第3話 インサラータ
「ぐえー」
仕事量はいつもと変わらないはずなのに、ぐったりくたびれ果てて帰宅。物理的な忙しさには慣れたけど、こういう気疲れってのはしんどいものなんだなあ。入社してから今までそういう経験をしたことがなかったから、余計にぐったりくる。
ライティングデスクの上にコンビニで買った夕飯のビニール袋を置いて、ちらかってきた部屋をなんとなく見回す。そろそろ掃除しないとなー。かったりー。二十代も後半に入ると、男の一人暮らしにじわっと哀愁が漂うようになるっていうけど、まさにその通りの部屋だよなあ。
仕事に慣れて給料がそこそこ上がれば、オフの過ごし方が充実してくるはずなんだけどさ。それは、余裕かましてる奴が言うことであって、未だにひぃこら言いながらやっとこさ仕事をこなしてる俺の日常は、悲惨そのものだよ。食うもんだって、ほとんど出来合いばっかだし。
コンビニの袋から飲み物を出して、冷蔵庫に放り込む。腹は減ってるけど、俺の場合はメシより前に風呂だ。それも、シャワーなんかじゃ我慢出来ん。バスタブにたっぷりお湯を張って、じっくりと浸かるのが俺の流儀。湯が溜まるのを待つのももどかしく服を脱ぎ散らかして、もうもうと湯気が充満していくバスルームに飛び込む。
あなた、お風呂を先にしますか、ご飯を先にしますかって聞かれるシチュなら、それは二度と聞かなくていいよ、いつでも風呂が先……ってことだな。ははは。
超特急で顔と髪、体を洗って。
ざぶん! 音を立ててバスタブに体を放り込み、手足をゆったり伸ばす。
「ふうう。生き返るなあ」
世の中が、自分の思うように動いてくれることなんかほとんどないわけで。俺はいつも、自分を削って世の中に合わせてる。当たり前だけど、それじゃいつかは自分が擦り切れてなくなってしまう。目減りした自分をふやかして戻す儀式ってのが、どうしても要るんだよね。俺にとっては、このバスタイムがそれだ。汗を流せばすっきりするっていうだけじゃない。俺には、水に抱かれている感覚っていうのがどうしても必要なんだ。
まだ母親の胎内にいた時の、羊水に浸かっていた時間。何も考えずにただ眠って起きてを繰り返し、その間に自分がどんどん構築されていくっていう不思議な感じ。風呂に浸かっている間は、その原点まで戻れるって言うかさ。なんか、自分が作り直されてく感じがするんだ。だから仕事でどんなにストレスを抱えていても、それを翌日まで引っ張ったことがない。
「ぶむ」
バスタブに半分顔を沈めて、ぽこぽこと泡を吐く。
「でもなあ。初めて、翌日まで持ち越しそうだなあ」
快適なバスタイムでもリフレッシュし切れないでっかい心配事。だけど、来週にならないとそれがどんな展開になるか分からない。心配し過ぎてもしゃあないか。俺は、勢いよくバスタブから飛び出した。
「さて、メシにすっか」
◇ ◇ ◇
「えぷ。食った食った」
と言ったら、本当にがっつり食べるやつから呆れられるだろうなあ。俺は少食の上に、食うもんが野菜中心だからなあ。主食の白飯の他は、サラダ。そんだけ。いや、戒律守るために菜食主義ってわけじゃなくて、単に野菜が好きなんだよね。肉はともかく魚介類苦手の俺は、ビニ弁がしんどい。へたすりゃ、食う分より捨てるところが多くなるから。どうしてもこういうコンビネーションになっちまう。
食う量が少ないから、当然食い終わるまでの時間も短い。食事は、俺にとっては栄養補給に必要であっても、決して楽しみにしている時間じゃない。そこが結構厄介なんだよな。そう、宴会の時に困っちまうんだ。酒も苦手な俺は、飲みにケーション、食べにケーションの時間がしんどい。でも、どうしても付き合いってのがあるからなあ……。
