第2話 アンティパスト
普段は仕事の愚痴や不平不満を漏らしたりしない俺が、不機嫌爆裂で椅子に体を投げ出したのを見て、おかしいなと思ったんだろう。すぐに河岸から探りが入った。
「よう、魚地。えれえ長かったな」
「まあね。聞きたくない話がてんこ盛りだったよ」
「なんか、へまやらかしたんか?」
「そんなんじゃない」
「ふうん。それよかうちに新入りが来るってよ。聞いてるか?」
「ああ」
「総務で干されたとんでも女らしいけど、なんでうちに持ってくるんかなあ」
そうか。課長の方からみんなには伝達済み。それも表だけでなく、裏情報も込みでってことか。外回りで課室にいなかった俺への伝達がラストになって……最後にババ引いちまったってことだ。とほほ。
俺ががっくり肩を落としたのを見て、河岸が首を傾げた。
「なにへたれてんだよ。俺らには関係ねーだろ?」
おまえはお気楽でいいよなあ……。俺はげっそりだよ。
「課長の話ってのはそれ。俺が、その新人の面倒を見ろとさ」
「!!!」
がらがらがらがらっ!
河岸がのけぞった勢いで回転椅子がスピンアウトし、たまたま後ろに立っていた
「ちょっとっ! 気をつけてよっ!」
「すみません、すみません、すみません」
ぎょろっと羽田さんに睨まれた河岸が、慌てて椅子を押しながらへこへこ自分の席に戻った。
羽田さんは俺より三つくらい年上で、うちの課の紅一点。そして、女優ばりの美貌からは想像もつかない猛烈な仕事人間だ。色気のいの字もこぼさずに、外回りの時以外は朝早くから夜遅くまで部屋のど真ん中に陣取って、信じられない量の仕事をこなしてる。うちの課の成績がいいのは、間違いなく羽田さんの功績なんだよね。
莫大な仕事量をこなして成果を上げてるから、主任も課長も羽田さんの意向には絶対に逆らえない。立場的には俺や河岸と同じヒラなのに、うちの課では誰も彼女に頭が上がらないんだ。論でも態度でも実績でも絶対に歯が立たないから。
美人で仕事も出来るのにうちの課の牢名主化してるのは、羽田さんが理不尽なことを絶対にスルーしないから。相手が俺らだろうが社長だろうが、戦うとなったらまさに鬼神。誰が相手でも容赦しないし、相手が息絶えるまで攻撃の手を緩めない。恐るべき猛者だ。その羽田さんからしてみれば、お人好しで小間使いな俺やどこまでもすちゃらかの河岸は問題外どころか銀河系外のソトのソトなんだろう。攻撃対象にすらしてもらえない。
もっとも、主任や課長も羽田さんのご機嫌伺いをしてるくらいだから、表面上は平穏無事。うちの課はメンバー間の大きなトラブルもなく、和気あいあいで実績だけががんがんうなぎ登りだったってこと。表向きはね……。
だけどさ。それは、うちの課がいつもど真ん中に核爆弾抱えてるのと同じことだよ。誰かが羽田さんを怒らせれば、その直後から大騒動が勃発しちゃうんだから。それなのに、なんでわざわざ火種を……超訳ありの新人を放り込むんだ?
いや、うちの課が社のお荷物だって言うなら別だぜ。でも、羽田さんだけじゃなくやり手の社員が多いから、うちの課は新規顧客獲得数や売上げ実績が群を抜いてる。間違いなく稼ぎ頭なんだよ。それを知ってて火薬庫に火を点ける上層部は、何を考えてるのかよう分からん。まあ、下々の俺らがぐだぐだ心配することじゃないけどさ。
それよか、自分のことだよ。羽田さんのご機嫌がどうこう以前に、俺がそいつにぶち切れそうになるだろなあ。俺だって、蟹江さんほどじゃないけど基本こてこての穏健派なんだよ。出来るだけ波風は立てたくないんだ。なんとか丸く収めたいけど……難しいだろなあ。
結局、怒りは持続しないで、出てくるのは溜息ばっかだ。
「はあ……」
「気の毒に。それにしても、なんでおまえが教育係なんだ?」
「そんなん知らんわ!」
「課長に押し付けられたかー。おまえも人がいいからなあ」
「ちぇー。今日ほど自分の性格を呪ったことはないね」
「そんな災難がぶっ飛んでくりゃあ、顔色が悪くなるのも当然か」
「これは生まれつきだって」
「ははは。分かってるって」
そうなんだよね。俺にはこれといった特徴がない。頭脳は人並み。行動力はある方だと思うけど、徹底的にごりごり押すっていうよりまめに足で稼ぐタイプだ。性格は温和で、どっちかっつーとことなかれ。引っ込み思案でも出しゃばりでもないけど、自慢できる性格かと聞かれたら、それには疑問符が付く。せいぜいお人好しですーって自虐かますくらいだなー。誠実だとは思うけど、商売的にはあまり売りにならない。それだけなら覚えてもらえないからね。
でも輪郭のぼんやりした性格の割には、お客さんにすぐ覚えてもらえる。それは、性格ではなく容姿の方でね。俺は半端なく顔色が悪いんだ。新しいお客さんのところに行くと、必ず体調を気遣われるんだよね。大丈夫ですか、生きてますか、救急車呼びましょうかってね。ガキの頃から、あだ名がゾンビだったからなあ……。
でも、容姿に特徴があるっていうのは決して悪いことじゃない。この顔色が俺の単なる個性だっていうことさえ分かってもらえれば、それは立派な看板と名刺代わりになるからね。だいたい一発で顔と名前を覚えてもらえるし、取り引きや打ち合わせもスムーズにこなせる。
いわゆる顧客満足度ってことで言えば、俺はかなりいい線行ってると思うんだ。自慢じゃなく、ね。そりゃそうさ。この顔色じゃ、俺がどんなに偉そうなことをかましてもそういう風に見えないんだもん。お客さんにとっては、俺の普通のお願いがまるで臨終前の遺言みたいに聞こえてしまうらしい。はははのは。
俺は意識的に同情を買おうとしてるつもりはないんだけど、お客さんより偉そうに見えることがない自分の容姿はがっつり利用してるつもりだ。
「さてと。今日はもう上がるわ」
「お、珍しいな。いつもはもっと粘るのによ」
「明日に備えて、少しは英気を養っておかんとさ」
「……てか」
「うん?」
「本当に大丈夫なんか? そいつ、とんでもなくヤバい話しか聞こえて来ねえぞ?」
「言わんでくれ。ううう」
すちゃらかお気楽の河岸すら警戒してるんだから、何をかいわんや。ふう……。
俺の漏らした溜息に気付いたらしい羽田さんが、振り返って俺をじろっと睨んだ。
「魚地くん、マルサンの発注、取れたの?」
「取れました。明日、註文書を送るのでよろしくって言ってましたよ」
俺を睨んでた羽田さんの表情から険が取れて、口角がひょいと上がった。
「助かる。和田精工の方、もうちょい押しといてくれる? あとで私もダメ押しに行くから」
「うーっす」
「まあ、なんとかなるでしょ。がんばって」
へ? 珍しいこともあるもんだ。羽田女史の口から、俺ごときにそんな励ましの言葉が出るなんてね。
「気が重いっすけどね」
「まあね。課長には、これからガチ食らわしたるわ!」
ぞわわ。そっちに行ったか。まあ、いいや。俺的には、まだ前菜も来てないのにもう腹いっぱいって感じだよ。とほほ。
「じゃあ、お先っす!」
「おつー」
「お疲れ様ー」
(アンティパストは、イタリア語で前菜のこと)
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