第6話 ペッシェヴィーノ ビアンコ
午後。午前中と違って、藻原さんは俺の制止なしに完全に黙り込んだ。昼メシを食った店で俺が目一杯ガチ入れたこと。それが、ものすごく堪えたんだろう。
俺が藻原さんの前でやって見せたことは手品なんかじゃない。それこそタネも仕掛けもない。あれは俺の能力だからな。能力って言っても大したもんじゃないけどさ。俺がいつからそういう能力を持ってることに気付いたのか、自分でも覚えてない。でも魚の骨や貝殻みたいな魚介類の残骸を握ると、それが生きている小魚や貝や蟹になるってことが分かったんだ。いや、それだけなんだよ。
それは蘇生とか化身とかいうご大層なもんじゃない。むしろ召喚に近いのかなあと思う。だって魚の骨が魚に、貝殻から貝に戻るわけじゃない。現れるものが何かは、握った手を開くまで俺にも分かんないんだ。
ただね、自分のことをさかのぼってずーっと考えてみたら、俺にはどこかに半魚人の血が混じってるんじゃないかと思うんだよね。魚介類が嫌いなのは、共食いを避けるため。異様な顔色の悪さは、俺に遺されている魚の方の血の影響。ソラスズメダイかなんかなのかな。風呂に入るとすごく開放感を覚えるのは、俺の先祖がかつては水の中で暮らしていたからかなーと。
だからと言って、そういう名残が人間としての俺の生活をねじ曲げるほど強いかと言うと……そんなこたあないわけで。泳ぎは下手だし、実際に海で溺れかかったこともある。えら呼吸が出来るわけじゃないからね。顔色以外は、魚の痕跡を感じさせるような身体的な特徴はどこにもない。どこをどんな風にひっくり返しても、紛れもなく人間だ。あっち系も含めてね。
まあ、顔色とささいな召喚能力だけなら実生活には何も影響しないから、俺は自分の馬鹿げた推理をあの能力のことも含めて誰にも話したことはない。ただ……俺が自分の顔色の悪さを逆手に取って仕事に利用しているように、今まで何の意味も持たなかった召喚能力もどっかで出番を待っていたということなんだろう。願わくば、それが本当に最初で最後の人前披露になってくれるといいけどね。
とりあえず俺の奥の手で、藻原さんのしょうもないタメ口を塞ぐことには成功したようだ。あとはそれを持続させるだけでなく、他の社員がみんなきちんとこなしている一般的なビジネスマナーのレールの上に乗せるところまで持って行きたい。
いや、箸にも棒にもかからない腐れ女なら、俺も最初から見捨てるよ。でも、どう見ても藻原さんのは天然ぽいんだ。つまり、雑な口の利き方が元で自分の生命や尊厳が危うくなるっていう経験がないんだろう。恐ろしく無垢なんだよな。
だけど、会話ってのは単なる情報伝達手段なんかじゃない。それを通じて話し相手の感情や意図を探り出し、自分の感情や意図の出し入れを調整するための大事なコミュニケーションツールなんだ。その重要性と怖さが経験不足で理解出来ないなら、駆動力がたとえネガであっても、今のうちに努力して一般的レベルまで鍛えとかないとさ。ずっと保護シェルターの中で暮らしてくってわけには行かないんだから。
藻原さんが首になろうと、誰かの標的になってぼこられようと、そんなのは俺の知ったこっちゃないけど、誤解が元で全部失うよりは厳しい教育的指導の方がまだマシでしょ。
朝オフィスを出る時にはきびきび藻原さんにげっそり俺の組み合わせだったのが、外回りが終わって戻る頃には見事に逆になった。ドナドナ状態の藻原さんを、俺がどやしどやし引きずって帰るってことに。
帰り着いた俺らを見て、みんなは藻原さんがどこかでお客さんを怒らせたと考えただろうな。ざまあ見やがれ、と。まあ、そう思ってもらっといた方がいいよな。
俺が彼女に見せた召喚術は、もし人に漏らしたって絶対に信じてもらえない。あんた脱法ハーブでもやってんのと気味悪がられるのがオチだ。それに、俺はあれをもう人前で見せるつもりがないからね。
でも『いい加減にしないとおまえを魚にしてやるぞ』っていう脅しは、ピンポイントに藻原さんだけに効く。刃物みたいな凶器で脅されたってことじゃない以上、彼女は『俺から離れない限り』脅威から逃れることは出来ない。そして、俺は業務命令で彼女の面倒を見ろと言われてる。指揮権は俺にあるんだ。藻原さんは俺の指示に従うか、自主的に会社を辞めるかしかないってこと。
さて。鉄は熱いうちに打とう。
「うーす。羽田さん、ちょっといいですか?」
ほらやっぱりドジったんでしょという呆れ顔で、冷ややかに藻原さんを見下ろしていた羽田さんに、今日の成果を報告しておく。
「うまく行った?」
「大明テックと西田興産は新規取れそうです」
「うわお! よく押せたね」
「僕だけでなくて、うちの課の誰か彼か日参してますからねえ」
「あはは。もろ物量戦だよね」
「はい。でね」
「うん」
「契約まで行ったら、その二社は藻原さんに御用聞き任せようと思うんですよ」
「ちょっとっ!!」
きーん! 耳がぶっ飛ぶかと思ったよ。
「それは……自殺行為よ」
「これまでならね」
「は?」
羽田さんの目がまん丸になった。
「どういうこと?」
「僕は今日一日藻原さんをずっと黙らせてましたから、彼女は何もヘマをしてません」
「えー? 本当?」
「藻原さんにガチ入れたのは、お客さんじゃないです。僕ですよ」
「魚地くんが? 信じられないけど。上ですら手を焼いて放り出してるのにさ」
「そりゃそうですよー。専務が睨み利かせてる以上、誰も彼女の首に鈴付けられるやつはいないですから」
「だったら、魚地くんも同じじゃない」
「社員としてなら、ね」
じろっ。俺は首を回して、背後にいた藻原さんをねめ付けた。
「取りあえず、うちの戦力になるところまで営業の基本を叩き込まないとならないので、これから空き時間を使って指導します。羽田さんも手伝ってくださいますか?」
「彼女、出来るの?」
「出来なかったら、破滅ですよ」
俺は藻原さんの顔の真ん前に自分の顔を突き出して、にやあっと笑った。
「なー?」
こくこくこく。俺の地顔に負けないほど真っ青になってた藻原さんが、慌てて何度か頷いた。
「へー。まあいいけどさ。あんたが私らに生意気な口利いたら、その時点ですぐにサポ切るからね。私は本当に忙しいの。グズのけつ拭いてる暇なんか、これっぽっちもないから!」
き、きっつぅ。羽田さんも、藻原さんとは別の意味で口が災いしてるよなあ。これじゃあ、どんなに美人でも言い寄れる男がいないよ。
「さて。じゃあ、僕は課長に今日の報告を上げてきます」
にっ。恐ろしいほど涼しい笑みを浮かべた羽田さんが、右手を首に当ててすぱっと横に切る真似をした。
「え?」
も、もしかして。先週課長にガチ入れるって言ってたの、本格攻撃だったん? ぞわわわわわっ!
慌てて、人事課の掲示板を見に行ったけど。細貝課長の首ちょんぱは解雇じゃなくて、営業所長への配転だった。でも、誰がどう見ても大幅な降格。突然の人事だったし、しばらく課内が混乱するだろうなあ。はあ……。
◇ ◇ ◇
急遽ミーティングルームを押さえて、緊急の作戦会議。と言っても、俺と羽田さんと藻原さんの三人だけだけどね。本当は上司である細貝課長に仕切ってもらって、藻原さんの指導に道筋を付けて欲しかったんだけど。羽田さんを激怒させた時点でアウト、か。はあ。
藻原さんが本当に陥落したのなら、マナー教育は人事でもう一度再研修って形にして欲しい。自分の仕事がてんこ盛りにあるのに、藻原さんの世話を背負わされるのは本当にしんどいんだよ。冗談抜きで。
だけどパイプ役の課長がいないと、俺が直接人事に物申さないとならない。ぺーぺーの俺がそんな偉そうなこと言えるわけないじゃんか。細貝さんの代わりの課長が来るまでは、俺が指導を肩代わりするしかない。しゃあない……。
「ねえ、魚地くん。具体的にどうするわけ?」
「羽田さんは、仕事の部分だけぎっちり教え込んでくれませんか? うちの課に来た以上、いつまでもお客さん気分は困ります。一刻も早く営業に慣れて、仕事を分担してもらわないと」
「そらそうだ。じゃあ、マナー関係は魚地くんが指導するのね?」
「最低限は、ね。僕だって、まだ偉そうに人を指導出来るようなレベルじゃないすよ。僕らが普段気を使ってるところを、彼女にも叩き込みます。それ以上デリケートなところは、研修受けてもらうしか……」
「妥当な線ね。リミットは?」
「一週間」
「えーっ!?」
それまでじっと黙り込んでいた藻原さんが、血相を変えて立ち上がった。
「一週間でも、かなりの猶予だと思うよ」
「そ、そんなあ」
「あのね、君がものすごーくバカでもの覚えが悪いっていうなら、時間はもっと必要なんでしょ。でも、蟹江さんのところでは仕事をこなせてたって聞いてます」
それは初耳だったらしい羽田さんが、ぐいっと首を突っ込んでくる。
「ねえ、魚地くん、それほんと?」
「蟹江さんは、温厚だって言っても仕事にはきっちりですよ。その蟹江さんが『出来る』って評価してるんだから、間違いないです」
「ふうん……」
「当然、僕や羽田さんも最初に受けてるマナー研修、その内容を理解出来ないわけないんです」
「そりゃそうだ」
「ということは、研修の内容を理解出来ないとか覚えられないんじゃない。あえてそれを無視してる。マナーを守るつもりがない。そういうことでしょ?」
黙り込んだ藻原さんを、ぎっちり睨みつける。
「だから、マナーをこれからわざわざ勉強して覚える必要なんかないですよ。それはもう知ってるはずです。一週間ていうのは、誰がマナーなんか守るもんかっていう、君のはた迷惑なクソ意識を完全に作り替えるまでの期間」
藻原さんの鼻先にぐいっと指を突きつけて、ガチ入れた。
「いい? 覚悟さえあれば、そんなの一瞬で出来るの。一週間なんか全然必要ない」
「あのさ、魚地くん。それなのに、なんで一週間なんていう生温いデッドリミットにするわけ?」
「僕が出先でとばっちりを食わないようにするためです」
「了解」
さすが、羽田さん。俺がゆるめの履行期限を設定した背景をちゃんと読み取ってくれた。
これまで失礼な物言いを直そうと思ったことのないずけずけ姫。どんなに心根を入れ替えたって、きっと悪い癖が無意識にひょいと出て来ちゃうよ。それを出先でやらかしてお客さん怒らせたら、もし藻原さんに悪気がなくてもアウトさ。もちろん、目付役だった俺まで巻き添え食って撃沈しちゃう。おまえ、どんな指導してるんだって言われてさ。藻原さんにとってだけじゃない。俺にとっても、どうしても猶予が必要なの。
「じゃあ、明日からスタートね」
羽田さんがそう言って席を立ったから、速攻で訂正した。
「何言ってるんですか、羽田さん。『今』からですよ」
「はははっ!! 魚地くん、見かけによらず厳しいねえ」
「いやあ、僕は蟹江さんほどじゃないけど、温厚ですよ。羽田さんも、僕が怒ってるのは見たことないでしょ」
「そっか。確かになあ」
「藻原さんは、滅多に怒らない僕を怒らせたんです。そして、お客さんで僕より温厚な人なんか誰もいませんよ」
「そだね。まあ、しっかりやって。私はそっち系、指導は一切しない。結果だけ見る」
「はい。よろしくお願いします。お疲れさまでした」
