出たら、即ぶっちされるだろう。その時点でアウトだ。


「きっつー」


 頭を抱え込んでしまった。


「どしたの?」


 ごん! 頭にげんこを落とした。


「いったあ……」

「じゃないでしょ! 僕は鉄拳一回でも、羽田さんの前でそれやったら生首飛ぶよ!」

「ひっ」

「ったく!」


 こらあどうにもならんな。どうすべ。矯正にはものすごーく時間がかかるのに、あと一時間もしないうちに矯正しないとならないってか。ううー。


 途方に暮れて事務机の上を見回しているうちに、ぽんとアイデアが湧いた。


「そっか! そういう手があるじゃん」

「なに?」


 ごん!


「いったあ……」

「いい加減、返事の仕方を覚えろよ! なんですか、でしょ!」

「う、な……んですか」

「藻原さんが口を開くたびに一々鉄拳飛ばしてたら、君の頭より先に僕の拳が壊れる」

「そう?」


 ごん!


「いたあ」


 もう……拳が痛いよ。


「そうですか、だろが!」

「うう」


 だめだ。彼女が何か言うたびに矯正するっていうやり方は、あまりに効率が悪すぎる。さっき思い付いたアイデアをすぐ実効に移そう。


 俺は事務机の引き出しを開けて、大判のビジネス手帳を一冊引っ張り出した。


「君が何か言う時には、口から出す前にここに書いて、それを自分で添削してから口にして。会話の効率はものすごーく下がるけど、生存率は上げられる」

「生存率? 何それ?」

「イエロー一枚、二枚目で君は魚」

「ひ……」

「ってこと。僕のはまだマシだよ。君には魚として生きられるチャンスがあるんだから。羽田さんの前でタメ口かましたら、即墓場行きだ」


 そう。藻原さんが思ったままを口にしちゃうなら、その思考と言動の間に、強制的にフィルターを噛ますしかないよね。手帳に書くという行為は、指示や情報の記録に普段から使うから不自然じゃない。記録と同時に自分の発言を文章にして、それが基準に合ってるかを確認してから『読む』。

 当意即妙の受け答えは出来なくなるけど、少なくとも相手の逆鱗に触れるリスクは大幅に下げられる。会話のテンポをぎりぎりまで落として、口にする前に中身を確認しながら会話するってことに慣れないと、どうにもならない。しばらくは会話っていうより筆談に近くなるだろう。でも、俺はそれしか対処法を思い付かなかったんだ。


「昨日僕が言ったことを、もう一度復唱します。会話は必ずですますで終えること。うん、ううん、は厳禁。はいといいえ、ね」


 なんでそんなバカバカしいことを書かないとならないの? そんな表情で、藻原さんがそれを書き留めた。


「もうすぐ羽田さんが来ます。羽田さんがしてくれる業務に関する説明は、一言一句聞き逃さないできちんと書き込んでください」


 ぼーっとしてたから、念を押す。


「書いてっ!」

「あ、う……でなかった、はい」

「ちゃんと書いてから返事して」

「今のも?」

「イエロー、にーまーいーめー」

「ひいいいいっ」


 床にしゃがみこんじゃった。


「毎回毎回、生命の危機を感じながら仕事したい? それが嫌ならちゃんと書いて。それから口にして!」


 恐怖のあまりぶるぶる震えながら、藻原さんが俺の指示を手帳に書き留めた。もういっちょ、ダメを押しておこうか。


「昨日言った一週間ていう期限。あれにはちゃんと理由があるの。羽田さんに説明したのは建前さ」


 ぼーっとしてたから、手帳を指差す。藻原さんが、慌ててシャーペンを動かし始めた。


「一週間後に僕の郷里で従兄いとこの結婚式があってね。僕は、祝儀として魚を持って行かないとならないんだ。同族の式だから、絶対に欠席出来ない。僕は海神の縁続きでね。普段は陸上生活をしてるけど、祭典や婚儀の時には海底に戻る」

「ひいっ」


 藻原さんの顔色が、俺以上に青くなった。彼女は、これで俺に一切逆らえなくなるはずだ。


「婚儀に献上する魚は、元々は人間であったものに限られる。人間が僕らを捕らえて食う報復として、僕らの同族は人間を魚に変え、それを婚儀の饗宴に出す。もちろん、僕は魚介類苦手だから喜んで魚を食べるってことはないけどさ。でもルールはルールなんだ」


 ぴっ! 藻原さんを指差した。


「僕らは誇り高き一族さ。君から投げつけられた侮辱は絶対に我慢ならん。下等な人間の分際で! そのクソ生意気な物言いをなんとかしない限りは、君を魚に変えて饗宴に出す。活き造りだ。覚えとけ!」


 衝撃的な話に真っ青になった藻原さんは、慌ててこくこくと頷いた。


「こうやって筆記しろっていうのは、僕の最初で最後のサービス。それ以上は一切手助けしない。活き造りにされたくなかったら……」


 つん。人差し指で藻原さんの額をつつく。


「がんばってね」


 にやあっ。




(ピッツァ・マルゲリータは、トッピングがチーズとバジルだけのシンプルなピザ)


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