俺からしてみたら、顔色の悪さと性格とはまるっきりマッチしていない。悪いのは顔色だけで、決して性格が悪いわけじゃないと思ってる。でも顔色のハンデ分、そこでのマイナス印象はどこかで消しておかないと俺の信用や評価にはねちまう。だから、宴会やコンパには積極的に出るようにしてるんだけど。
もう一つ。俺には、外見と中身が一致しないことがあるんだよな。
俺は、決して見かけや食事内容のようにこてこての草食系ではないんだ。人並みに女の子には興味があるし、いい子がいれば付き合いたいなーとは常々思ってる。ただ、そういう腹ン中と俺の顔色とがまるっきりマッチしないんだよ。
そらあそうだろさ。まるでゾンビのような死に損ない風のオトコを、普通の女の子がセレクトしてくれるか? 中身で勝負って言っても、やっぱファーストインパクトの影響は大きいからね。事実、俺は生まれてこのかた、ただの一度も女の子と付き合えたことがない。クラスメートとかに『いい人』って言ってもらえたことはあっても、そこから先にはほんの一歩たりとも進めたことがない。俺自身も、どうしても腰が引ける。目の前であんたの顔は生理的にダメとか言われた日には、速攻で首吊りたくなりそうだからな。
ハンデがあるんだから、まじに出会いの機会を作らないとなあ。職場や得意先で女の子と知り合うチャンスがないわけじゃないけど、仕事が絡むとすごくめんどくさくなる。俺がコクって玉砕すると、すぐに情報が流れて仕事にはねちまうだろう。かと言って、街コンとかにせっせと出るには、ゼニコと時間が。どっかで今の状況を変えないとならないんだろうけど、ちんまりサラダ食って満足してるようじゃ、なかなかなあ。
「あーあ、俺なりに期待はしたんだけどなー」
思わず愚痴が口をついて出た。
そう。新人の女の子。仕事の面では役立たずでも、やっぱ若い女の子がいるって華じゃんか。意識するじゃんか。競争率高くなるだろうけど、俺にもチャンスあるかもって思うじゃんか。それがなんだよ。最初からユメも希望もこっぱみじんこ。がっくりの俺に、女の子の皮を被った悪魔の面倒を見ろっていうのは二重三重にしんどいわ。
まあ週明けの状況を見て、また考えよう。俺の見かけと中身が一致しないように、新人の子も噂先行で、実際はもうちょいマシなのかもしれないし。
「……んなわけないよな」
とことんお人好しの自分に呆れながら、ライティングデスクの上の弁当殻を片付ける。サラダの入っていたプラケースをティッシュで拭いて、コンビニのビニール袋に放り込んで。少食だと出るゴミが少なくて済むのよー……って自分で言ってて情けなくなるわ。ったく。
せっかくの花金を課長に押し付けられた厄介ごとで台無しにされて、テレビを見る気にも音楽聴く気にもならない。久しぶりに土日連チャンで休みになるのに、気分が盛り下がったままごろ寝だけで終わりになりそうだ。
「俺は、枯れちまったじじいかよ」
いかんいかん。気持ちを切り替えないと、どこまでも沈没する。こういう時はさっさと寝るに限る。早寝する代わりに、明日は冬物の服と靴でも見てこようか。
スウェットに着替えて、パイプベッドの上にごろんと転がる。
「ああ、神様。どうか、俺にその子の指導役がなんとかこなせますように」
信じてる神様なんかどこにもいないけど一応そんな願掛けをして、携帯のアラームをセット。それから、リモコンで照明を落とした。
ぴ。
目の中に残るシーリングライトの円光。それがゆっくり闇に食われていくと同時に、睡魔が俺をするすると眠りの海底に引っ張っていった。
「ぐう……」
(インサラータは、イタリア語でサラダのこと)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます