第4話 プロシュット
週明けは、まさにブルーマンデイ。いもしない神様に祈ったのがよくなかったのか、それとも神様の性格がくそ意地悪かったのか。何度寝直しても見る夢がとんでもない悪夢で、寝起きの気分は最悪だった。水面に浮上出来ないままげっそり顔で出勤したら、早速河岸にイジられた。
「うーす、魚地。どうした? いつも以上に顔色悪いぞ?」
「ううう、ここんとこ夢見が絶悪でよ」
「どんな夢?」
「巨大イソギンチャクにとっ捕まって、生きたまま食われる夢」
「おまえもえれえ変わった夢見んなあ」
「言わんでくれ」
魚介類苦手だから、そっち系のひどい殺生はしてないはずなんだけどなあ。まあ、夢はしょせん夢だし。それだけストレスが強くかかってるってことなんだろう。
いよいよ今日、か。
いつもは活気で満たされている課室内が、今朝はぴんぴんに張り詰めていた。それもそのはず。部屋のど真ん中にいる羽田さんが、がっつり腕組みをしたまま戸口を睨みつけてる。もし目からビームが出るなら、入口ドアがもう木っ端微塵になってるだろう。それくらい視線がきつい。
羽田さんの標的が先週言ってたみたいに課長だったら、どうそお好きにしてくださいと言えるんだけど、どう見てもそうじゃないだろなあ。もし、今日来る子が噂通りの問題児なら、その子がうちの課から退場になるまで徹底的に攻撃すると思う。でも、その間に俺が挟まるっていうシチュは、どうにもこうにも。なんだかなあ。
戸口に足音が近付いてきた。みんな手を止め、室内がしーんと静まりかえる。いよいよお出ましだ。怖いもの見たさか、河岸が席から伸び上がった。俺も同じ体勢を取る。どれどれ。
がちゃっ。静まり返っている室内では、ドアノッチの外れる音がまるで拳銃の撃鉄を起こすみたいに響く。全員の視線が一点に集まる中、へっぴり腰の課長がぴしっとスーツを着こなした女の子を連れて入って来た。課長は、その子を全然見ていない。おどおどと羽田さんの顔色をうかがってる。先週、羽田さんにぐうの音も出ないほどやり込められたんだろうなあ。あーあ、どっちが上司なんだか分かりゃしない。
「ふうん」
意外だなーという感じの声が河岸の口から漏れた。それは俺も同感だ。
長身の羽田さんとは対照的で、小柄な子だ。髪はショート。着ているスーツは高級そうだけど、メイクは薄いし、けばい感じはない。それより、めっちゃかわいい系じゃん。そこも羽田さんとは対照的。
羽田さんは顔もボディも彫りが深い。口を開かなくても、そこにいるだけでずっしり存在感がある。でも、この子は、口さえ開かなければアニキャラの雰囲気だ。男にはきっとちやほやされるだろう。口さえ開かなければ、ね。
羽田さんが猟犬のグレイハウンドだとすれば、この子は愛玩犬のポメラニアン。室内の世界しか分からないから、恐れとか怖さを知らない。俺は、そんな印象を持った。もっとも俺の顔色と同じで、外見からの印象なんざクソの役にも立たない。気を引き締めてかからないと。
目の端で羽田さんの表情を確かめながら、課長が新人の紹介を始めた。
「えー、本日付けで営業一課に配属となりました、
でも。その子は課長の紹介に頭を下げるでも相槌を打つでもない。物珍しそうに部屋の中をきょろきょろ見回しているだけ。こいつぁ、聞きしに勝る大物だなあ。
苛立ちを顔に出した課長は、棘のある口調で藻原さんの挨拶を促した。
「君からも」
「あー、藻原ですー。今日からここだって言われて。席どこー?」
全員、目がテン。よろしくお願いしますも、がんばりますも、仲良くしてくださいも、なーんもなし! お辞儀すらしない。こらあ……親のコネでどこかにねじ込んでおかないと、一生社会適合出来ないタイプと見た。これまでどうやって生きてきたんだか。怒りよりも呆れが先に来て。俺はしばらく口があんぐり開きっぱなしだった。
苦り切った顔で、課長が俺を指差した。
「魚地くんの隣の席だ。仕事も魚地くんに指導を頼んである。分からないことがあったら、なんでも彼に聞いてくれ」
そう言い終わるや否や。まるで化け物屋敷から逃げ出すかのように、課長が全速力で離脱した。いや、課長だけじゃないね。このクソ女に関わったら巻き添えを食っちまう、そういう危機感が充満していた室内から一人また一人と外回りに飛び出していった。あのすちゃらかの河岸まで。部屋に残ったのは、立場上逃げられない俺と、すでに戦闘体勢に入っている羽田さん、そしてまだ落ち着きなく室内を見回していた藻原さんだけだった。
なんだよう、この塩対応。薄っぺらでしょっぱいだけの生ハムみたいだ。少しくらいは、誰か一人くらいは、俺に手を貸してくれたっていいのに。頭に来る以前に、やる気がもりもりなくなる。
「はあ……まず自己紹介しようか。みんな外回りに出ちゃったから、僕と羽田さんだけ前倒しで」
先に、薄笑いを浮かべたまま藻原さんをじろじろ見回していた羽田さんを紹介する。
「
「間に合わないの?」
いきなり来やがったな。羽田さんなんかに全然興味ないって感じ。ほらほら、羽田さんの額にみりみりっと青筋が浮いた。さっさと面通しを済ませて、俺も離脱しよう。心臓に悪い。
「それはいいから、あとは僕の名前と顔を覚えて」
「ふうん」
「僕は
「それなのに指導役なの?」
おい……。ほんとに口が悪いな。いや壊れてるね。こらあ、怖くて出先で挨拶なんかさせられないよ。
「そんなのどうでもいいだろ? 君に頼まれたからするわけじゃないんだ。業務命令だからね」
藻原さんが、露骨に不満そうな表情を浮かべた。自分の扱いが不当だと思うんなら、なんでそうなってるのかをちゃんと考えて欲しいんだけどなあ。それが出来るようなら、もうとっくにまともになってるか。うう。
ともかく。この子と二人きりで課室にいたんじゃ全く仕事にならない。営業への適性も見ないとならないし、課長と再交渉するにも具体的な材料が要る。しょうがないね。外に連れ出そう。お客さんに失礼があった時には、試用期間の見習いなので至らないところはどうかご容赦くださいと、俺が謝り倒すしかない。
まず、俺のスケジュールを先に詰めておこう。
「羽田さん。午前中和田精工にもう一度攻勢かけます。午後からダメ押ししてくれませんか? たぶん、それで落ちるんじゃないかと」
怒りで煮えたぎっていた頭が、ちょっとだけ冷めたんだろう。羽田さんが、さっと席に戻りながら背中で答えた。
「お願いね。私も、書類片付けたら出るわ」
「はい!」
ほっ。
(プロシュットは、豚のもも肉を原料とし、燻製にせず塩蔵熟成させたイタリアの生ハム)
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