よろしくは俺が言うことじゃないよなあ。結局藻原さん、つらっとしてるし。
案の定その態度にかちんと来たらしい羽田さんが、藻原さんの正面に回り込んでスーツの胸ぐらを掴み、えげつなく凄んだ。
「あんたがヘマこいてうちの課の業績にミソ付けたら、
◇ ◇ ◇
一人減って。藻原さんと二人になる。
「羽田さんに目を付けられてるっていう状況は変化なし……いや、悪化かあ」
厄介だよなあ。羽田さんは、敵側に置いた人への攻撃は本当に情け容赦ない。羽田さんが俺らの上司だっていうならパワハラだけどさ。そうじゃないからね。立場は俺らと変わらないから、立場を悪用してるっていう抗議は出来ない。しかも羽田さんには、藻原さんに譲歩しなければならない理由が何もない。もちろん、猛者の羽田さんには、藻原さんが専務の娘であることなんか何も影響しない。
「あの……」
それまでずっと黙ってた藻原さんが、こそっと口を開いた。
「わたしって、だめなの?」
「誰が見ても、くっきり、きっぱり、思いっきり、全力で、間違いなく、どうしようもなく、天地神明に誓って、だめ」
この際だからはっきり言っておこう。
「さっき羽田さんが部屋を出る時、君はずっと黙ってたよね」
「うん」
「明日から仕事の手ほどきしてくれる人に、お願いしますも何もない。お疲れさまでしたの一言もない」
「え?」
おいおいおいおい。
「どんなに君があいつ気にくわねーって思ってても、それをストレートに態度や口に出したらその日のうちにアウトだよ。君が社長ってわけじゃないんだからさ」
俺はちゃんと理詰めで話してるつもりだし、その理屈が難しいとも思っていないんだけど、表情を見る限り全然分かってなさそうだ。こらあ、ちょっとやすっとの練習じゃどうにもならないかもなあ。前途多難だよ。とほほ……。
ビアンコ。無垢の白。白には、どんな色にでも染まりますって場合と、絶対に他の色に染まるもんかって我を張る場合と、両方あるんだろう。そして藻原さんは、間違いなく後者だ。俺なんか、面倒くさいからすぐに染まっちまうけどなあ。
「まあ、いいよ。一つ一つ手直ししていくしかない」
「どうやって?」
藻原さんの額に指を突きつけた。
「え?」
「この場で魚にされたい?」
「ひいっ」
「それがいやだったら、会話の後ろがですますで終わるようにして」
「ですますって?」
「どうやって、じゃだめ。どうやってですか、さ。それならぎりオーケー」
「う……」
「それと。返事は全て、はいかいいえでね。うん、ううんは論外。おい、返事は?」
「う……は……い」
はあ。もう溜息しか出ない。
「あのさ。藻原さん、僕に負けたって思ってる?」
藻原さんが、ひょいと首を傾げた。うーん、気の強さみたいなのが露骨に出るわけでもないんだよな。だからこそ、かえって相手を怒らせちゃう。だって、どうして生意気な態度を改めないのかが、ストレートに分からないもの。
まあ、ここは筋論で押しとこう。
「僕が君をへこまして勝ったって何の得もない。逆に、僕が君に負けたところでなんの損もない。そんなのどうでもいい」
「そうなの?」
言ってる端からっ! でこぴんじゃ!
こん!
「てっ!」
「もう約束を破ってるでしょ。だから一週間の猶予なの!」
「うう」
「優劣とか勝ち負けより、普通に仕事が出来るよう気を付けた方が、お互いに楽でしょ。それだけなんだよ」
「ふうん」
はあ。だめだ。全然効いてねーじゃんか。これじゃあ、どんだけ時間がかかるか分からんわ。一応もう一つ重石を乗っけとこう。
「君は羽田さんから業務関係の指導を受けることになるけど、彼女を怒らせたら冗談抜きに
「へ?」
「課長の首が飛んだでしょ? どっかに飛ばされるって意味ならいいけど、リアルで首ちょんぱかもよ。羽田さん、冗談大っ嫌いだし」
ざあっ。顔色を失った藻原さんが、わなわなと唇を動かした。
「僕に魚にされるのと、羽田さんに惨殺されるのと、どっちがマシ?」
だめ押しはしたけど、結局どこかで緩んじゃうだろうな。でも、俺らが手を貸せるのはそこまでだよ。
「今日はここまでね。お疲れさま」
ぼーっとしていた藻原さんに止めの一発。
「返事は?」
「あ……」
「明日、羽田さんに
「わああああっ! ご、ごめんてば!」
だーめだこりゃー。
(ペッシェヴィーノは、魚の形をした瓶で有名なイタリアのワイン。ビアンコは白)
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